菊田部長の場合



04


 明くる日の午後。

 週末の決戦――という名の食事に向けて、私は有古くんと作戦会議――という名の雑談を申し込み、少し遅い昼休憩と題して二人で社内の食堂を訪れた。本当はいつもなら菊田さんもいることが多いのだが、都合がよいことに今日は社外に出ていて一日居ない予定だった。

「でさ、明日の夜のことなんだけど」

 早速というように話を切り出す私、しかし彼はきょとんとした表情のまま、「何の話だ」と首をかしげていた。

「なんのって……明日、ご飯食べに行くでしょ、夜」
「……? すまん、もしかして何か約束していただろうか」
「え? 菊田さんから聞いてないの? お酒抜きで食事にって……」
「いや……」

 ――おかしい。終業後の飲みに、私が誘われて有古くんが誘われていないなんてことは今までなかった。むしろ逆はたびたびあったものだから、ずっとうらやましく思っていたくらいだ。
 だからこそ声を掛けられているだろうと思って話を切り出したのだが……まさか伝えるのを忘れたとか? いや有古くんのことが大好きな菊田さんに限ってそんなまさか――

「――というかそれって、デートの誘いじゃないのか……?」

 ………………?
 ……デ……――

「えッッッッッ!?!?!?」
「っ……!? お、落ち着け! 声が大きい……!」

 驚愕、驚嘆、裏返る声。あまりの衝撃に椅子ごとひっくり返りそうになる私の腕を彼がとっさに引いて支えてくれる。思いがけず奇声を上げてしまったことにさすがの私もハッとするが、周囲は若干ザワついたものの、なんだまたあの部署か、くらいの反応で各々日常の営みに戻っているようだった。

「デッ……デデッデッ、デートなんてそんな……!? そん……え!? 待って、わかんない、本当にそうかな!?」
「そうだと思うが」
「え〜……!?」

 箸を持つ手が震える。そうかな、なんて言ったものの冷静になると自分でもそうな気がしてきた。
 だから二人きりの時に誘われたのか、と、ちょっといつもより誘い方が控えめだったのもそのせいか、と、考えれば考えるほどそれが逢引なるものの誘いに思えてしまい、なだめようとしてくれる有古くんの言葉もむなしく私の頭には血が上り続けていく。

「い、いやいや、まだわからんよ、明日突然有古くんも誘われるかもしれんし……! わ、わ、私と二人で食事なんてそんな」
「お昼はよく二人で食べに行ってるじゃないか」
「昼と夜は違うもん!」

 そう、二人で昼休憩にご飯を食べに行くのと、夜業務終了後に二人でご飯を食べに行くのとでは全然意味が違うのだ。わからないわけでもあるまい! と改めて彼の顔を見れば「それもそうか」という顔で頷いていた。

「何にしたってよかったじゃないか、念願の二人きりの食事だろ」

 そうだけど、と口にしようとした瞬間、数多の不安が私の脳裏を過ぎていく。服装とかメイクとか立ち振る舞いとか……だって、デートだっていうなら一等可愛い自分で臨みたいじゃないか。
 どうしよう、なんて考えるよりも早く――私は彼の手を力強く握っていた。

「――――相談、したいんだけど……今夜空いてる?」

 今度は彼が目を見開く。

「空いているは空いているが……やめといたほうがいいんじゃないか」
「迷惑なのは重々承知の上なんだけど! 私こんなこと相談できるの有古くんしかいなくてぇ……!」
「いや迷惑というか――治ったのか、頭痛」

 ぎくり、と私が肩を震わせるのを見て、彼は深く息を吐いた。「今週ずっとだろ」と言われてしまえば反論もできず、私はつい彼から目をそらしてしまう。

「……昨日は飲んでないから、だいぶましになった」
「それ以外はずっと飲んでたな」
「うう、じゃあ今日はお酒なし! 飲まないから!」
「一昨日もそういって結局飲んでただろ」
「……おごる! 今日のご飯私が全部出すから!!」
「ふ、まったく……そこまでしなくていい」
「本当に!? ありがとう……!」

 まさに必死という様子の私に、彼は「仕方ないな」と優しく微笑んだ。……本当に私は、彼に助けられてばかりだ。

「じゃあ今日はいつもと違うお店にしよ、ちょっと繁華街をぶらついてみるとか?」
「いいな、それ」

 じゃあそういうことで、と私たちは空の器を下げに席を立つ。
 その時ふと、これも側から見ればデートに見えるのだろうかと考えて……「でも」と、私はその考えを何処かへやってしまった。

 だってそんなつもりで一緒にいるわけじゃないし。
 ただ、仲のいい同期同士飲みに行くだけだし。
 ――多分、[#「それくらい」に傍点]、みんなわかってくれるだろうし。

 どこか楽観的にそう結論づけて、この時の私はただ純粋に、何を食べに行こうかなんて考えていたんだ。



 終業後、私たち二人は混雑する繁華街を二人で並んで歩いていた。私一人ではもみくちゃにされてしまうであろう人の多さでも、体格の良い有古くんと二人であればそれなりにスイスイ歩いて行けることが楽であり……同時になんだかそれが少しだけ癪に触った。

「やっぱりどこも混んでるね〜……もう少し外れたところいこ」
「ああ」

 半歩先を歩く有古くんの袖をひき、「あっち」と行きたい方向に指を刺す。確かあの辺りには美味しい中華料理店があると、以前菊田さんから聞いたことがあったのだ。

「……こっちは」
「?」

 だがそこへ向かう途中、なぜか彼が難色を示した。中華の気分ではなかったか、と問えば、「そういうわけじゃない」と曖昧な返事が返ってくる。

「あっ、ここここ! 意外と空いてるっぽいね」
「そう、だな……」

 目的の店はすぐ目の前だというのに、なぜかキョロキョロと周囲を伺い落ち着きのない有古くん。やはり他の店が良かったのかと声をかけようとして――後ろから、聴き覚えのある声が私達を呼ぶのが聞こえ私は思わず身を固くした。

「へぇ、何してんだこんなとこで」
「おっ……お疲れ様です、尾形さん……」

 振り返った先にあったのはあまり見たくなかった先輩の顔。その瞬間はここにいるのが本当に不思議だとでもいうように目を丸くしていたのだが、次第にその目を細め、嫌味を発する口がにこりと弧を描いていく。「面白いものを見た」と顔に書いてあるようだった。

「な、何って……ご飯食べにきただけですけど……尾形さんこそお一人でなにを?」
「俺も飯食いにきてんだよ」

 ははぁ、お一人でですか。そうですよね、一緒に来る人いませんもんね、寂しいですねぇ〜! ……なんて言ってやりたいような気持ちになりつつ、言えば明日の朝日は拝めないと理解して言葉を飲み込む。

「そ、そうなんですねー、それでは……」

 触らぬ神に祟りなし。そそくさとその横を通り過ぎようとして、彼の「随分と仲良しなもんだな」という含みのある言葉が聞こえ、私は思わず足を止めた。

「そりゃ、まぁ……仲はいいですよ」
「あ? ……おいもしかしてお前何も考えないでここ来たのか」
「? 人少ないとこがいいなーって考えてましたが……」
「阿呆か、ちょっとそっち覗いてみろ」

 尾形さんが顎で曲がり角を指す。何故か少し慌てた様子の有古くんの静止もきかず、私は素直に彼が指した路地を覗き込んだ。
 決して広くはない道の両脇にネオン管の光が瞬いており、それ自体は特段珍しいことでもなく私は何気なく桃色に妖しく照らされた看板の文字に目を向ける。
 ――休憩、ごせんえん。

「…………っあ!?」

 そこは、いわゆるそういうホテルの集合地、だった。
 思わず裏返る声。尾形さんが鼻で笑いながら「知らなかったのか?」なんて嫌味な声色で問いかける。なるほど、どうりで向かっていた時に有古くんが戸惑うわけだ。

「しっ……知りませんよ!! 私はただ、菊田さんがこのお店の話してたから来ただけで……!」
「ああ、よく来てそうだもんな、あの人」

 それはどういう意味か、とムッとしなくもないが、そんなことより今はとにかく弁明をしなければと私は彼に詰め寄った。私と有古くんの名誉のためにも、変な勘違いは絶対にしてほしくない。
 ……いや、この男がわかっていないはずもないが。しかし強く否定しておかねば面倒なことになる気がする、絶対に。

「とにかくそんな意図はなかったんです! 全然知らずに連れてきてしまって……!」
「ははぁ、お前から誘ったのか、大胆な女だな」
「だから違うんですって!!」
「だが男ならこんなとこ連れてこられてただで返すわけないよなぁ、有古」
「い、いえ、私は……」
「ちょっ……有古くんをいじめるのやめてください!」

 それから数分そんなやりとりを繰り返し、結局最後まで尾形さんは「まぁ楽しめよ」という態度で去っていった。

「……別のお店にする?」
「……そうしようか」

 残された私たちは、いたたまれない心地になりながら繁華街の中心へ引き返す。
 少し尾形さんのことが気がかりではあったが……どうせ彼のことだ、変な噂を吹聴する相手もいるまい。
 
 ――そう、自分に言い聞かせながら。