五節「小さな勇気」



「はい、じゃあそのまま動かないで……――はい、良いですよ」

 田本さんの合図に私は静かに短く息を吐く。動かないでいるということは難しくないはずなのに、「動くな」と言われるとどうしてこんなにも緊張してしまうのだろうか……。

「写真を撮るのは初めてか」
「は、はい、その、記憶にある限りでは……」

 未だに固まったままの心地がする背筋をさらにピンと伸ばし、私は土方さんの方へ振り向いた。「そうか」と彼が答えるのと同時に「土方さん、どうぞ」と彼を呼ぶ声がする。

「それでは、動かないで――……」

 すっ。
 彼がこちらを見て制止する。正しくは私ではなく私のすぐ傍にある写真機を見ているのだけれど、それでも私はその端正な顔立ちとまっすぐな眼光に思わずどきりとしてしまうのだ。

「……はい、大丈夫です」

 時間にして、六秒。時計の針が、たった六度ばかり音を鳴らした後に、田本さんがそう言った。ああ、惜しいな、もう少しばかり続いてくれればよかったのに……そんなことを思いながら、私は息を吐き立ち上がる彼の姿からまだ目を離さないでいた。

「じゃあ次は二人で撮ろうか、アシリパさん」
「ああ」

 そんな横から二人の話声がする、杉元さんと、アシリパちゃんだ。二人は写真機の前に凛とした表情で並び立つ。

(あ……いいなぁ)

 隣に立つ、隣に立てるだけの関係であるというのは、今の私にとって一番うらやましい話であった。
 もちろん本質は物理的なことではなくて……それでも、物理的にでも彼の隣に立てるのなら、それが証として残るのなら、どんなにいいかと思うのだ。

「どうかしたのかい、お嬢さん」
「……! あ、あの、写真、あの、私も……」
「?」

 よほど欲のある顔をしていたのだろうか、写真家の彼は少し優し気な声色で私に話しかける。しかしいまだに抜けきらない緊張のためか、いつにも増してしどろもどろな返答ばかりが私の口からあふれ出した。
 困惑したように眉を下げるその表情に申し訳なさを感じた私が「なんでもないです」と言いかけたその時、背後から土方さんの私を呼ぶ声が私の肩を叩く。

「もう一枚撮りたいのか?」
「そ、そう、です……!」
「そうでしたか、ではどうぞ前へ、次は違うポーズで撮りましょうか」

 私一人を促すその手に私はまた躊躇う。「そうではなくて……」と土方さんの服の袖を引く私を見下ろして、彼は数度瞬いた。

「あの、土方さんも……」
「――あぁ、なるほど」

 私の言わんとすることが分かったのだろう、彼は口元を緩めながらそう呟いた。それを見た田本さんも「ああ」と小さく声を漏らし、一層優しい顔をして笑っている。

「はは、随分と好かれてますね、土方さん」
「そのようだ」

 真っ赤な顔で俯く私の背を、大きな手のひらがそっと押し出した。おずおずと顔を上げると目を細めた彼が「撮るんだろう」と言って微笑んでいた。

「はい、では二人とも並んで――……」

 いち、にい、さん、しい、ご……。
 たったむっつを数える間、私は彼の横顔を見つめてしまいそうになるのを必死にこらえる。
 そのおかげでどうにもおかしな顔で写ってしまった写真だが、彼が「よく撮れている」と言うものだから私もそれで満足することにした。

 ――この時の写真は私の人生における、何にも代えがたい大切な宝物のひとつである。