帳下りし学園
「……来てしまった」
翌々日の午前三時半すぎ。良い子はまだ夢の中にいる時間、名前は貘を腕に抱えて学園の正門前に立っていた。
――夏油君も学園の噂については眉唾ものが多いって言ってたし多分何もないと思うけど…。一応あの人たちが無事なの見届けたら折原さんが起きる前に早く帰ろう…。
あくまでも様子を見るだけ、と再三自分にそう言い聞かせるように頷きそれから顔を上げる。
「というか何あれ」
学園の厳かな空気を醸し出すロートアイアン製のアンティークな柵。その向こうに聳え立つのは日頃通っている学園のはずなのだが、それはなぜか夜空の色よりもうんと暗い色の半円ドームがかかっている。目を凝らしても校舎らしき影が何一つ見えないのだ。
「あの人たちこの柵上ったの…?」
夜の学園ということは当然門前はぴったり閉じられている。鍵もかかっていることから、もし侵入するとしたら上から乗り込む他ない。男子を呼ぶと言っていたからどうにか登れたんだろうな。名前は華やかに装飾された柵に手をかける。
「う…不気味…」
『きゅきゅ』
「貘さんいてよかった…。一人だったら心細かった」
柵を乗り越えて学園の敷地内に侵入し、鉄臭くなった手を叩いてからようやく目の前にある闇色の球体と向かい合う。間近で見ても球体の向こうの様子が見えない。
「…これ本当になんだろう…。触っても大丈夫かな」
恐る恐る手を伸ばして黒に触れる。しかしそれは意外にも物体的な感触はなく、名前の右手は闇色へと吸い込まれていった。黒の向こうで手を握ったり開いたりしてみるが、特に異変はない。
「――どわっ!?」
突然引かれた手は力強く、名前の身体はあっという間に黒の向こうへと引きずり込まれた。掴まれた右手と対面すると、そこには得体のしれない、ミイラとも木の枝とも言える奇妙な手が名前の手をしっかり掴んでいた。
「ひっ…!?」
恐る恐るその手を見て視線を上げると、古木のような物の怪が今にも名前を食うかのように口を大きく開いて迫ってくるところだった。
『きゅー!!』
掴む力が強くて振り解こうにも振り切れず、名前は悍ましい光景に目を瞑って縮こまるも、衝撃はない。それどころか力が緩められ、恐る恐る目を開いて呪霊の方を見ると、呪霊の前には貘が立ちはだかっていた。
「貘さん!?」
『きゅきゅー!』
貘が威嚇するなり姿を消す呪霊。「やっぱり魔除けの効果があるんだ…」名前は自慢げに鼻息を荒くする貘に礼を伝え、小さな頭を撫でていると、突如聞こえた悲鳴に体を強張らせた。
「!」
校舎を見上げると、南館の廊下を灯りが走る。おそらく昼間見かけた女子生徒たちが持つ懐中電灯だろう。絶対間違いなくきっと恐らく何かが起きているに違いない。
「ああもう…!!」
名前は気合を入れるべく自分の頬を叩くと、貘を抱えて駆け出した。
◼︎
「うわっ」
開きっぱなしだった昇降口から校舎に入り、階段を駆け上がる。
何段か登ると廊下を照らす灯りが徐々に近づき、やがて死角から飛び出してきた人物が思いの外勢いがあって驚くと、向こう側は腰を抜かしたようにひっくり返って尻餅をついた。相次いで悲鳴が連鎖する。
「うぉおあああ!?」
「きゃぁあ!?」
「だ、大丈夫ですか!?落ち着いて…!」
「なんなんだよお前!!」
「あれ見て落ち着けるかよ!!」
「!」
迫ってくる轟音に顔を上げると廊下の縦幅一杯のミミズのような呪霊が迫ってきていた。貘が名前たちの前に立ちはだかると、呪霊は怯んだようにして迫るスピードを減速させた。
「じゅ、呪霊…!」
「やばい来るよ!!早く立ちなさいよ!」
「こ、腰が抜けて…!」
「情けないわね!」
「皆さん見えてるんですか…!?」
――なんでこの人たちにも…。普通の人には見えないはずなんじゃ…!
そこで名前は前に夏油が呪いは死の直前に見えるようになったりすることもあると説明していたことを思い出す。
「…そうだ、あの二人に連絡しなきゃ…!」
これは自分の範疇を超えている。そう判断したところで携帯を取り出し、五条の番号を呼び寄せようとした瞬間、名前は後頭部に加わった衝撃で目の前が真っ暗になった。
◼︎
「――なんなんだよ堤先生!!」
「……うっ」
男子生徒の叫び声に名前は目を覚ました。あたりはまだ仄暗い。体のすぐ下にあるのは冷たい教室の床だった。
「そう叫ぶんじゃないよー。近所迷惑だよ。ま、ここからどんなに叫んでも一番近い民家には声は届かないだろうけどさ」
この声は、と名前は慌てて起き上がると、どこかの教室に全員が集められていた。教卓に立つのは私服姿の堤だ。
「堤先生…!」
「おはよ苗字。いや、おはようと言うにはまだ早いか?」
「…」
「呪い、見えるようになってたんだな。知らなかったよ」
「……色々ありまして。それより…学園の呪いは先生の仕業ですか」
「うん。その様子だと、さてはあの呪術師に入れ知恵させられたな?」
ピキリと痛む後頭部に名前は小さな呻き声を上げながら頭を押さえると「……あぁ悪かったな」と悪びれた様子もなく謝った。
「せっかくの食事の時間だったんだ。あの二人呼ばれると困るから手荒にしちまった」
「食事の時間…?」
「ご飯の時は静かに、だろ」
堤がお口チャックのジェスチャーを繰り広げた途端、喉の筋肉が強張った。
「!」
「余計な事を喋られたら面倒だからね。まぁ苦しくて怖いのは一瞬だけだよ!大丈夫!」
――声が出ない…!
必死に叫んでも口から溢れるのは息を吐く音だけ。声だけがすっかり根こそぎかられてしまったようだった。
己の様子に戸惑う名前に気を良くした堤は教室の出口に向かいながらぱちんと指を鳴らすと黒い影が宙に現れ、中からは先刻みたミミズの呪いが現れる。
「じゃ、あとはごゆっくりー。大丈夫、血も骨も残らないよ」
「ふざっけんな堤!!」
「!」
堪忍袋が切れた一人の男子生徒が拳を掲げて走り出した。
「そうかそうか!お前から食べられたいんだな。いいぞー!優先してやるよ」
「ぅ、あっ…!!」
堤のセリフに危険を察した名前がとっさに駆け出し、男子生徒の腕を掴み動きを封じる。
「はっ、お前!?邪魔すんなっ…!……うわ、ああ!!」
「!」
迫るミミズの呪霊に名前は男子生徒を力強く突き飛ばすと、背中に張り付いていた獏が大きな光を放ち、教室中が光に包まれた。
◼︎
「――爺ちゃん。爺ちゃんってば!」
「ん?」
小野海斗が行方不明になる一週間前。
海斗は縁側に座って珍獣、貘を愛でる祖父、泰斗の背中に名前を呼びかけた。「なんだ海斗」一定のテンポで貘を撫でる泰斗を一目見ては、海斗はいつもの光景に佇む祖父の隣に腰を下ろした。
小野家は偶然にも"見える"家だった。
「聞きたいことがあるんだけど」
「言ってみろ」
「爺ちゃんのデビュー作って…あれ本当に爺ちゃんが書いた話なの?」
「!」
自分を撫でる優しい手が止まったことに違和感を抱き、目を覚ました貘が大きなあくびを浮かべ、それから泰斗を見上げた。
「…そうか、おまえ、気付いたのか」
「気付いたっていうか、違和感あってさ」
「…それならお前には話してもいい私の業を。…貘を持て。……見せてくれるから」
海斗は差し出された貘を両手で受け止めると、薄く光出す。それからゆっくり身を任せるように目を瞑った。