瓦解しかけの
名前が貘の存在を視認できるようになってからは不思議と睡魔は軽減したが、代わりに変わった夢を見ることが増える。
次に名前が見たのは、教室で教師や生徒達に囲まれて少し困ったように眉を八の字に下げる一人の男子学生。いつか夢でみた小野という青年だった。
「――凄いじゃないか小野君!」
「大衆文学の新人賞を高校生が獲ってしまうとは!」
「君は長宝院学園の誇りだよ!」
一人の教師が朝刊を握りしめながら熱く小野を抱き寄せる。歓喜の声が上がる教室の中で、その中心にいる小野はどこか浮かばない表情だ。名前はその様子に小さな違和感を持ちながら眺める。
「あ、いや……その、」
自分を放って勝手に盛り上がり続ける周りに、どうにか落ち着いて欲しそうな小野は「待って」と小さな声で辺りを宥めていると、小野の視界にある学生が映る。
途端に小野の体の中に絶望や恐怖心にも似たそれが駆け巡った。心臓をごっそり取られてしまったようでもあった。全身から血の気が引き、手足が急に冷えていく。
そんな小野の様子にいよいよ違和感を覚え、彼の視線を追いかけると、そこにいたのは堤だった。傍から見ればなんてことない、ただの同級生を見ている様子ではあったが、小野にはその表情に憎悪と感傷、それから軽蔑の色が含まれているように感じ取った。
「堤…!」
「…」
名を呼んだ小野だったが、本人はその声から逃げるようにしてその場を立ち去ってしまう。小野が追いかけようとするが彼を取り巻く人が多く、堤と小野の間には物理的にも心の面でも距離が空くこととなった。
明らかに二人の関係に亀裂が入った場面を名前は立ち尽くして眺めていた。
◼︎
「!」
目を覚ますと目の前には一緒に眠っている貘の姿があった。目覚めた直後は驚いたものの、すやすや眠る貘を起こさないようにゆっくりと名前は体を起こす。気づけば横になっていたのかとまだ少し眠たい眼をさする。
――もしかして、もしかするとさっき夢は貘さんが…?
名前は一瞬そんなことを考える。こんなにもリアルで、自分が傍観者になったような夢が逆に不自然だったのだ。
「起きた?」
「へっ!?」
突然聞こえた五条の声。顔を上げて声の出どころを見ると部屋の中にはやはり思い浮かんだ声の主の姿。名前愛用の座椅子にもたれてかったるそうに携帯を弄っている。
「五条君…!?」
「声、出るようになったんだ」
「あ…少しは…」
五条のセリフに無意識に喉を摩った名前はベッドの上で正座をしながら「あの、なんでここに…?」と自室でくつろぐ五条に問いかける。
「来たら貘が起こすなって威嚇してきたから」
「いやそうではなく」
――聞きたいのはそこじゃない。今頃学校なはずなのにどうしてオリオンに、それも私の部屋にいるのか、だ。
名前が再度口を開こうとすると、「堤のヤツ、暫く休みらしい」先に放たれた五条のセリフに名前は出かけた言葉を飲み込んだ。
「こっち来る可能性も無くはねぇからな、折山さん一人は心許ないし。俺が来た」
「そう、なんですか」
途端に張り詰めた緊張が解け、肩の力を抜くようにしてため息を織り交ぜたような安堵の声を放つと、五条のサングラスが携帯から名前へ向けられる。
「…なに」
「いえ…なんだかその、安心、して…」
「……あっそ」
名前には五条が呪術師としてどういった能力があるのか知る由もないのだが、これだけ共に過ごす時間が増えてくるとなれば自然と安心感を覚えるものだ。五条は名前の思いもよらぬ素直なセリフについ反応に困り、つい咄嗟に不愛想な返事をする。
それから自室のローテーブルには飲み物の一つもない事に気づいた名前はベッドから降り立ちながら「何か飲み物用意してきますよ」と告げると、反射的に返ってきたクリームソーダの注文に「ハイハイ」と言って部屋を後にした。
「――それ、なんですか?」
飲み物を持って自室に戻ると、ローテーブルには名前の読みかけの文庫本の他に見覚えのない紙束。明らかに名前のものではない。
「あ?高専が集めたお前の学校の情報」
「随分な量ですね…」
「これだけあったって呪いの原因が分かんないからほぼ意味なしだけどな」
「……私も見ていいですか?」
くすぐられる好奇心。そろりと五条の様子を伺うようにしてそう尋ねれば、たっぷり間を空けた五条が「……傑には黙っとけよ」。同じセリフを夏油に言えば彼はきっと苦笑いして「ごめんね、機密事項なんだ」と言われていたことだろう。
「了解です!」
名前は飲み物のトレーを近くの床に置くと、学園の教材よりも厚い資料をそっと手に取った。最初は学園の配置図から始まっており、その次は学園長の情報へと続く。
――本当に調べてあるんだ…。
今更彼らの仕事を疑っているわけではないのだが、こうも資料を見てしまうと彼らの仕事内容に現実味が湧くのも事実だった。
名前は学園長の学歴やら家族構成を眺めつつ、不意に貼られていた付箋をつまんで開くと例の教師、堤光二の情報が現れた。
「…悪かったな」
五条から突然の謝罪の言葉が静かに紡がれ、堤光二の情報を見ていた名前は何のことか分からずに「へ」と気の抜けた声と共に顔を上げる。
謝罪の言葉を述べた本人は名前の座椅子に胡座をかくように座っており、自身の膝を使って頬杖をついている。
「金でお前のこと使おうとしたの」
「!…ど、どうしたんですか藪から棒に」
「別に」
そう言ってそっぽ向く五条に名前は数回瞬きを繰り返した後に息を吸い込んで吐き、肩の力を落とした。
「私こそ、自分の勝手な事情に怒って引っ叩いたりしてすみませんでした」
「…ん」
無限で当たってねぇし。と言いかけた五条は言葉を呑む。
「不幸自慢に聞こえるかもしれなくて…あまりこういうこと言うの好きじゃないんですけど、親が…その、お金絡みで色々ありまして」
「…」
「なんでもお金で解決しちゃうような人が好ましく思えず…。でも、よく考えたら二人は仕事でしたよね。だから…五条君達のやり方は間違ってなかった、と思います。だから、その節はすみませんでした」
「…お前……変なヤツだな」
「はい…!?」
謝ったり人を変なヤツ呼ばわりしてそれっきり黙りこくる五条に名前はどこか腑に落ちない感情を抱える。しかしそれっきり何も言わない五条に、名前は再び堤の情報欄を眺めた。
——…出身校、長宝院学園…。先生も卒業生だったんだ。
名前は堤の思わぬ経歴を眺め、そのまま家族構成の欄を見た途端にピタリと視線が止まった。
「堤……光吾……こうご?」
「ん?」
「まさか…!」
名前は名前を呟いた途端、何かに弾かれたように勉強机のノートパソコンに飛びついた。「堤こうご」とあえて下の名はひらがなで検索すると、一人の小説家の名前がヒット。
堤光呉。名前も数冊は読んだことのある作家の名前だった。出身校は長宝院学園、息子の出生年などが綴られており、堤光二の生まれ年と合致。作家名の光呉という名前は実名の光吾という漢字を変えている、といった情報が転がっていた。名前の中でさまざまな憶測が飛び交う。
――まさか、あの夢に出てきた堤という青年は。
考え事に没頭する名前にふわりと自分ものではない香りが鼻をかすめる。その匂いに連れられて顔を上げると、
「う、わっ!?」
振り返ったすぐ近くに五条の端正があり、名前は驚きの声を上げて椅子ごと後ずさった。麗しい顔もそうだが、光をたっぷり孕んだ深みある天青色の双眼が近くにあったのだ。息を呑む美しさに名前は一瞬自分の体内時計が確実に止まったような錯覚を覚えた。
五条はサングラス越しだとパソコンの画面が見にくいのか、少し目を細めて画面の内容を目に通すと、それから驚きの声を上げて後ずさる名前を綺麗な目だけで不審げに見下ろした。
「あ?なんなんだよさっきからウルセーな」
「び、びっくりした…!」
「何が?……あ、コレ?」
五条は少し間を空けてから唯一心当たりのある自身の双眼を指さすと、名前はぎこちなさそうな動作で首を縦に振った。