手篭める前篇



「やばい…ほんっとに最低なことした」

 名前は二日続けて同じセリフを呟く。昨日は昼時に夏油の手を叩いた後に、そして今日は教室の前で呟いた。そして昨日の出来事、五条の頬をビンタしたことを思い出しては一人頭を抱える。
――いやでもこんなこと気にしてたって仕方ないよね。よし、ここは平常心で行こう。

「…それにしても本当相変わらず眠い…」

 名前は本日何度目かの生欠伸を噛み締めると、散々入室を渋っていた教室の扉に手をかけて開ける。そして自分の目を疑った。

「え」

 すぐ近くにあるはずの自分の席に白髪頭の男が着席していたのだ。それは自分の見間違いでなければ…いや、これだけ派手な身なりをしていれば見間違えようがない。そこに座っていたのは例の転校生、それも白い方で昨日自分が引っ叩いた人物だ。

「や、おはよう苗字さん」

 五条の背中に視線が釘付けだった名前は突然話しかけられた夏油の声にぎごちなく視線を動かすと、彼自身は元々の自分の席に着席していて、昨日の出来事が全て噓かのように、いや、友達という約束はそのままにして他の出来事はまるで何事も無かったかのように爽やかな挨拶が。
 そして夏油の奥側の席を見ると、本来の五条が座っているはずの場所には務台が座っている。つまり、今夏油と五条の間にある元々務台の席だった場所は空席になっていた。
 自分の席は五条に座られている。どこへ?まさかB組へ?この二人が何かしらお金を使って…?名前の頭の中でさまざまな憶測が飛び交う。
 昨日は絶縁宣言をしたというのにも関わらずこの状況に名前自身もどう反応したら良いのか分からなかったが、ひと先ずはと至極小さな声で「お、おはよう」と挨拶を返すと五条がこちらを振り返り見る。

「お前の席ここね」
「はい…?」
「悟、日光弱いからさ、勝手に席替えしてもらった」

 自分の隣に空いた空席の席を指差す五条と「ごめんね」と一言謝りながら苦笑する夏油に名前はあからさまに困惑の表情を浮かべる。
――確かにこの校舎の向き上、窓側だと陽は差し込むけども…!それは別に構わないけど…!なぜこの席…!?

「む、務台く、」

 元々は務台の席だったんだ、ならばと元の席の持ち主に話しかけようとすると名前の視線を遮るように夏油のスライド式携帯が掲げられる。
 そのディスプレイには昨日、図書室で寝ていた名前の写真が写っていた。「う、」夏油の思惑を計りかねていると、目が細くなるくらいに微笑んでいた彼は僅かに目を開いて口元を緩やかに吊り上げながら名前を見た。

「もうすぐ先生、来るよ?」
「…っ!?」

 途端に名前は全てを察するのである。
――この男…、まさか根に持ってる…!?従わなきゃその写真を何かの脅しにするってこと…!?クラス移動ならまだしも退学だけは困る!!

「おはようございます。ホームルームを始めます」
「!」

 女担任が教室に入ってきたところで名前は渋々二人の間の席に鞄を置いて着席。こうして名前にとって居心地の悪い一日が始まった。
 ちなみに余談だが、夏油は例の写真は何かに使えればと思って予め撮影していたのは間違いないが、実際に写真を学園側に提出することで名前自身をどうこうするつもりは毛頭ないとだけでも言っておく。
 写真を見た名前があれこれ疑念を巡らせるのはあくまでも彼女の妄想の範囲であり、夏油は何も口にしていない。これを終始見ていた五条は自分の親友がつくづく「クズ」であると改めて再認識しては一人ほくそ笑むのであった。
 名前はクラス中の視線、特にカースト上位の女子たちの視線を痛いくらいに全身に浴びながら授業に臨むこととなったのである。


◼︎


 放課後、授業が終わるや否左右からの視線の圧からさっさと逃れるべく帰り支度を始める名前に影がかかった。
――私が一体何をしたというんだ。二人は確かに叩いたけどさ。
 少しずつ自分の身の周りの異変を感じ取りつつ名前は通学鞄を机の上に乗せた。

「――苗字さん、ちょっと良いかしら」

 よく通る声に名前を呼ばれ、「やっぱりか」と名前は人知れず心の中で白目を剥いた。目の前に居たのはカースト上位のクラスメイトだ。一番に視線を感じたのは彼女のものだった。

「…何でしょうか?」
「先生のところへノート届けるの手伝ってほしいの」
「財前さんはノート回収係じゃなかったと思ったのですが」
「……そうなの、本来は別の子なんだけど、代わりにね。だからあなたも手伝って」

――なんでそうなる。いつもの取り巻きに頼めば良いだろう。
 名前はため息つきたくなる衝動を抑えて静かに教室の時計に視線を送った。バイトまでまだ時間がある。彼女がノートを届ける手伝いを求めているのなら、それくらい請け負っても問題はない。……本当にそれだけが目的ならば。

「分かりました」

 名前が席を立つと同時に左右の席からも椅子を引きずる音。

「財前さん、私たちが手伝おうかい?」
「大丈夫よ夏油君。お気遣いありがとう。苗字さんがいれば大丈夫よ」
「…」
「ふーんそうなんだ。じゃ、またな苗字サン」
「教科書、見せてくれてありがとう。またね、苗字さん」

 やけに名前の名前を強調しながら教室を去る二人に「…ま、また明日…」と引き攣った笑みで見送ると、机の上にクラスメイトの分のノートが煩雑に置かれた。財前の取り巻きの女が置いたのだ。
――やっぱりいるじゃん…取り巻き…。
 勢いよく置かれて崩れたノートを整えれば、彼女の細くて白い指先が机の上に置かれる。威圧的な眼差しだ。

「あなた、どういうつもり?」
「…ノートを届けるつもりですが…?」
「バカにしてるの?あの二人に付け込んでどうするつもりかって聞いてるのよ」
「…私の方が聞きたいですよ」

 今日の出来事を振り返ろうとする名前に「二限と三限」と取り巻きの女が言う。

「あなた、夏油君から教科書見せてほしいって言われて見せてたわね」
「…そうですね」
「それから五条君がしょっちゅうあなたにちょっかいかけてたわ。投げてたのは消しゴムかしら?」
「…そうですね」

 そう、夏油には教科書を見せてほしいと頼まれ、それが無くなったかと思えば今度は五条から何故か消しゴムがエンドレスに飛んでく始末だった。飛ばしてどこかへ行ったはずの消しゴムが何故か何度も五条の手中にあるのだ。
 五条の術式を知っている人間からすれば仕掛けは至って単純なのだが、一般人の名前からしたら何が起こっているのかさっぱり。
 高卒認定だけでも欲しい名前にとって何よりも一番最悪な事態は退学だ。それを思えば少しだけ肩の荷が下りるというもので、名前はカバンを肩にかけてノートを両手で抱えた。このノートはあの授業だから、あの先生に持っていけば良いか。
――でもまぁあの人たちの嫌がらせもそのうち飽きるだろう。退学させられないだけマシ。
 そこまで思った名前はハタリと名案を思い付く。

「席替え、しますか?」
「――っ、調子乗らないでよね」
「……ノート持ってきますね」

 名前は悔しがる彼女にペコリと頭を下げるとノートを抱えて「席替えてくれないのか」と内心不満を零しながら教室を出た。


◼︎


 ノートを担当の教師に届けた後、眠気やら心労やらで随分重くなった足を引き摺るようにしていつもの喫茶店に向かい木製の扉を開けると、カウンターの向こうにいた折山が「よっ」と声をかけてきた。いつもと変わらない折山と喫茶店の空気感に落ち着いた名前は「はぁああああ」と安堵のため息を出した。

「どうしたのいきなり…。なんか疲れてるねぇ?」
「…まぁ、その、いろいろと……とにかくいろいろありまして」
「そうなの?あ、そうだ、お友達来てるよ」
「……友達?」

 「あっち」と顎でしゃくる折山のセリフに名前は店内を見渡すと、ボックス席にいたある客を視界に捉えた途端持っていた学生鞄を落とした。