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「ご自宅ですと昨今はプライバシーがとかいろいろありますしからね。すみません、カフェまでご足労いただいてしまって」

 物腰柔らかそうな口調で話す目の前の女性の言葉に「いえ」と短く返事を返しながら、テーブルの上にあったシルバー色のコーヒーカップを手に取り口を付ける。口内に広がるコーヒーの渋みを味わいつつ、チラリと目線だけを目の前の人物に向けた。
 夜遅くまでやっている洋装の喫茶店の中、私の目の前には和装姿の女性。店内の洋なる雰囲気に対して、女性の和装はなんとも言えない相対感があり、横文字のおしゃれそうなコーヒーの名前をさらりと注文するあたりは私よりも通い慣れているようだったから、人は見かけて判断してはならないいい例だなと少し思う。

「それで…えと、」
「あぁ、失礼しました。私ナナシと申します。呪術界では主に裏側で仕事していまして、名前が無いのです」

 ウン、やっぱりこの界隈は未知だ。

「それでナナシ、さん。あの、私にどう言ったご用件で…?」
「あなたの素晴らしい術式…、構築術式のことを耳にしましてね」
「はぁ…」

 構築術式、それは私が持っている術式だ。呪力を練って有機物を生み出す術式…。それに一体何の用があるのか?いまいち見えない話に僅かに首を傾げると、コーヒーカップを持つ手を目の前のナナシさんに音もなく握り込まれた。

「構築術式の保持者は大変貴重です。あなた、五条悟に借金があるそうですね?」
「へ」
「そんなあなたにとても良い話を持ってきました」
「?」
「私から直接依頼をかけた特別任務をこなしませんか?追加で報酬を上乗せいたしますよ」
「特別…任務…」
「えぇ、通常の任務金にプラス上乗せです。一般企業で言う能力金と言ったところでしょうか」

 思わぬ提案話に目を丸くしていると「そうですね、だいたいですが20万から追加でお渡しすることも可能でしょう」なんとも魅力的なナナシさんの提案にコクリと喉元が無意識に動く。

「に、じゅうまん、」
「五条悟への借金があってお困りと聞いておりましたから、もしあなた様がご希望でしたら多少ですが色を乗せることもできますよ」

 ニコリと微笑むナナシさんの顔をマジマジと凝視。なんだこんな美味しい話。この人からの仕事を引き受ければ五条さんの借金なんてちょちょいのちょいで返せちゃうってこと?ということはつまり、早く五条さんとの借金関係が解消されればあの婚約者さんから睨まれることもない、ということで、

「少々危険は伴いますが、」
「やります!やらせてください!」

 こんな話、私には承諾する他の選択肢などなかった。


――


「ふぅ、一仕事終えた餃子は美味しい…!」

 高専の山を降りてから車で少しのところある人情味あふれる中華料理屋で、口に放り込んだ餃子をひとり味わう。
 ナナシさんから特別任務の話をもらってから2週間ほどが経った。任務内容は少しずつハードになってきている気もするが、もうとにかくあの人からもらう仕事はとにかく羽振りがめちゃくちゃよろしかった。おかげさまで借金の返済も順調で、先日とうとう残金200万を切ることに成功したのである。

「次の任務は…明後日の新潟か。帰ったら荷造りと洗濯しなきゃなぁ」

 お冷を口に含みながらスマホのスケジュールアプリで日程をチェックしていれば、ポコンと可愛らしい電子音がひとつ。五条さんから「生きてんの?」なんてショートメッセージがひとつ。…後で返信しようとひとまずスマホは画面を伏せるようにしてテーブルに置き直した。

 やはり特級術師の五条さんは相変わらず忙しいようで、なかなか会わない日々が続いていた。まれにこうして向こうからメッセージが一言来たりするものの、婚約者さんのことを考えてなるべく時間を置いてからさらっと、会話があまり続かないように素気なく返事をしている。
 借金の返済も順調だし、ひょっとしたらこのまま会わずに返済しきってしまうなんてこともあり得るのかもしれないなぁ。最近は借金を無事完済したら、夜蛾さんや伊地知さんには申し訳ないけど呪術師は退職させてもらって、正社員の仕事探しもありかもしれないと思い始めている。

「ゲッ、電話…?」

 五条さんからの連絡を後回しにしていたら急にテーブルの上に置いたスマホが震え、画面を見れば五条さんの名前。しかも着信だ。意味が分からない。

「…あんまり五条さんと接触したくないっていうのに呑気なもんだなぁ、あの人も」

 聞けばナナシさんはあの五条さんが嫌っているという呪術界の上層部に当たる人物だ。そんな人と私が知り合って、さらには直接仕事をもらっているだなんて知った日には何を言われるものか。下手すれば五条さんの任務に連れ回されるハメにもなりかねない。借金完済が長引くのは勘弁してほしいし、何より芋づる式についてくるあの婚約者。これ以上高専を居心地悪い場所にしたくない。

 そうなってくると、私がすべき最善策とは五条さんとなるべく接触を避けること、これに尽きる。幸い有名人でもあるあの人は高専の補助監督や知り合いに聞けば所在地なんて手に取るようにわかる。五条さんの情報をこまめに仕入れて動向をチェックし、最低限の接触で、最短完済で、正社員の仕事を見つけ次第早期退職!我ながら素晴らしいプランだと思う。

「イテっ」

 完璧な人生プランに心を躍らせながら餃子に箸を伸ばすと手がズキリと痛んで、つまんだ餃子がボトリとタレ皿に落下してしまった。その反動でテーブルに飛び散ったタレをナプキンで軽く拭う。

 数日前にナナシさんからもらった仕事で、術式を使ったらその反動で手の骨に少しヒビが入ってしまったのだ。家入さんのところへ行けばすぐに治してもらえるだろうけど、そこへ行ったらまたもや五条さんへ余計な情報が行くのが目に見えてわかる。変に絡まれないために一人でこっそり完治を待っているのだ。我ながらよく考えて動けていると思う。もしかすると私も裏の仕事できるんではないだろうか?
 まぁそれはさておき、やはり手の骨にヒビが入るのはなんと不便なものか。

「やっぱこういうのってカルシウム摂った方が治り早いのかなぁ」
「――最近忙しいみたいじゃん」

 ひゅっと自分の呼吸が妙な音を立てたのを確かに聞いた。

[借金375万]−[報酬180万]=[残金195万]



五臓六腑
失笑。