菊田部長の場合



03


 二日酔いならぬ三日酔いとでもいえばよいのか。とにもかくにも頭痛が収まらない水曜日、私は煙草とライターを片手に喫煙室の扉を開ける。
 反省はしていた、月曜から飲みに行ったのはちょっとまずかったかなとか、昨日は飲まないつもりだったのに結局飲んでたのも悪かったなとか……しかし後悔はしていないし過ぎたことは置いておこう。
 そんなわけであまり調子も良くないし、ひとまず気分転換でも――という、もっともらしい理由を胸に、四角く切り取られたガラス張りの部屋の中、手にした白筒に火をつけるでもなくその人物がここを訪れるのを今か今かと待っていた。

「お、先客か」
「あ……、お疲れ様です」

 待っていたのはもちろん菊田さんで、私はそれをわかっていたくせに「部長も休憩ですか?」なんてわざとらしく声をかけた。

「まぁな……お前、顔色悪いぞ、大丈夫か?」
「え?」

 二人きりで話ができるチャンスだと浮かれていた私は、彼にそう言われて思わず自分の顔に手で触れた。それで何がわかるわけでもなく慌てて鏡を取り出して確認すると、確かにちょっと、いつもよりかは疲れているのかもしれない自分の顔がそこにあった。

「い、いやぁ、あはは、ちょっと飲みすぎちゃいましたかねー……」
「悪いな、無理させちまったか」
「いやいやそんな! 私が行きたくて行きましたから!」
「そうか?」

 彼は煙草の箱から一本取り出して、しかしマッチを手にするでもなく手元でくるくる遊ばせている。それが少し不思議で「もしかして彼はそれを吸うために来たわけではないのかもしれない」なんて自分に都合の良いことを考えた。

「……もしかして、私のこと心配してきてくれたんですか? なーんて……」

 そして冗談交じりにそれを彼に聞いてみる。そんなわけねぇだろ、とか、そうかもな? なんて、笑ってくれることを期待して。なのに返ってきたのは伏し目がちな彼の普段より小さな声で――

「あー…………まぁ、そう、だな――悪い、嫌だったなら言ってくれ」

 ――――好きだ、最高、マジで好き。

 ではなにか、私は「菊田さんはそろそろタバコ休憩に入るはず」と思ってここに来たのに、菊田さんは菊田さんで「あいつが席を立ったから俺も」と思ってここにいるわけか。ありがとうございます神様。私生まれてきてよかった。
 ぐぅ、と唸ってしまいそうなのを堪え、私は「全然、嫌なんてことないです」という言葉を絞り出す。気持ち早口になってしまったことや頬が熱くなっていることはばれてなければいいんだけど。

「それでな、お詫びってわけじゃねぇんだが……週末、酒抜きで飯でも一緒に行かねぇか」
「え……えぇっ!?」

 思いがけず大きくなってしまった私の声を聴き、彼は数度瞬きをし少し困ったように「やっぱ嫌か」と笑った。
 混乱する頭で言葉を尽くし、そんなわけはない、という意図をなんとか彼に伝えようと試みる。それはうまく伝わったようで、彼がほっとしたように「そうか」と言って微笑んだ。私はもうその顔を見ただけでこんなにも嬉しくて嬉しくてたまらなくなる。

「じゃあ、金曜仕事終わったらそのままちょっと待っててくれよ」
「わっ……わかりました! はい! 待ってます何時間でも……!」
「そんなに待ったら飯食う時間なくなるだろ」

 苦笑と共に彼は踵を返す。私も彼の背を追うようにして喫煙室を後にした。
 ――結局この時、私も彼も|煙草《いいわけ》には一本だって火をつけることはなかった。