学園に纏う噂
「ねぇ、名前ちゃんは知ってる?長宝院学園の噂」
名前はモップを動かす手を止めて、背後にあるカウンターの、さらにその向こう側に立つブラウン色のエプロンを身に着けた男を見た。
「…噂なんて日常茶飯事すぎてどの噂のことか分かりませんよ、店長」
店長と呼ばれた人物は名前よりも手元の作業スペースへ視線を送っており、その手にはシルバーのコーヒーポットが握られていて、ゆっくりと傾けているところだった。これは名前からしたらいつもの光景そのもので、暫し店長のその様子を見ていたが、やがて再びモップを動かした。
モップで床の染みのような汚れと戦っていると、忽ちコーヒーの香りが店内に広がる。元々コーヒーや煙草の香りで充満していた喫茶店の店内が、より一層コーヒーの香りが強くなった。相変わらず良い匂いだなとスンと名前が鼻を小さく鳴らすと「はいはい一旦掃除休憩!」と店長はにこやかな笑みを浮かべて淹れたてのコーヒーカップを軽く持ち上げる。そして「新作できた」と名前をカウンターに呼び寄せた。
「傑作だよ」
「いつも自分で傑作言ってるじゃないですか」
「まぁねー!」
店長こと折山はこの喫茶店「オリオン」を一人で経営していた。この店で出しているコーヒーはコーヒー好きの折山が自分で選んだ豆を厳選して使っている。
折山が言うには、現地に行って買い付けてきたとか。嘘か本当かどうかは知らないが。豆そのものを販売する時もあれば、たまにこうしてオリジナルブレンドを作ることもしばしばあった。
掃除の途中ではあったが名前は床の染みとの戦いは一時休戦し、近くの壁にモップを立掛けてカウンター席へ腰を掛ける。テーブル越しに目の前に置かれたカップの中を覗くと、湯気立つ黒い液体の香りが顔にかかった。「いただきます」名前は両手で包むようにそれを持ち上げ、口に含んだ。
「あ」
「どう?どう!?」
「おいしいです」
「だろー?流石俺ー!」
「ブラジルと、エチオピアらへんですか?」
「他にもちょっと混ぜてんだけどね、主要は当たり!」
「いやぁ、懐かしいなぁブラジル…」しみじみと語る折山に名前は少し疑いの目を向ける。
「……店長本当に行ってたんですか…?」
「行ってるよ!失礼だな。変な工芸品買わされそうになったけど」
「へぇ…豆のために地球の裏側まで行けるもんなんですねぇ?」
「喫茶店やる前が、全国全世界を渡り歩くような仕事してたからなー」
「なんの仕事だったんです?」
「世界を救う仕事」
「ハイハイ」
「ホントなのに!」と名前のリアクションにブーイングをかましつつ、懐かしき過去の旅を楽しそうに語った折山は上機嫌に口笛を吹きながら二杯目のコーヒーの用意を始めた。
――ホント口笛下手くそ…。
苗字は折山の口笛に耳を傾けながらもう一度ゆっくりコーヒーを啜った。
「んでさ、長宝院学園の何処かに呪われた本があるんだって」
「すっごい無理矢理ねじ込んできましたね。続いてたんですかさっきの話」
「もち。だって面白そうじゃん」
夜の部の開店前の時間に折山がコーヒーを淹れる水音や作業音が響く。またコーヒーの濃い匂いが強くなった気がした。
コーヒー美味しいし、まぁ休憩がてら聞くか。良い香りにすっかり絆された名前は仕方ないと言わんばかりに少し息を吐く。「…それで、どう呪われてるんですか」と折山の話に乗るも「や。それは知らないけど」と返事にせっかく聞いたのにと白目を剥いた。
「……どっから拾ってきたんですかそんな根も葉もない話」
「喫茶店のオーナーやってればね、いろーんな人達が入ってくるわけよ」
「…ふーん」
喫茶店オリオンは長宝院学園からはそんなに離れていないものの、どこにでもありそうな小さな純喫茶だ。名前はかれこれ一年ほどバイトをしているが、学園関係者を見かけたことがない。一体どこから噂が。
「えーなにー?折角毎日通ってる学園の噂なのに興味無いの?」
「噂は噂なんでしょう?」
「そうだけど火の無いところに煙は立たないとも言うだろ?」
「有る事無い事が広まることを噂とも言います」
「ドライだな」
——呪われた本ねぇ。
本といえばで名前がふと思い浮かんだのは、行方不明になった小野のことで、彼の父親と祖父が小説家という話だ。小説家のいる家で育った彼は一体学園の図書室で何の本を借りようとしたのだろうか。
擽られる好奇心に名前はコーヒーカップをソーサーに置き直して目を瞑る。
「名前ちゃん?」
「店長ちょっと静かにしてもらえます?」
「お、何か面白そうなことやろうとしてるね」
「してません」
閉ざされた視界。意識の中にあるピンと張り詰めた白い糸を握り、手繰り寄せる。
――小野君について…。
名前には一つだけ特技があった。瞬間記憶能力とはまではいかないが、昔から非常に記憶力は良かった。その気になればこうして意識を研ぎ澄ませ、文字通り記憶の糸を辿ると、その日その時の出来事を鮮明に掘り起こすことができた。
――見つけた。小野君と会話をしたあの日。
この能力が名前が長宝院学園へと入学できた理由でもあった。彼女の学力はほぼ記憶力のおかげて成り立っていると言っても過言ではない。
名前はあの日の記憶を掘り起こすと、慌てて学生鞄の中から適当にノートを取り出してそこへ記憶の情報を書き込む。その様子を折山は面白そうに見守りながら自身で淹れたコーヒーを口に運ぶのであった。