菊田部長の場合



05


 ――結論としていえば、その考えは甘かった。

「有古と神崎ってやっぱそういう……?」

 そんな質問を営業の先輩からされた時、私は手にしていた書類をバサバサと床に散らかしてしまった。

「なっ……! どっ……! ち、違いますよ!? 何でもないですから!!」
「そうなん? でも俺らの部署で噂になってるぜ」

 昨日の今日で、何故――そう考えて、営業部のある先輩の顔がチラついた。
 宇佐美時重先輩……あの尾形さんに話しかける数少ない奇特な人物の一人で、交友関係が広く……なにより、話好きな人だ。もしかして、いやもしかしなくとも、あの人、よりによって宇佐美さんに昨日の話をしたのだろうか。

「本当になんもないです! ……あの、その話、あんまり広めないでもらっていいですか!?」
「え、あ、うん……まぁ、して欲しくないならしないけど……」

 けど、もう手遅れじゃないかな。とでも言いたげな表情に私の顔は引き攣った。嫌な予感に私は慌てて書類を拾い集め、用を思い出したと言って自分のデスクへとんぼ返りする。

(――どうしよう、まさか、菊田さんの耳には入ってないよね?)

 焦りながらもふと時計を確認すれば、昼休憩少し手前。ちょうどいい、昼ごはんに誘いがてらそれとなく聞いてみよう。

 ……と、そんな風に考えていたのだが。

「あー……今日はちょっと仕事が立て込んでるからな、お前ら二人で・・・・・・行って来いよ」
「は」

 まさかの返答に私は言葉を失った。隣では、身の置き場がなさそうな様子の有古くんが小さく「それは」と声を漏らすのが聴こえる。

「お、お忙しい、ですか……」
「まぁ、うん」

 有古くんは私に声をかけるべきか菊田さんに声をかけるべきか躊躇しているのだろう、二の句を失ったように黙り込んだままだ。
 もしかして、あの噂を聞いたりしましたか? ……なんて、この空気で聞くこともできず。彼の忙しなく動く両手を見つめながら、私は「そうですか」とか細い声をかろうじてこぼした。
 そんな私には視線を向けることもなく――本当に、私の方など見ることもなく、彼はパソコンの画面を見つめたまま、再度「あー……」と言葉を探すような声を上げた。

「悪かったな、今まで」
「えっ?」
「――これからは、俺のことは気にしなくていいからな」

 それがどういう意図で言われているのか理解して、私は本当に言葉を失う。
 無感情に、無表情に、冷静に、彼は「悪かった」と口にした。誤解なんです、と弁解しようと思っていたのに――それがすごく悲しくて、私は彼に背を向けてしまった。

「あ……神崎!」

 こんな自分を菊田さんにも有古くんにも見て欲しくなくて――有古くんが私を呼ぶ声も振り切って、私は逃げるようにしてその場を離れた。

 ――正直なところ、少しくらい動揺してくれるのかななんて思っているところもあったんだ。
 そう思いながら、私は屋上で一人煙混じりのため息を吐いた。
 だって、ご飯に誘われたのって、そういうことだったんじゃないんですか?
 少しくらいは、そういうつもりで私のこと気に入ってくれてたんじゃないんですか?
 ――それなら、たとえ噂が本当だったとしても謝ったりなんてして欲しくなかったのに。

「……はぁ……」

 そんなティーンのような幼稚な思考を紛らわせようとタバコに火をつけてみるも、咥えたそれの味もよくわからずに私は何度目かの憂いの息を吐く。フェンス越しに見下ろせる街の営みを眺めながら「午後休でも取ってしまおうか」なんてことをただぼんやりと考えていた。
 そんな私の耳に、かん、かん、と階段を上がってくる足音が聴こえる。珍しい。肌寒くなってきたこの頃は、こんなところ誰も来たりはしなかったのに。

「……隣いいか?」

 今は聴きたくなかった声にびくりと身体が震えた。振り返ればやはりというか菊田さんがそこに立っていて、私が少し戸惑いながら「どうぞ」と返すと彼はビニール袋とタバコの箱を片手に少し離れた場所に並び立った。
 隣から箱を指で叩く音、それから安いライターの点火音。次いで、何も言わずにいる私に向かって「飯は?」と問いかける彼の声がする。

「……お腹空いてなくて、これで代えようかと」
「身体に悪いだろ」
「どっちがです? たばこ? お昼抜き?」
「どっちもだよ」

 ふぅ、と息を吐く音が耳に届く。それにしては彼の銘柄の匂いだけはせず、自分の前髪が揺れる感覚に「あぁそういえばこっちが風上なのか」ということに気がついた。
 自分だけが彼に煙を当てるのもしのびなく私は短くなったそれを携帯灰皿に押し込み目を伏せる。それを見計らったかのように、彼は私の名前を呼んだ。

「腹減るだろ、食うか?」

 彼が何かを一つ投げて寄越す。どうやらそれはサンドイッチのようで、質問系ではあるもののこれを断らせるつもりはないらしい。

「食べ物を投げるのは良くないです」
「はは、そうだな、悪い」

 そう言ってこっちを見て、ちょっと笑って。私はそれだけで胸がぎゅうと鳴って、……単純で馬鹿だな、と、思わず心の中で自虐なんかしてしまったり。

「……じゃあ、ありがたくいただきます」
「ん……」

 それきり私も彼も黙り込んでしまい気まずい沈黙が二人の間に流れた。この空気の中なにかを食べる気にもならず、私はパッケージの成分表を読むふりをする。そもそも彼はここに何をしにきたのだろう、まさかわざわざこれを届けるためだけにきたわけでもあるまい。
 ……思い当たるのはひとつ、多分、今日の夜のこと。「やっぱりやめとこう」なんて言いにきたんじゃないだろうかと私は想像する。
 そんなのは嫌だ、だってすごく楽しみにしてたのに。そうは思うがこのタイミングで「あの噂は勘違いで」と言い出すのもなんだか言い訳のようで後ろめたい。まぁ、言い訳のようも何も、間違いなく言い訳ではあるのだが。
 もう何度見たかもわからない原材料名の項目にまた目を滑らせて、こぼれそうになったため息をどうにか堪える。……しかしもうこの空気に耐えられず、私が立ち去ろうと決意して口を開こうとした時だった。

「――さっきの」
「え」

 先に彼が言葉を発した。驚いて思わず正面から彼に向き直ると、彼は揺れる紫煙を眺めたままその続きを口にする。

「ただの噂なんだってな」
「……! え、あ、はい……どうして」
「あー……有古がよ、誤解だって説明してくれたんだよ」

 それで信じてくれたんですか? と聞けば、あいつ嘘つけないしなぁと返され、私は妙に納得して苦笑した。たしかに彼が「違う」と言うのなら、私だって信じてしまうだろう。……また、有古くんに助けられてしまった。
 菊田さんは伏し目がちに深くタバコを吸い込んでいる。一呼吸分、言葉を途切れさせてから彼はまた口を開いた。

「そんで……あー……なんだ……変な態度とって、悪かったな」
「……っ、ぜ、全然、それは……! ……誤解が解けたのなら……全然……」
「そうか? ……そうか」

 ああ、なるほど――彼は、それを言うために私を探しにきてくれたのか。
 それに気づいた私は、ほてる顔を隠そうと彼から顔を背ける。嬉しい。それはじゃあつまり、まだ、期待していていいってことだろうか。

「お詫びってわけじゃないが、今日の店は美味いところに連れてくから楽しみにしててくれ」
「……お詫びじゃなきゃ美味しくないとこ連れてくつもりだったんですか?」
「はは、揚げ足取るのうまいよなぁ、お前」

 普段通りの軽口と頬にあたる風が、次第に私の体温を下げていく。「神崎」と名前を呼ばれて振り返れる頃には、私は普段と同じ笑顔で彼の瞳を正面から見られるようになっていた。

「冷えてきたな、戻るか」
「はい、そうします」

 促されて先を歩くと、後ろから「……なぁ、本当に有古とはなんもないんだよな?」と再度確認する彼の声がする。間髪入れずに私が「ないですよ、仲の良い同僚としてお世話になってるだけです」と返せば、彼は「そうか……」と吐息まじりの言葉を漏らした。

「――、」
「? なんですか?」

 ――よかった。
 そんな声が聞こえた気がして振り返るも、彼は「なんでもない」と笑って私を追い越していく。

 今のが、私に都合のいい妄想なんかじゃありませんように。
 そんなことを願いながら、私は彼の背中を追いかけた。