月島部長の場合
03
月島部長に任された、はじめてのプロジェクト――それ自体は本当になんの問題もなく進んだ、拍子抜けするほどに。
私は軽い足取りで、なんなら鼻歌だって歌い始めそうな心地で、歩きなれた廊下を進む。
「来たか、神崎」
恒例となった週に一度のミーティング、または打ち合わせ。それを予定していた会議室の扉を開くと、今ではもう見慣れた笑顔が私を迎え入れる。
「お待たせしましたか?」
「いや、私も先ほど来たばかりだ、良いタイミングだったな」
初対面の時からは考えられないような友好的な言葉にも私は特に驚くこともなく、「それは良かったです」と言いながら用意した資料をカバンから取り出した。
「ではさっそく本題なんですが……――」
そう言った私の話に耳を傾ける彼の口元が緩やかな弧を描いているのを見ながら、私はこの半年のことを思い出していた。
まず、取引相手の鯉登さんは名前だけではない人だった。ずっと一緒に仕事をしていた中で、彼の実力は本物なのだと感じさせられることが何度もあった。
「ふむ……その条件であれば――」
すらりとした指が私の持っていた書類の一部をなぞる。切長の目が見つめる先の文章を読みながら、私も「それなら」と話を詰めていく。
彼の着眼点はいつも鋭い。彼の会社と……彼と取引を始めてから、私はずっと彼に学びっぱなしだった。これで私と同世代だというのだから、本当に尊敬の一言に尽きる。
「……なのでもし御社がよろしければ、これからはこちらの内容で進められたなら私共としても有難いですね」
「そうか……うん、いいだろう、それでいこう」
「! ありがとうございます!」
ふふん、と何故か得意げな彼の表情は近しい人に見せるそれそのもので、私ははじめて会った日の彼の顔を思い出し思わず苦笑いをこぼしてしまった。
当初はそれこそ私が姿を見せるたび「なんだ、お前か」とでも言いたげな眼をしてこちらを見ていたものだが、時が経つにつれ――私が鯉登さんへの敬意を強くするにつれ――その態度は軟化していった。きっと、その気持ちが言葉にせずとも伝わっているのだろう。なにせ、月島部長曰く「お前も同じくらいわかりやすい」と言われてしまう私だから。
「……? どうかしたか」
「いえ、なんでもないです」
そんな私を訝しんだ彼がほんの少し眉根を寄せる。しばらくはそんな顔も見なかったもので、あぁ、険しい顔を向けられないくらいには気を許されてるのかと自覚し、今度は心からの笑顔が溢れた。
「しかし思ったより早く話がまとまってしまったな、どうする、もう戻るか」
「ん……今は急ぎの仕事もないですし、鯉登さんさえよければ今日も少しお話して行きませんか?」
「俺は構わん ……時に神崎、鶴見殿は……最近、その……どうだ?」
そわそわ、そわそわ、そんな擬音が似合う様子の彼がおかしくて、私の口からはまた笑いが漏れる。私が促されるままに鶴見専務の話をすれば、彼は顔を輝かせてその話を聞いていた。本当に専務のことが好きなのだろう。……その気持ちは正直理解はできないが。
「そうか……他には!」
「他、ですか……? うーん、月島部長ならもっと何か知ってるかもしれませんが……」
あらかた話し尽くしたと思ったのだが、鯉登さんから「もっと」を催促され、私は少し頭を悩ませる。同じ会社とはいえ私はただの平社員、専務である彼と接することはそうそうない。
そこで、あっ、と一つ思い出す。そういえば、今日は何やら月島部長に飲みに誘われているのだ。彼なら鶴見専務のこともよく知っているし、きっと酒の席でならぽろりと面白い話をこぼすこともあるだろう。
「そういえば、今日の夜部長と飲みに行くんです、もしよければ――」
「鶴見専務殿も来るのか!?」
「あ……いえ、専務は――」
「おいもいくッ!!」
――私が彼の勘違いを正す暇もなく、彼はそう言って私の手を握った。そうして、意気揚々と「ではまた業務後に!」と言って会議室を後にする。
取り残された私は気まずさと申し訳なさを感じながらも、まぁ、楽しそうではあるから、良いか。などと、呑気なことを考え息を吐いたのだった。