月島部長の場合
04
空けられた複数のグラス、そして酒の瓶。……その中で、頬を赤くしながらも少ししょんぼりとしている、鯉登さん。
この飲み会が私と月島部長と鯉登さんの三人しかいない、と彼が気づいたのは居酒屋に入ってすぐのこと、「それで専務はいついらっしゃるんだ?」とニコニコする鯉登さんに、「来ませんよ?」と部長が返したその瞬間だった。
「ぐっ……! たしかにきちんと確認しなかった私が悪いが……!」
「不満があるなら帰ってもらって大丈夫ですが」
はぁ、とため息を吐く月島部長。彼の周りにも、下げきれずに取り残された空のグラスが多数。酒に強いことは知っていたが、こんなに飲んでいてまさかの平時と同じ対応とは恐れ入る。
そしてその二人に対してアルコールには強くない私。……いや、弱いわけではないのだ決して、この二人がうわばみなだけで。
「まぁいい、お前たちがいるのだし……それに、大衆酒場にくるのははじめてだ、思いの外面白いものだな、月島!」
「はぁ、そうですか」
気を取り直したのかまた元通りの満面の笑顔を浮かべ、彼はキョロキョロと周りを見渡した。彼は本当にこういうところははじめてのようで、改めて生活圏の違いというか……本物は違うな、と、ちょっと羨望のようなものを感じ酒を煽った。
「それにしても月島、私が来なければ神崎と二人で飲みにくるつもりだったのか? 珍しいな、お前が人と二人で飲みに出るのは」
「はぁ、まぁ……そうですか?」
先ほどと同じような返事を繰り返しながら、彼は日本酒の入ったおちょこをぐいと傾ける。私はいつもより早く動く自身の心臓の音を聞きながら、「珍しいんですか?」と鯉登さんに聞き返す。
「そうだな……月島とは長い付き合いだが、見たことがないな」
「へ、へぇー……そうなんですかー……」
――じゃあ、なんで、今日の飲み会は二人きりの予定だったんだろう。
てっきり私も、他の人を誘っているものだと思っていたし、だからこそ鯉登さんにも声をかけたのだが……実際に居酒屋に向かってみれば、そこにいるのは三人だけ。もし、もし私が鯉登さんを誘っていなければ、本当の本当に、私は部長と二人で飲むことになっていたということである。
(……もしかして、もしかしてだけど、部長も、私のこと……)
そんな有り得ないだろう想像をして、私の頬はお酒とは違う理由で熱くなった。それが彼にバレないよう軽く俯いていると、「酔ったのか」と彼に声をかけられてしまう。
「い、いや、そんな……酔ってるように、みえました?」
「耳が赤い」
「あ……そっか、それは……隠せないですね……」
さらに熱くなる顔を冷ますみたいに、私は手にしたグラスを飲み干した。無理するな、と言った彼の声色が優しく聞こえるのは、気のせいなんかじゃなければいいのに。
「……なんだ月島ァ、そういうことか貴様!! 破廉恥なやつめ」
「なんの話ですか……」
「ふん、黙っちょっても無駄じゃ、おいは全てわかっちょっ!」
酔った鯉登さんが方言混じりの早口で月島さんに詰め寄った。その様子を無の表情で見つめ返しながら、「知っているも何も、私はただ……」と部長が言葉尻を濁している。
「ただ、そろそろこいつも酒の飲み方くらいは覚えておくべきかと思っただけだ」
「…………の、飲み方、ですか……?」
「あぁ」
以前、無理な量を飲まされていたことがあっただろう? 今後またああいう飲み会がないとも限らん、俺がいないこともあるだろう。だから今のうちに自分の限界を知っておいた方がいい。俺と二人なら無理に飲ませる奴もいない、酔い潰れたとしても家まで送っていける。お前にも都合が良いと思ってな。
……そんなことを言っているような気がする。気がする、というのは、ちょっとショックで私の意識が遠くに飛んでいたからだ。
いや、まぁ、そうだろうとは思う。まさか本当に部長が私のこと好きなのかもなんて期待していたわけではない。本当に思ってない、そんなことこれっぽっちも。
だけどまさか、部下として好かれているから――などでもなく、そんな、部下の面倒をみるのは上司の責任とでもいうような、そんな、義務みたいな理由で――
「――すいません、ビール、大ジョッキ追加で」
――これは、もう飲むしかない。
私は自身の自惚れと悔恨を、アルコールと共に喉の奥へと流し込むことにした。
……そして数時間後、流し込んだものはすべて、便器の中に吐き出すことになる。
「お……えぇ、……っ……」
個室に充満する脂とアルコールの混ざった嫌な臭いに、再度吐き気がこみ上げた。最悪の気分に思わず目に涙を溜めていると、強めにドアをノックする音が聞こえる。
「大丈夫か」
「あ……ぶちょ……大丈夫れす……」
「……ダメそうだな」
出て来れそうか、と問われ、私はふらつく足に力を入れる。もう一度「大丈夫です」を繰り返しながら、目の前のレバーを引く。
手を洗い乱れた髪を直し、できる限りの平静を装って外に出ると、彼はやはり少し呆れた様子でそこに立っていた。
「鯉登さんは……」
「先に帰した、あの人は平気だ、俺より強いからな」
ふらつくままの私の腕を引き、彼は肩を貸す形で私の身体を支えてくれる。ありがたいやら情けないやらで涙が出そうになって、視界がぼやけたような、意識が薄れるような。
そのままなんだかよくわからなくなっていって、私は部長の「駅まで送って」「いや、家までか」「……本当に――」と、何事かを問われているのを聴きながら、ゆっくりと瞼をおろしたのだった。
目が覚めたのは、見慣れた扉の前だった。
「起きろ! ほら、ついたぞ!」
「え……は、あい?」
起き抜けの耳元で大声がする。驚いた私が跳ね上がり、後ろに倒れそうになるのを彼の腕が抱き留めた。危ないぞ、というその人は月島部長その人で、その時の私は何がなんだかわからなくて間抜けな顔をしていたと思う。
「は、え、なんで、ここ、あれ? わたし……あれぇ?」
「……まだ駄目そうだな、布団まで運んでやるから、後で文句は言うなよ」
まだ頭が回らない。状況がいまいちわからない。後から考えてもみれば酔いつぶれた私を部長がわざわざ家まで送ってくれたということだと理解できるのだが――その時の私は本当になんだかわからなくて、言われるがままに自宅のカギを彼に渡していた。
「ほら、もう少し歩け、靴は脱げるか?」
そう問われ、私は黙ったままコクコクと頭を縦に振る。そうしてパンプスを玄関に脱ぎ捨てて、私たちは部屋の中に入った。
(あ、やばい、洗濯物、しまってたっけ、やば、ええと、見られちゃ困るもの、たくさん……)
そう考えてはいるはずなのに、「もう大丈夫です」の一言が口にできない。もう少し、もう少しだけ、このままでいたかった。もう少しだけ、彼の腕の中で彼の体温を感じていたかった。
「――よし、っと」
……そうは願っていたけれど、所詮一人暮らしのワンルーム。ベッドまでの距離はたった数歩ほどで、彼はあまりにもあっけなく私の身体を手放した。
「う、うぅ……」
「まだしんどいのか? ……ここまで無理をさせるつもりはなかったんだが」
悪かった、とこぼした彼に、「部長のせいじゃないです」と言おうとして、口からはまたうめき声のようなものが漏れる。それを体調不良と取ったのか、部長は手にしていたペットボトルを差し出した。
「ほら飲め、少しは楽に――」
「…………すきです、つきしまさん……」
ありがとう、と言おうと思ったのに。
――間違えた、と顔を上げた時にはもう遅く。水を私に差し出したまま動きを止める彼と目が合った。
それから痛いほどの沈黙が流れ――先に声を上げたのは、月島部長の方だった。
「蓋はあけてある、軽くしか締めてないからな、こぼすなよ」
何も聞いてなかったみたいに、ベッドサイドにそれを置いて踵を返す。
そこで、やめておけばいいのに、私。せっかく気づかないふりをしてくれたのに。なのに、私、なぜかまた「好きです」という言葉が口をつく。
今度はずっと、泣き出しそうなことがばれるくらい、震える声で。
「……勘違いだろう」
「……!」
聞きたくなかった言葉に、私は顔を伏せた。
(勘違いじゃないのに、今だけの気持ちじゃないのに、本当なのに、)
先ほどまで呆れるほど流暢だった私の口が、今度は白々しいほどの沈黙を貫く。
(好きなのに、本当に、好きなのに……)
言葉の代わりと言わんばかりに、私の目には涙があふれた。そんな私を振り返ることもなく、彼は「鍵は郵便受けに入れておくから」とだけ言って私の部屋を出て行ってしまった。
――あぁ、そうか、振られたのか。
そう冷静に考えられるようになったのは、彼の足音がとうに聞こえなくなってからのことだった。
「…………さいあく、」
こんな形で伝えるつもりなんてなかったのに。
叶うなら、明日には全部無かったことになってくれたらいい。全部お酒のせいにして、何もかも。
暗く狭い部屋に、自分の鼻を啜る音だけが響いていた。