菊田部長の場合
06
「いや〜本当に美味しかったですね!」
「だろ? 気にいると思ったんだよなぁ」
一人では来ないようなかしこまった料理店を背に、私は上機嫌で彼の隣を歩く。
入る前は緊張につぐ緊張で右手と右足が同時に出ていたのではないかというくらいカチコチではあったものの、彼がエスコートしてくれたおかげで私は美味しく素晴らしい創作和食料理を心ゆくまで堪能することができた。
……あらかじめ個室指定で予約していたり、お手洗いに立った合間にお会計を済ませてしまっていたり、ちょっと慣れすぎてるような感じがして複雑ではあるのだけど。
「あ、そうだ、すいませんご馳走になってしまって」
「ん? おう、気にすんな。……つーか、いつもは気にしてねぇだろ」
「それはだって部下は上司に奢ってもらうのも仕事のうちだって……前に菊田さんが」
「ははっ、本当殊勝な奴だよお前は……」
そんな話をしながら私たちは少し離れた駅の方へゆっくり歩いていく。本当は彼は違う駅を利用しているのだけど、私のことを送ってくれると言ってくれたため好意に甘えることにした。
決して遠くはない道のりを、いつもよりずっとのんびりした足取りで、他愛もない話をしながら進んでいく。
――それが、正直、歯痒くはあった。
楽しかったし、美味しかった。けれど、それはやっぱりいつも通りの延長線で……本当はもっと、特別なこととか、期待していたりなんかしたもので。
……やっぱり、特別な何かがあるなんて、勘違いだったのかな、なんてことまで考えてしまう。
「っと、ちょっと急ぐか、帰れなくなっちまうな」
「もうそんな時間でした?」
「おう、……まぁ、残業しちまったからなぁ」
「……そう、でしたね……」
少し歩幅を広げた彼に置いていかれないよう、私も少し早足になる。それでも私にも追いつけるくらいの速さで歩いてくれる彼の優しさが、余計に私の足を重くする。
(――今ここでわざと転んだら、菊田さんはもう少しここにいてくれるのかな)
なんて、そんなことを考えた。
(もしくは、体調が悪い振りでもすれば……)
責任感の強い彼は、私が「大丈夫だ」と言うまでそばに居てくれるのだろう。
だけど、でも、そんなふうに彼を騙すみたいなのは……。そうやって悩んでいるうちに、駅はもうすぐ目の前にまで迫ってしまっていた。
「間に合ったな、乗り換えとか大丈夫か?」
「ええ、はい……大丈夫、です」
歯切れの悪い私に何を言うでもなく、彼は「じゃあまた来週」と笑って手を振る。踵を返して歩き出した彼に私はなんの言葉も返せなくて――それでも咄嗟に、彼に手を伸ばしてしまった。
「あ、の」
「どうした?」
「……いえ、その……」
怪訝な顔で振り向かれ私は思わず顔を伏せる。人もまばらになった駅前で、私も彼も無言のままで時間だけが過ぎていく。……先に耐えきれなくなったのは私の方だった。
意を決して顔を上げ、への字口で瞬きを繰り返す彼を正面から見つめ返した。
「あの……もう、少しだけ、一緒にはいられませんか……?」
「……、あー……」
――返ってきたのは、戸惑うような声。
続けて「終電、無くなっちまうな」と小さく呟くのが聴こえて、私はカッと頬に熱が上がるのを感じた。
「……ごめんなさい、冗談です」
困らせたいわけではなかったのに。
自分の軽率さを恥じ、私は掴んでいた袖から手を放す。それじゃあ、また……と小さく返事をして、私は彼に背を向ける。目の前で煌々と光り続ける駅の明かりに私の情けない顔が照らされてしまうのが、なんだか無性に惨めだった。
泣きたくもないのに流れ出そうになる涙をぬぐおうと腕を上げ――その腕を、急に後ろから掴まれる。
「え、っ……」
そんなことをする人間はこの場に一人しかいないのに、それでも「誰が?」と驚きに振り返る。もちろん私を引き留めたのは菊田さんで――とびっきりの優しい瞳が私のことを見下ろしていた。
「待て待て、そうじゃねぇって……なぁ、明日、朝早いか?」
「い、え……」
ばくばくと心臓の音がいやにうるさい。菊田さんの声が聞こえないじゃないか、と私は私の身体に不満を抱く。彼の真剣な声色や自分の上ずった返事だとかが、この音に濁流のように流されていくようだった。
「じゃあ、終電なんていいから――もう少しだけ、一緒にいてくれよ」
ぼろり、私の目にたまっていた涙が耐え切れずに雫になって零れ落ちる。
さすがに泣かれるのは予想外だったのだろう、彼は少し慌てた様子で「悪い、痛かったか」「やっぱり嫌なのか」と私から手を離した。
(違います、いやなんかじゃないです)
そう言いたくても声は出ず、私は子供のようにしゃくりあげるしかできなかった。そんな私をなだめる様に彼が私の背を撫でて、その手の温かさに私はさらに涙を溢れさせる。
「……嫌なわけじゃないんだな?」
かろうじて首を縦に振れば、彼はほっと息を吐いた。「不安にさせてごめんなさい」も言葉にはならず、私はそれ以外の言葉を忘れてしまったみたいに何度も彼の名前を繰り返し呼ぶ。
うん、とだけ返してくれる彼がやっぱり愛しくて、さっきの言葉が嬉しくて、私はやっぱり泣き止めなかった。だってそれはそうだろう、あれは、つまり、勘違いでも思い込みでも全然なくて、どう考えたって、そういうことってことでしょう?
だから、私もちゃんと伝えたくて。
「あの、わた、わたし、わたし……」
菊田さんが好きです。と口にしようとして、唇に彼の指が触れる。
彼はやっぱり困ったみたいに眉尻を下げながら、「それは俺から言わせてくれ」と微笑んだ。
「——好きだ、神崎、今日だけじゃなくてさ、俺の隣にいてくれるか?」
「……っ、はい……っ!」
返事をするのとほぼ同時に私は彼に飛びついた。彼はそんな私を抱き止めて、力一杯抱きしめる。多分、私は泣いてぐちゃぐちゃでひどい顔をしていたと思うんだけど、彼はそんな私の涙を拭ってもくれた。
その手の温かさに全部委ねるように目を瞑れば、今度は口元に温かなものが触れる。それが彼の唇だと気づいたのはそれが離れた後だった。
「……きくたさん」
「ん?」
「…………それも、もう少し……」
小さく呟いた私の言葉を聞いて彼が笑う。――駅のホームからは、終電を告げるアナウンスが鳴っていた。