でる幕がない
◼︎
「フフ…アンタのことは一目見た時から分かっていたさ」
「な、んで」
目の前で紫煙が揺らめく。自分の心臓が一つ一つ強く脈打つ。
頭の中を整理するのに精一杯で、言葉一つ絞り出すのもやっとだった。
「苗字悦葉…アンタの母親はあたしの妹さ。苗字は私の旧姓、名前という名も悦葉から聞いていたよ。苗字名前なんて人物が私の目の前に現れるのは後にも先にも名前、お前だけに違いないよ」
「…」
「それに…覚えていないだろうけどね、生まれてホヤホヤのときに一度会っていたんだよ。何十年の時を経てまさか酒を飲み交わすことになろうとはね。生きてりゃ面白いこともあるもんだねェ」
「…う、そ」
「悦葉の報せは聞いていたが…アンタのことは何一つ耳に入ってこなかった。……心配したよ、名前」
「おとせ、さん…」
「よく生きていたね。会えて嬉しいよ」
にこりと微笑んだその笑い方が、死んだ母親の顔と一瞬重なった。片目からぬるい塊が一粒転がり落ちた気がした。
「……グルルァ…」
「!」
聞き慣れた呻き声に目元を拭って後ろを振り向く。姿は見えないが、居る。臭いで場所はすぐにわかった。
「グルルルァ!!!」
「お登勢さんは安全なところへ…!」
「名前!」
傘を手に取り、物陰から飛び出してきた獄卒に向かって駆け抜ける。
「――!」
傘を振り下ろすよりも早く獄卒の上体が切り離され、眼前を斬り抜ける剣撃から身を引く。この剣撃の速さ…先ほど見覚えがある。
頭上で刀を仕舞う短い音が聞こえ、見上げれば木の上に立っていたのはのガングロ親父だった。
「んん?コイツァ会議所で見かけた嬢ちゃんじゃねーか」
「次郎長…!」
軽やかに木から降り立つとゆっくりと私の方に向かって歩み寄る。残り10歩。
「ワリーけど別嬪さんを斬る趣味はねーんでい。大人しくしておいてくれりゃぁオメーさんにゃ危害は加えねぇよ」
残り5歩。
「……それは向こうにいるレディも同じで?」
「…フン、何のことだか俺にはさっぱりだ」
直後には墓場に似つかわしくない衝突音が響いた。鞘と傘が互いに小さく悲鳴を挙げた。
「よせやい。女如きが俺に勝てるわけがねぇ。俺に刀すら抜かせられねぇよ」
「こんな墓場でドンパチするくらいなら日サロに行くのをオススメしますよ」
「言うねぇ嬢ちゃん」
「名前よしな!!」
お登勢さんの声にニタリ、とガングロ親父が笑った。
傘が振り払われ、鞘先が迷うことなく目の前に迫る。それを手で弾いて軌道をそらせば頬を掠める熱い感触。敵を視界に捉えて離さないまま右拳を突き出すと、手のひらで受け止められて乾いた音が響いた。
「ありゃ、可愛い顔に傷付けちまったねぇ」
「じゃあ責任取ってもらわないとですねぇ」
掴まれた手を逆に掴んでやり、腕を思いっきり引き寄せ、その額に向かって思いっきり己の額を叩きつけた。
互いに反動でのけぞり、そのまま間合いを取る。
「ほう、なかなかやるじゃねーか」
奴さんも額を打たれて少し血がにじみ出るくらいで済んでいるあたりはなかなかの強者と見える。
「さては夜兎、かなにかの血が混じってやがるな」
いつのまにか出ていた刀がチン、と鞘に収まった。同時に肩に燃えるような激痛が走る。
…抜かれたことに気付かなかった、訳ではないが、正直早すぎて動けなかった、方が正しい。傘の柄をしっかり握り、腰を低くする。
「刀…、抜いたね」
「2度目はねぇよ」
「―っ」
「悪ィけど深くいかせてもらった。…嬢ちゃんは良くやったよ。女だてらに俺に刀を抜かせるなんざ」
ガクリと膝が足に着いた。倒れないように地面に傘を突き立てる。
視界がぐらりと揺らぎ、些か血を流しすぎたのが分かった。
「悪ィな嬢ちゃん。俺には先にやらなきゃなんねェことがあんだ。お遊びも此処までだ。ねんねの時間だ」
「――お待ち、次郎長」
芯の通ったら声が響いた。顔を上げれば真横に立っていたのはお登勢さん。しゃがみ込んで私の頬にハンカチをあてる。
「この子はただのえいりあんばすたー。かぶき町の者ですらいまいよ。話が違うんじゃないのかい」
「四天王であるてめェの前に立ちはだかった、それだけで十分だろう」
「…一つ頼めるかい。四天王だなんだ勝手に呼ばれちゃいるがねェ、あたしゃぁ勢力なんて一人たりとももっちゃいない。…私だけで終わりにしとくれよ」
「お登勢さん…!」
「名前も、アイツらも……なーんの役にも立たない…ただの私の家族さ」
「そいつがてめェの答えが…」
「ぐっ…!」
伸びてきた切っ先を傘で封じる。次郎長の読めない目が私を捉えた。
「遺言は聞いただろう。聞き届けてやらねェでどうすんだ」
「…私には……遺言には聞こえなかったけどね」
「名前」
肩をぐっと掴まれて後ろに倒れこむと同時に頬に衝撃が走った。お登勢さんに殴られた、と気付いたのはしばらく経ってからだ。
地面に倒れこんで、身体が思うように動かない。
それでもゆっくりと顔を上げると、目の前で鮮血が舞った。
「…っ」
頭の中で何かがプツンと切れた。気づけば次郎長の目の前に迫っていて、ヤツも驚いたのか、一瞬合った目には驚きと戸惑いの様子が隠しきれていないのがわかった。
「ぐっ!?…何しやがんでい…!」
本能的に次郎長の顔面に向かって持っていた傘を振り下ろすが、それは刀によって塞がれる。傘は重くてダメだ。
"コレ"が一番良い。
傘を手放して素手で刀を掴み、奴の胴体に脚を絡め、空いた手で次郎長の顔を鷲掴みにする。
「…さては獣に堕ちたか」
「か、はっ…!」
このまま握り潰してくれようと力を籠めれば、次郎長はそのまま壁に向かって走りだし、私の背中に衝撃が走った。一瞬手足の力が弱まって地面に倒れ込んだが、体は驚くほど素直に動いた。
まるで…あの丸薬を飲んだ感覚に近かった。
「…!」
近くにあった水たまりに映る自分が、一瞬だけ本当に獣のように見えて体が固まる。
刹那、水溜りに映った視界の片隅で次郎長が白に殴り飛ばされている様子が見えた。
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