後悔後先立つ
「やばい…ほんっとに最低なことした」
一方で夏油の手を叩いて逃げてきた名前は眠気で極限状態の中、休める場所を求めて校舎を彷徨っていた。
「眠すぎたせいで夏油君の手をうっかり叩いてしまった」
人気のない廊下の隅で壁に額を当てて猛省する。きっと眠すぎて頭がおかしくなってたんだ、ゴミを取ってくれようとしたのにあの態度は本当にどうかしてる。一休みしたら夏油君に謝りに行こうと深呼吸すると、休息する場所を第四図書室に定めて足を動かした。
あそこなら静かであり、人もあまり寄り付かない。ついでに昨日持って帰ってしまった本を正式な手続きを踏んで借りようと鞄の中から本を取り出す。
「おーい、今度はよそ見歩きか苗字」
「堤先生!」
呼び止められた声に顔を上げると、昨日の帰りに死角でぶつかりかけた男教師、堤の姿がそこにはあった。
堤という教師は名前が一年だった時の副担任でもあり、主に理数系の授業で教鞭を取っていた。歳は四十半はとうに越えているだろうが、日々若人と触れ合っている機会が多いためか、世間一般の四十代よりも若々しく見えた。
「今日は走ってませんよ」少し不貞腐れたように名前がそういえば堤は「今日はよそ見だったな。明日はなんだ?」とからかうような口調で返される。
「まぁ俺も授業の時間間に合わなくて走るし、資料確認しながら歩くことあるから人の事言えないけどな!」
腹の底から笑い声をあげた堤はふと名前の手中にある古びた本に視線を向けた。
「…随分古い本だな?名前のか」
「いえ、図書室にあった本です。小野泰斗っていう作家さんのデビュー作らしくて」
行方不明の小野が見ていたから気になって、とは言えずにそのセリフは飲み込んだ。
「…小野泰斗?へぇ、お前本当に本が好きなんだな。一年の時もしょっちゅう本読んでたもんなぁ…。面白いか?その本」
「今の所分からないんですけど…なんですかね、面白くなりそうな気はしてます。なんか…うまく言えないんですけど変わった本なんですよね」
「変わった本?」
「今の所それが具体的に言えなくて」
「へぇ?じゃあ今度また感想聞かせてくれよ」
「先生も読んだら良いじゃないですか」
「先生はお前のレポート力を期待してる。思わず読みたくなるようなレポート頼むぞー」
堤は名前に向かって笑むと、背中越しに手を振りながらその場を立ち去った。一人になったことで再び眠気に襲われた名前は早く仮眠を取ろうと第四図書室へと向かう。
「――あははは!それ本当!?」
「本当本当!言ってたんだって」
「それ面白いわね」
やっとの思いでたどり着いた第四図書室で名前は「……マジか」と小さく呟いた。よりによってA組の女子グループがたむろしていたのだ。貴重な長い休み時間、同じクラスの人間と同じ空間で仮眠を取ることに気が引けた名前は仕方ないと一つ下の階にある第三図書室へと足を向けることにした。
「だめだ眠い…ちょっとだけ休もう…」
ようやく安寧の地に腰を下ろした名前は図書室の机の上で腕枕を作ると、ゆっくり意識を睡魔の沼に放り投げた。
◼︎
「――取れないんだけど何アレ」
「夜蛾先生に聞いてみる?」
「…なんか俺のプライドが許さねぇな…」
「取れないもんは取れないんだから仕方ないだろ」
「…?」
不意に目を覚ますと、男子生徒の話声が聞こえて名前は何度か瞬きを繰り返す。随分深い眠りについていたのか、覚醒しきらない頭でその話声を何も考えずに耳に入れていた。
「この学園の呪いのせいか?」
「潜入してもう三日。全然収穫ないんだけど何?こんなことある?早く高専戻りてー。こんな呪いまみれの学園息がしにくいわ」
――……呪い?潜入?なんの話…?
ゆっくりと腕から頭を起こし、声の出どころを探るが、名前の座っている場所からは声の主が見つからない。好奇心に駆られた名前は席を立ちあがって声の出どころを追いかけると、本棚の影に転校生二人の姿。彼らの姿を視界に入れた途端、つい反射的に棚に隠れた。
「この学園、呪いの気配はあるけど肝心な姿が見えないしねぇ…」
ここへきて急に覚醒し始めた頭が遭遇してはいけない、見てはいけないような、そんな雰囲気を感じ取ったのだ。
一刻もこの場を抜けた方が良い。そう判断して図書室の出口を見渡し探すと、どうやらこの目の前にある大テーブルをくぐれば最短距離で出れそうだった。名前は意を決して細心の注意を払って四つん這いになり大テーブルをくぐり始める。
「もうめんどくせぇし、校舎吹っ飛ばすとかどう?」
「そんなことしたら夜蛾先生に大目玉食らうよ」
「無限あるし大丈夫だって」
――校舎を…吹っ飛ばす!?
思いもよらぬ物騒なセリフに名前が驚いて顔を上げると、直後に閑静な図書室の空間に派手で鈍い音が響いた。木製テーブルに頭をぶつけた音だった。
後方で二人が息を呑んだような気配がし、こうなった以上はと名前は慌てて大テーブルをくぐり抜けようとスピードを上げる。大テーブルを抜けて出口に向かうまでに腰の高さほどの本棚がある。体を屈めたまま走ればきっとおそらく姿は見られない、大丈夫だ。そう信じて。
「やぁ、苗字さん」
「――ひっ!?」
静かに、そして素早く大テーブルを抜けた名前の前に居たのは昼休みに手を叩いてしまったあの夏油だった。
名前に初めて声をかけてきた時と同じような笑みを浮かべ、名前に視線を合わせるかのようにしゃがみこんでいる。見てはいけなさそうな場面を見てしまった後だからか、その笑みがやけに怖い。
「げ、夏油、君…」
それからゆっくりその隣を見ると、先ほどは中庭で見かけなかった五条の姿。丸いサングラスがまっすぐに名前を見下していた。
「こんちは。苗字サン?だっけ」
「……コ…コンニチハ…五条クン…」
夏油とは違って突っ立っている彼は、四つん這い状態の名前から見たら巨人のようにも見えた。こんな至近距離にいるのは初めてで、名前の身体はメデューサにでも睨まれた人間のように膠着した。
「お前、今の話聞いてた?」
あの五条君が私に話しかけているのか。この状況をどこか他人事のように感じつつも名前は首がもげそうな勢いで横に振る。
「イイエ」
片言になりつつそう告げれば、夏油は何か言いたげに上を向き五条を見上げると見られた本人は「知ってた」と小さく舌を出して悪戯っぽく笑う。その様子を見た夏油は呆れたようにため息をついた。
「うん、その様子だとしっかり聞いてたみたいで何よりだ」
夏油が困ったように笑った。「だからイイエって言ってるじゃん!」と訴えたかったが、名前にはそうする勇気も度胸もなく、「スミマセン」と小さく謝ることしかできなかった。