08
最近、五条さんが忙しいらしい。日頃からことあるごとに私にウザ絡みをよくしてくるあの人だけど、あぁ見えてなんだかんだ現代最強の呪術師と言われている人だし、私みたいな道端の石っころみたいな呪術師に茶々入れてる暇なんてないはずだ。借金の貸し借り関係があろうとも多分本当ならこのくらいの距離感が正しいのだと思う。
「あ、苗字さん」
報告書を提出した帰り、今日の晩御飯はどうしようかと思案しながら校内を歩いていたら私を呼ぶ声がして立ち止まる。名前を呼び止められて嫌な気がしないのは声が優しいそれだったからだ。これが五条さんや家入さんのものだったら聞こえないふりするところだったが、振り返れば思った通りの華奢な体をスーツで纏った男性がそこにはいた。
「伊地知さんお疲れ様です」
「お疲れ様です」
ほんの少し疲労感の色を浮かばせつつも優しい笑顔を見せてくれたのは伊地知さんだった。私が五条さんに高専に連れてこられてからもう何度かお世話になっている人物。呪術界の最強の常識者ならこの人がぶっちぎり1位だ。言うまでもないと思うけどワースト1位は五条さん。
「今日はもうお帰りですか?」
「はい。さっき報告書を提出してきたところでして」
「あぁそうだったのですね。もし今日はご自宅に帰るだけということであれば、近くまでお送りしましょうか?」
「え」
「実はこれから新宿に五条さんの迎えにいくところなんです。向かう途中に苗字さんのご自宅寄れますけど、どうされますか?」
「えー!そうなんですか!じゃぁ…お言葉に甘えて」
「お安い御用です」
にこりと微笑んだ伊地知さんに今度の出張で何かお土産を買っていってあげたいなと一人胸中決意したのは言うまでもない。
――――
「へぇ〜、伊地知さんは五条さんの後輩に当たるんですねぇ」
「えぇ」
伊地知さんに自宅まで送ってもらうことになり、駐車場までの道のりでふと伊地知さんに呪術界入りになることになった経緯を聞いてみたら意外な話を聞いた。五条さんの二つ下で、学生時代の先輩後輩関係なんだとか。
「一応はそうなりますね。まぁ情けない話になりますが…、私は術式を持っていなくて呪術師にはなれず…」
「呪術師はみんな補助監督さんありきですから、もっと誇りに思ってください!」
「ははは、お心遣いありがとうございます。お優しいですね」
特にあの五条さんをよく相手にしているんだからもっと誇りに思ってほしいくらいだ。出張のお土産どころか今度胃薬かなにか買ってきてあげた方が良いかもしれないと頭の片隅でそう思案しつつ伊地知さんと肩を並べて歩いていると、向かいからカツカツと高いヒールの音を鳴らしながら近づく一人の女性の姿が視界に入った。呪術師か補助監督かはわからないけどこの敷地にいるということは呪術関係者なのは間違いない。彼女は長いウェーブがかった髪を揺らしながら歩いていたら突然私たちの目の前でピタリと足を止めた。
つれられるようにして私たちも軽く足を止めかけると、忽ちぶわりと香水の香りに包まれる。甘いスイーツと花が降り混ざったような香りだ。
「伊地知さんこんばんは。ねぇ、悟さん見なかった?」
「五条さんは今新宿の方で仕事ですよ。これから迎えにいくところです」
「そうだったのね!ありがとう。あの人何度電話かけても出ないのよ、助かったわ」
「…はは」
毛先まで躍る艶々の栗色の髪を靡かせた女性は伊地知さんの言葉にあからさまに落胆の色を見せ、それからくるりと踵を返すようにして元来た道を戻っていった。女性の姿がずいぶん遠くなったのを見計らってこそっと伊地知さんに耳打ちして聞いてみる。
「今の方は?」
「少し前に入ってきた補助監督ですよ」
「へえー可愛らしい方でしたね」
香水の匂いはややキツく感じたものの顔は整っていて可愛い寄りだ。モデルさんのような人もいるのかぁと感心する私に伊地知さんはなんと答えたら良いのか迷ったかのようにから笑いを浮かべた後に、
「そう長くは居ないでしょうね」
憐れみを含んだ眼差しで遠のいていく女性の背中を見ながらそうぽつりとつぶやいた。
「え?どうしてですか?」
「よく五条さん目当てで呪術界にくる人がいらっしゃるんです」
「……そうなんですか」
「五条さんはなかなか自由な人ですから、理想と現実のギャップに耐え切れずに辞めてしまう人が多いんですよね…」
呪術師や補助監督の人手不足な理由が垣間見えた気がしたのは言うまでもない。
「車、少し奥まったところにあるので…お疲れでしょうし苗字さんは少しここで待っててください」
「すみません、実は足が筋肉痛で」
「ふふふ、すぐ取りに行ってきますね」
「…はー、伊地知さんに声かけてもらえて助かったー」
車を取りに行ってくれた伊地知さんの背中を見送りながらぼんやりため息を吐く。任務ですっかり棒になりかけている足を労わるように腿やら脹脛を優しく叩いていたらふと真後ろから砂利の音。
「ちょっとアンタ」
「うわっ!?」
なんだろうと思って振り返るよりも先にガシリと肩を掴まれる方が早かった。突然の呼びかけにビクリと肩を揺らして振り返るとついさっき嗅いだばかりの甘い香り。つい先ほどまで話題に出ていた彼女だった。
「最近悟さんの近くにいるって女、アンタよね?」
「え…?」
悟さんの近くにいる女…とは。言葉の意味をイマイチ掴みきれないまま目の前にいる彼女の長いまつ毛を見上げていたら、その双眼は呆れたように細められた。なんだこれ、嫌悪、なのか。私は今彼女に嫌悪に近い感情を向けられている気がしてならない。ついさっき顔を合わせたばっかだというのに。
「私悟さんと婚約してるから」
相次いで降りかかる衝撃的な言葉に一瞬間があいた。
「こん、にゃく、」
「何がこんにゃくよ!婚、約、者!意味わかる!?」
「えっ、あっ、すみませ…そ、そうなんですか!?」
「公にはしてないけどそういうことだから。あんまり悟さんにベタベタするのやめてよね、不愉快よ」
五条さん婚約者なんていたのか。この人と五条さんは将来結婚する、のか…公にしていないというのも相手があの御三家の五条さんだからだろう。伊地知さんには五条さん目当てのミーハー女子みたいな話を聞いていたが、婚約者となれば話は別だ。未来の夫のサポートをするために補助監督の仕事でも始めたのだろうか…?
あの五条さんが結婚。驚きが隠せないがこんな綺麗な人だったら確かに納得いくところはある。
「すみません、でした。ご気分を悪くさせてしまって」
どうにか絞り出して出た一言を聞いた彼女は満足そうにして笑みを浮かべると「分かればいいのよ」と一言素気なく言い放つを踵を返した、そりゃたしかに私みたいなのがそばにいたら気分は良くないだろう。
――
「五条さん…結婚するんだ」
ややどこか上の空のような気分のまま伊地知さんに自宅近くまで送ってもらい、遠くなる黒のセダンを見送る。なんだか心にぽっかり穴が開いてしまったような気分なのはきっとおそらくあの人が家庭を持つだなんて夢にも思わなかったからだろう。というか、なんか追い越された悔しささえどこかにある。人の合コン台無しにしておいて自分は可愛い婚約者持ち?あれ、なんだろう悔しいどころか逆に腹立ってきたんですけど。
「――こんにちは」
「うわ、!?びっくりした!」
早くご飯食べて熱いお風呂入ってさっさと寝よう。そう意気込んで振り返った私の目の前にいたのは見知らぬ和装姿の女性。今日はやたら呼び止められては驚かされる日だな。
「……どなたですか?」
「あぁ、そう警戒しないで。私、所謂呪術高専の上層部に所属する者でして、苗字さん、少し今お時間よろしいですか?」
「?」
高専関係者であることを示すテンゲン様という人の紋様が入ったカードを見せたその人はにこりと笑みを浮かべた。
[借金400万]−[報酬25万]=[残金375万]