鯉登音之進の場合



03


 異常事態が起こっていることだけはわかる。――というのが、現在の私の精一杯の思考。

 カフェでの会話の後、私の話を一切聞かない鯉登さんに連れてこられた銀座の高そうな百貨店内の、自分一人では絶対来ないような高級感漂う婦人服売り場で、私はなぜか「ありがとうございました」などという店員の挨拶を背に受けていた。
 現実を直視するためにフロアに設置された大きな鏡を覗き込めば、そこに映っていたのは、普段なら絶対に着ないようなシックなワンピースドレスを身につけた自分の姿で――

「――なぜ?」

 素朴な疑問が私の口からまろび出た。
 実際、何が起こったのかはしっかり記憶している。彼が私をここに連れてきて、店員さんに「適当に見繕ってくれ」とかなんとか言って私を押し付けて、そうしたらそりゃあ店員さんはあれやそれや上等そうな服を持ってきては「お似合いですよ〜」なんていうおべっかを口にしながらそれに彼が茶々を入れて……

 そうしているうちに何やら彼が納得するような服があったみたいで? 店員さんもうんうん頷きながら何やら話していて? 私が口をさしはさむ前に何故か二人がレジの方へ向かって彼が財布から黒いカードを取り出していたという事象の理由について私は疑問を投げかけているわけで――あれ、これもしかして鯉登さんの金で買われたのか?

「いや、あの、鯉登さんこれ服……私、お金……」
「? 私が誘ったんだ、これくらい私が用意する」

 一般庶民代表としてはその理屈はおかしいと思うのだが、金持ちというのはみんなこんな感じの思考をしているのだろうか。恋人でも何でもない相手に服を買う、なんて、普通しないと思うのだけど。
 それでもここまで(多少強引であったとはいえ)強く拒否もせずに流されてしまった手前今更断りにくく……あと、正直この服がちょっと気に入ってしまっているので、私は深く考えずもらえるものはもらってしまえの精神でいることにした。
 居心地の悪さにそわそわしながら時計を見れば、短針はすでに夕刻を指し示していた。思ったよりも長時間着せ替え人形になっていたのだなと思わず小さく息をこぼす。

「お前がごねるせいで夕食の時間になってしまったではないか」
「はぁ、それはすみません」

 ごねるっていうか、帰して欲しかっただけなんですけどね。

「まぁ、夕食も昼食も大して変わらないだろう」

 変わりますが? だいぶ変わると思いますが?
 そうは思いながらももう反論する気も起きず、私は彼の言うままに彼の後ろをついていく。
 しかしまさかたまたま休日に仕事関係の知人に会っただけで、こんな立派な服を着て、日も暮れた中、今までの人生で足を踏み入れたことなどないレストランに足を運び、向かいあって窓の外に見える夜景を見ることになるとは――

「いやデートでは?」

 思わず思考が口に出た。
 そんな私の呟きが聞こえたのか否か、正面に座る彼は不思議そうに首を傾げる。

(いや……デートでは……?)

 心の中でもう一度そう呟いてから、私は焦る気持ちを誤魔化すようにワインに口をつける。アルコールを摂取しているはずなのにどんどん思考は正常に戻りつつあって、やっぱりこれは普通じゃないと認識できるほどには自意識が回復していた。が、やはり彼は何もおかしいとは思っていない様子。

「どうかしたか」
「いや、その……こ、鯉登さんって、こういうところよく来るんですか?」

 しかし核心には触れず。だって普通じゃないと鯉登さんが気づいてしまっても今日私に費やされたお金を自分で払うほどの持ち合わせはないし。まぁ、そんな「じゃあ自分で出してくれ」なんて後から言い出すような人じゃないことはわかってはいるのだけど。

「来ると言えば来るな」
「へぇ……お一人で?」
「そんなわけないだろう」

 ――そんなわけないんだ。
 緊張でいまいち味のわからない料理を機械のように口に運びながら、そんな相手がいるのなら私じゃなくてその人を誘えばいいのに、とか、いやもしかしてその相手に振られたからたまたま見かけた私に声を掛けたとか? なんてちょっと失礼なことを邪推する。

「ああ、この間はそれこそ鶴見殿と共に――そういえばその時は――」

 そんな私の内心とは対照的に、彼はいつもの様子でまた一方的に話を始めた。正直、今日ばかりはそのほうが助かる、変わらない彼を見ていると少しだけ安心できた。
 はい、はい、そうなんですね。といつも通りの相槌を打ち、ようやく自分が食べているものが肉なのか魚なのかくらいは理解できるようになってきた頃、彼は何かに気づいたみたいにはっと目を見開いて、話をぴたりと止めてしまった。

「鯉登さん?」
「……また私ばかり話してしまったな」
「別にかまいませんよ――」

 それも仕事のうちです、といつも通り応えようとしてそれが使えない状況であることを思い出した。どうしたものかと数秒考えてから、「鯉登さんの話を聞くの嫌いじゃないですから」と我ながら気の利いた一言を口にする。

「……! そ、そうか」

 ……目に見えてわかるほど嬉しそうに瞳を輝かせる彼に少しだけ罪悪感が沸いた。別に、完全に嘘というわけではなかったけれど。

「しかしこれではいつもと変わらんな……そうだ、前にお前も何か考えておいてくれと言っただろ」
「う」

 余計な時に余計なことを思い出す男め。ちょうどそれをどうしようかと昼間に白石に相談したばかりで、あいにく何の用意もできていない。しかし今日一日何から何までお世話になっておきながらそれを無下にすることもできず、私は「面白い話は考えてませんよ」とあらかじめ予防線を張ることにした。

「構わないといっただろう、しつこい奴だな」
「……そんなに聞きたがるほうもしつこいと思いますけど」
「なんだと」

 むぅ、と口をへの字に曲げる彼に苦笑しながら、私は自分自身のことや最近会ったことなんかを少し誇張して話すことにした。

「それでその時部長が――」
「それは……ふふ、そんなこともあるのか」

 別に特段面白い話でもなかったけれど、それでも彼は楽しそうに私の話を聞いてくれた。それがなんだか少し嬉しくて――
 ――結局、話が終わったのは、周りの客がすっかり帰ってしまった後だった。