牛山 辰馬


「あんた以上の別嬪さんには会ったことがない」

 よくある世辞の一つだと思った。決して言われたことのない台詞ではなかったものだから。

「そう、嬉しいわ、旦那さん」
「本当だぜ、嘘じゃあねぇ……」
「嬉しいわ」

 はじめは「なぁんだ、また、そういう輩に買われたのか」と鼻で笑ってしまおうかとも思った。優しく褒めてやれば、女なんてイチコロだとでも? そんな気持ちでいっぱいになり、男の顔なんてあまり見たくもないとすら思っていた。
 まぁ、手酷くされるよりはずっといい……そう考えながら見かけによらず優しい彼の手つきに甘い声を出せば、「声も良い、俺の好みだ」と低い声が私の鼓膜を揺らす。

「嬉しいわ」
 そういう絡繰からくりか何かのように同じ言葉を繰り返す私を、それでも彼は「綺麗だ」と褒めたたえた。そんな夜を二桁は超えただろうかという頃に、ようやく私は彼の名前を呼ぶ。

「牛山様」
「おっと、驚いた……俺の名前を覚えてくれていたとは」

 それは、まぁ、お得意様でございますから。そう告げた私の顔を覗き込み、彼は満足気に頷いた。

「やっぱあんたみたいなお嬢さんに呼ばれると、俺の名前も喜ぶってもんだ。なぁ、もう一度呼んではくれないかい」

 これくらいなら、いくらでも。そう言って口を開こうとして……やめた。ぴたりと唇を引き結んだ私の様子に、彼は訝しげな表情を浮かべる。

「次……——次もまた、私を買っていただけたら、いかようにも」

 自分でも思いがけなかった提案に驚く。彼も同じ気持ちなようで二つの目をぱちくりと瞬かせていた。
 ええ、そうでしょうとも。今日の今日までろくな反応も示さない、つまらない女でおりましたから。そんな私に目をかけて、「あんたがいい」と言ってくれるのも貴方だけでありましたから。
 だからあと少しだけ、と、もう一度を願ってしまうのでございます。

「もちろん——あぁ、だが、すまん。しばらくはここに来れそうにない」

 彼の返答に、は、と息を呑んだ。それは、つまり? 私は泣きそうになるのを堪えながら聞き返せば、少し慌てた様子で「用事があるんだ、あんたに会いたくないわけじゃない」と言って私を抱きしめる。

「なに、すぐに帰ってくる。……そうだな、雪が降る前には、あんた一人養えるくらいの金を持って迎えに来るさ」

 そんなもの、要りませんわ。またこうして抱きしめてくれるのなら……。漏れそうになった言葉を飲み込んで、「お待ちしております」と伝え私たちは別れた。
 
 ——待ち侘びた冬、彼は私の元を訪れなかった。
 
「弄ばれたんだわ」

 くすくすと笑う声に言い返す言葉もなく、私はただただ、記憶の中にあるあの広い背中を思い出す。
 ああ、どうして来てくれないのでしょう。もしかして、彼の身に何かあったのでしょうか。

(そうであれば良い。……いいえ、嘘、そうでない方が良い……)

 どうか、彼が私を謀ったのではありませんよう。
 しかしどうか、彼が何事もなく平和に平穏に、健康であれますよう。

 どうか——もう一度だけ会えますよう、約束を破ってしまった理由を聞かせていただけますよう……

 そんな願いは叶うことはなく、吐いた息の白さが、私の思考まで霞ませていくようであった。