五節「覚悟の刻」



 その男が現れたのは、それから少し経ったある日こことだった。

「どうする? 白石…………」

 そう土方さんが言うのを聞いて、そうか、この男は白石というのか。と一人短く息を吐く。どうやら彼も土方さんと牛山さんと同じく刺青を持つ囚人の一人らしい。
 彼らの話し合う声をぼんやりと聞きながら、その輪に入れない私は散乱した窓の破片の片付けを再開した。

(……「うん」と言って、頭を縦に振るだけなのに。それだけで、私の欲しいものを得られるのに……)

 あの男に差し出されている和泉守兼定の柄が恨めしく、また、羨ましく。私はその頼りなさげな背中を思い切り睨みつけた。
 それに気がついたのかなんなのか、白石と呼ばれる男はゆっくりこちらを振り返り、不愉快な顔をこちらに向けながら「ところであの女の子は?」と言って私のことを見つめた。

「……なんでもない、今、国に帰してやろうとしているところだ、気にするな」
「……」

 それに対して声を張る勇気も権利も持たず、私は黙って視線を下げる。
 あの刀と共に、資金は充分に調達した。あとは、船の出ている街にでも行って……と話しているのはよく知っていた。私にはもう、なす術も言葉もない。
 ただ、今は散らばったガラス片を見下ろしながら、誰にも聞こえないようにか細い息を吐くことしか……。

「…………おい、」
「!! は、はいっ……!」

 いつの間に側に立っていたのだろう、土方さんの呼びかける声に私は背を正し、反射的に彼を見上げる。逆光で深い影を帯びたその顔で、彼は「支度をしろ」とだけ言って踵を返した。

「小樽の港からも船が出ている。明日、それに乗ってお前は家に帰るといい」
「…………っ」

 嫌だ……なんて、やはり口にすることはできなくて。それでも頷くことだけはしたくなくて、私はただ黙ってほうきの柄を強く握りしめた。



 嫌だ。嫌だ。帰りたくない。だって、これじゃ、なんのために来たかわからない。
 そもそも――帰ってどうしろというんだ。父もいない、母もいない。頼れる大人なんて国にもいない。だったらせめて、ここで死んでいけた方が悔いがないんじゃないだろうか。
 ……なんて、そんなことを考えてしまうくらい、私の気分は暗く沈んでいる。

「気分でも悪いか」

 背後から土方さんの声がする。一人では馬に乗れないから……と、同乗させてもらっているこの状況すら、私が足手まといであることをはっきりと示しているようで、どうにも……。
 私が小さく「いえ」と返事をしたのが聞こえたのか聞こえないのか、土方さんは後ろをついてきていた永倉さんに「少し休む」と言って馬を止めてしまった。

「私は、大丈夫です」
「長居するわけではない、一時休憩だ。……馬も疲れる」

 疲れるほどは走らせていないはず。そんなこと私ですらわかっているのに、土方さんがわからないはずもない。気を遣われているのだと思えば思うほど、私は自分が情けなくなった。
 そんな私の内省などはきっと彼にも気づかれているだろうが、優しさか厳しさか、彼は何も言いはしない。私はもう彼の顔を見ることもできず水を――

「――しっ、」

 飲もうとして、突然彼に木の影へと押し込まれた。

「な、え、あの、」
「静かに。……そこに隠れていろ」

 隠れていろというのは……と問い返そうとして、彼を挟んで向かい側から何かが近づいてくる音が聞こえる。そしてその複数のまばらな足音と息遣いが、それが野生の生き物ではないことを教えてくれていた。

「なんだ、ジジイかよ……へへ、やりやすくていいぜ」
(山賊……!)

 大の男が、二人。一人は小刀、もう一人は……火縄銃だろうか、古い型の銃を手に、土方さんと永倉さんの方へと男達はゆっくり近づいている。

「金目のもん置いてどっか行きな、じゃなきゃ……わかるよなぁ?」

 土方さん達は微動だにしない。それはそうだ、二人ならきっとこれくらいの男どもなんてそれこそ、一呼吸のうちに切り捨てて……

「――終わりか?」

 ……なんて考えていたうちに、一呼吸の時間すら取らず山賊の二人は地に伏していた。

「ひ、ひぃ……っ」

 後退りしながら逃げていく情けない男たちと残された血溜まりを交互に見ながら、私はやはりまだ震える両手を握りしめた。
 情けない、私は、私はやっぱり……

「……あ、っ」

 私と同じように山賊達の背中を目で追っている彼らの背後に、もう一人男が立っていた。おそらく隠れていた仲間の一人なのだろう。
 手には、先ほどの男と同じように、銃が。

(……! どうしよう、土方さん、気づいて、ないの……!?)

 彼らが男を振り返ることはなく、ジリジリとその距離は詰められていく。土方さんのことだ、きっとすぐにでも気がつくだろうが、それでも、もしかしたら怪我くらいは負ってしまうかもしれない。

(な、なら、私が……――)

 焦燥感に駆られた私は、一か八かその間に駆け込めば盾になることくらいできるかもしれないと考え――

(――っ、そうじゃ、ない……っ!)

 考えて――その自分の思想に虫唾が走った。そうじゃない、そうじゃないだろ、と私は父の形見である短刀を握りしめる。これが、最後のチャンスだと思った。
 ――彼に、私の覚悟を示すための。

「! なんだ、おま……、っぐ、ぁ……っ!」

 木の影から駆け出して、それに気づいて振り替えった男に私は抜き身の短刀を突き刺した。
 刀身の短さからか急所を捉えることはできなかったものの、切っ先が男の脇腹を掠め、男は苦痛の表情と共に手にしていた銃を取り落とした。

「こ、このガキ……ッ!」

 逆上する男から急いで二歩分距離を取る。男はどこからかナイフを取り出し、勢いのままにこちらへ振りかぶる。受けるか、流すか……「迷えば死ぬ」そう思った私は重心を低くし、刃を上に刀を握り直した。

 あとはこのまま相手のガラ空きの懐に潜り込み、今度こそ刃を突き立てるだけ。懐に入るのは、小柄ゆえの専売特許だ。
 覚悟はある。そうして、そのまま男に身体ごと当たりに行こうとしたところで――その男の身体が、ゆっくりと地に倒れる。その向こうで血に濡れた刀を持った土方さんが、真っ直ぐに私のことを見つめていた。

 今度こそ、私はその目を逸らさなかった。