口は災いの門



「おいネボスケ。さっさと起きろ」
「!」

 うつらうつらする名前の耳元に不意に男の声がかけられてビクリと肩が震えた。何度か瞬きを繰り返しては自分がそれまで眠っていたことに気づいた名前は反射的に顔を上げようとするものの、中途半端に顔をあげたところで固まった。

「おー、起きた起きた」

 目の前にあった人形の様に整った顔、それもあの碧眼が名前を捉えていたからだ。やけに顔が近く、さらには手足が宙ぶらりん。そこでようやく自分が五条に抱えられていることに気づいた。
 少し前までは重い空気に包まれた教室にいたはずなのに今は外におり、初夏の夜特有の植物の青臭さと凛とした涼やかで軽い空気が名前の鼻をくすぐる。

「おはよう苗字さん」

 眼前の五条をマジマジと凝視していれば、視線の端から夏油が「お目覚めだね」とひょっこり顔を覗かせる。

「……げ、……!」

 「夏油君」と口を出そうにも声は中途半端に上擦るだけでそれは言葉として紡がれず。突然カッと熱くなった喉を押さえつけると夏油が「待って」と名前の手を掴み、喉から優しく離させた。異変を感じる喉元を優しく撫でつけるその黒い目にはほんのり赤い光を照らしている。
 徐々に状況を飲み込めるようになり、名前は助けに来てくれたのかと見慣れない黒い衣服に包んでいる二人を見上げていると、夏油が「…呪印が発動してるね」と苦々しい声を出した。
――呪印。そうだ確か。
 名前は意識を手放す直前に堤が自分に呪いをかけたことを思い出した。そして芋づる式に掘り起こされる記憶。堤に飛び付こうとした男子生徒を庇おうとして、それから……。
――貘さんは…!

「!」
「うおっ、暴れるな!」
「貘のことかい?」

 慌てて周りを見渡す名前の考えを読み取った夏油は抱えていた貘を彼女の視界に入るように持ち上げると、大人しくなった彼女に手渡した。

「全く、君は随分無茶してくれたね」

 気がかりだったものが目の前に現れたことで落ち着いた名前は感謝の意を伝えるために頭を何度も縦に振り、貘を優しく撫でて抱き抱える。腕の中に収まった貘は少し疲れているように見えた。 

「だ、大丈夫ですか?」

 聞こえた女子生徒の声に顔を上げると、先ほどまで教室にいた生徒たちの姿。名前は心配させまいと口元を無理矢理吊り上げるようにして笑って頷く。

「お前、歩ける?」
「!」

 五条のセリフにも頷き、ようやく自分の足で地面に立ったところで、この二人が来てくれたならもう安全だと静かに安堵の息を吐いた。
 そんな名前に腕中にいた貘が小さくひと鳴きすると、一瞬名前の脳裏に第三図書室にいる小野海斗と貘の姿がはっきりと映った。

「……ぁ…」

 突然の光景に驚いて瞬きを一つすれば、視界はたちまち元の暗い学園へと戻る。瞬きの間の時間だけ、貘が夢を見せたのだ。

「…!」

 名前の中で全ての点が繋がる。
――小野君はやっぱり貘さんを本に取り憑かせたのか。あの本に学園の呪いを解くヒントがあるのかもしれない…!
 突如として見え始めた解決の糸口への興奮、それから呪いの元凶である堤への怒りやらで体が小さく震え始めた。

「それでは皆さんを正門まで誘導しますから、このまま離れずに着いてきてください。外には私たちの知り合いがいるので保護してくれます」
「た、助かった…」
「ありがとう」

 徐々に荒くなる息をどうにか抑えつけ、正門へと向かう彼等からゆっくり、とにかくゆっくりと後ずさりした名前はやがて後ろを向いて駆け出した。「おい!」背後から聞こえた五条の抑止の声に見向きもせず駆け出す。
 開いていた南館に入り込み、二階へと駆け上がる。名前の姿に気づき、暗闇からのそりと姿を現した呪いが何体もいたが、貘のおかげなのか、それらが走り続ける彼女を襲うことは無かった。
 名前はこの好機を逃さず必死に足を動かした。

『やぁ…やぁめぇ…』
「っわ!?」

 二階の渡り廊下を駆ける途中、散々避けられてきたというのに不意に攻撃を仕掛けてきた呪いに名前は驚き、転ぶようにして避けた。
 貘が付いてるから大丈夫なはずなのにと名前は肩の貘を様子を見ては目を見開いた。貘の小さな体が少しずつ透けていたのだ。

『きゅ…』

 弱りかけている貘を優しく胸に抱えると、名前の視界の中で揺らぐ光によって影が泳いでいる様子が見えた。
 見上げた先にあった北館校舎、今まさに向かおうとしていた第四図書室がゆらゆらと光り輝いている。その光は電気のような一定の光源ではなく、火のような不安定な輝き方を放つそれに名前はより一層力強く駆け出した。
――貘さんとあの本、やっぱり繋がってたんだ!

「うっ、」

 肩で息を切らしながら第四図書室へと向かうと、図書室の中からは火の手が上がっていた。入り口でもたつく名前の腕の中で貘が苦しそうに鳴く。

「〜〜っ!!」

 迷っている時間はない状況に名前は意を決し、近くの水道で水を被っては火の海の中へと飛び込んだ。

「――はぁっ、はぁっ!……っ!」

 最短距離で目的の本がある場所へ向かい、わずかに火が被さる例の本に手を伸ばした。濡れた衣服で火を消しながら燃え盛る図書室から飛び出す。
 本は半分ほど焼けていてとても読むことが出来ない。
――どうしよう、手に取ったのはいいけど、これをどうすれば…!!


「余計な事を喋られたら面倒だからね」


 冷静を欠き始めた名前の脳裏に堤のセリフが過ぎった。喋る。喋られたら困ることがこの中に入っているのではないだろうか。
 それはつまり――この本の中の言葉を口にした途端、呪いが解けてしまうのでは…?
 徐々に冷静さが戻り、治まる情動。名前は意識を集中させた。本の中身はすべて記憶している。がしかし、この状況で一字一句朗読している暇は無い。
 となれば記憶の中から探すしかないのだ。この焦げてしまった本の中から呪われた喋ると困る言葉を。


「――呪いは負の感情から生まれるんだ」


 呪いについて夏油から教わったときに言われたセリフに名前は全神経を記憶に注ぐ。暗闇の中で一筋の光を手繰り寄せ、小説の文面、それも負の感情を感じ取れる一節を呼び起こす。

「あ、っ……う゛あ゛ぁあ!!!」

 口にしようにも出る声は掠れたもの.。それでも名前はその呪いに抗うように声を発し続ける。喉が焼けるように熱くなった。
――出ろ、出ろ声!!

「っ、"じ、獄の業火に抱かれ骨まで残すことなかれ"!」
「"煮えくり返る腸、私は気が狂いそうになった"!」

 何かがパキンと軽い音を立てて崩壊する音がした直後、驚くほどに名前の口からは小説の憎しみや憎悪に関する文言がツラツラと喉から溢れ出た。
 喋れるようになった感動に入り浸る間もなく名前は必死に記憶を練り続け、それから喋り続ける。

「げほっ、げほっ!!」

 図書室は今もなお激しく燃え盛っており、廊下には煙が充満。呼吸をすれば肺に染み、噎せ込んでいると、貘がそわそわと忙しない様子を浮かべていることに気づく。不思議に思った名前が視線を上げると廊下の奥からは物怪たちが名前へと迫ってきていた。
 一体や二体だなんて可愛い数ではない。大群といっても差し支えない数だ。中には前にも会ったミミズのようなそれもいた。おそらく全て堤の差し金だろう。

『きゅきゅーーっ!!』
「!…ば、貘さん!?」

 名前の前に立ちはだかった貘が突如身体を増幅させると、廊下の高さほどの巨大な獣の姿へと姿かたちを変える。
 そして名前の服の裾を咥えるなり、

「えっ!?」

 あろうことか彼女の身体を廊下の窓へと投げつけた。ガラスに向かって叩きつけられた名前はそのままガラスを突き破り、宙へ放り投げられる。ここは四階だ。このまま落ちたらひとたまりも無い。途端に死への恐怖と絶望が名前を襲う。
――でも、私が死んだら呪いが…!

「っ!!"どうして裏切ったのだ、信じていたのに"!」
「――"生涯この苦しみを手放すことはないだろう"」

 涙目になりながら必死に文言を復唱する名前がある言葉を述べた瞬間、学園の空気が一変した。