五節「どうか、どうか」



「レタッチリ」
「れたっちり」
「うん、これはヤヤンコペチャ」
「……? ややん……」
「ヤヤンコペチャ」
「ややんこぺちゃ」
「そうだ」
「なんだなんだ、寺小屋の真似事か」

 ひょっこりと顔を出す門倉さんに向かって「今は学校っていうんですよ」と短く息を吐く。私の隣に座るキラウシさんも、同じように呆れたような声で私に続けた。

「門倉はジジイだから知らないんだろ」
「ばっ……お前、知ってるよそれくらい……」

 彼は身を縮こませながら火鉢の前へと座り込む。そうして土方さんたちがいないのをいいことに、どこからか持ち込んだ日本酒を取り出して一人酒盛りを始めるようだった。
 私はそんな門倉さんを指差してこう訊ねた。

「キラウシさん、あれはなんていうの」
「ユモクだ」

 または――だな、と聞き取れない単語の後に、門倉さんが「ちょっとちょっと」と何故か慌て始める。

「それ絶対いい意味じゃないでしょ」
「そうだな」
「……? おとんぷい?」
「あー、そらみろ、変な言葉覚えさせるんじゃないよ」

 意味はよくわからなかったが恐らく良い言葉ではないのだろう。二人の反応からそう判断した私は、また他の言葉を教えてもらおうと彼のアットゥシの袖を引く。

「じゃあ、土方さん、とか永倉さん、の『さん』ってなんていうの」
「ニシパ」

 にしぱ、と繰り返せばキラウシは満足気に頷いた。

「微笑ましいね……ところで突然アイヌの言葉の勉強なんてはじめてどうしたんだ?」
「わかる人が二人になれば、話を聞くにも手分けができるかなと思って」
「へぇ、そりゃ、また、土方さんのためかい」
「そ……そう、ですけど」

 すでに軽く酔いが回り始めているのか、門倉さんは本当に楽し気な様子でこちらに茶々を入れ始める。こういうことからでも土方さんの役に立てるなら……と思っているのは事実だが、人からそれを指摘されるとなんだか少し恥ずかしいのは何故だろうか。

「なぁキラウシ、アイヌは『好き』ってのはなんていうんだ」
「なっ、なんっ」
「そういうところがジジイなんだお前は」

 呆れるばかりのキラウシさんが深くため息を吐き、それでも少し考えてから「オシッコテ」と一つの言葉を口にした。

「お、おしっこて?」
「そうだ、正確には目を惹かれる……と言う意味だが」

 ア、オシッコテ、人の名前。それで意味は通る。そう言ったキラウシさんから目を逸らし、私は小さい声で「おしこて……」と呟く。

「……ア、オシッコテ、ヒジカタニシパ……」
「そうだな、うん、それで正しい」

 頷く彼は揶揄う様子もなく、よく出来ましたと言うように誇らし気な顔を見せる。私は照れ臭さを誤魔化すようにお礼の言葉を小さく呟いた。

「……じゃあ、しないで、っていうのは?」
「イテキ、だな」
「…………死んじゃうことは?」
「……モシロッパ」

 不吉な単語に思うところがあったのか、キラウシさんも門倉さんも言葉少なになる。私はそんな二人の視線を一身に受けながら彼の言葉を繰り返すように口にした。

「イテキ、モシロッパ……ア、オシッコテ、ヒジカタニシパ」

 ――死なないでください、大好きな人。

「あ……」

 つい呟いた本音に口を塞ぐ。だがそんなものはもう遅い、極論、そんな言葉を訊いてしまった時点からもう手遅れではあったのだ。

「ゆき」

 重いキラウシさんの声に私は恐る恐る振り向いた。

「――それだと、うまく伝わらない。間に、『だから』とか『なので』を入れた方が良い」
「あ……えっ、えと……は、はい」

 優しさなのか天然なのか彼は今の言葉の真意を問うことはしなかった。それがどうにも有り難くて、私の強張っていた全身から力が抜ける。

(……こんなこと、土方さんには、言えないから……)

 あぁでも、言葉にして、声に出して、嫌というほど私は自覚をしてしまった。自分には覚悟が足りていなかったのだと、心臓が痛むほどに理解してしまった。

 まだ、私には足りていないのだ――好きな人を、失うかもしれない覚悟が。