11
一頻り挨拶を終え、アルトは虎から開放されると大事そうに花と何かの実らしきものをナイトテーブルに置く。虎はまだ帰る気はないらしく、まだアルトの傍にいる。しっぽが傍で揺れるのを見ながらアルトは、はたと気づいた。何の話をすればいいんだろうかと。会話など、最近になってようやくタリルとするようになったばかりで、まだまだ慣れない。目をキョロっと、アルトが戸惑った時のもはや癖とも云える眼球運動をしようとした時、虎がテシテシと前足でアルトの布団を叩いた。
「ひへ…?」
思わず変な言葉が口から飛び出したが、虎はそれを気にすることなく、アルトの手の平を舐めた。それから、アルトの顔をじっと見る。何か伝えたいことがあるのだろうが、わからないと首を傾げると、虎はナイトテーブルに置いてあった薬を捏ねるための器を口に咥えるとアルトの手の中へと置いた。
――瞬間。手と器が触れたと思った途端に、器から徐々に水が溢れ始めた。水は止まることなく、溢れ続けついには器の淵から零れ落ちそうになる。アルトはベッドを濡らしてはいけないと慌てて部屋の隅にあるレンガ造りの排水場まで持って行く。ベッドを濡らさずに済んだと安堵の溜息を吐くと改めてそれを見る。レンガの上に置かれた水が溢れる器はまるで一つのオブジェのようだ。だが、恐らく水が永続的に溢れるだろう器に、置いておいて大丈夫かなと不安になる。アルトが知る限り、こうして溢れだした水が止まるのを見たことがなかったからだ。もちろん、それは一回しか経験したことがなかったが。
不安がるアルトに対し、その器を作り出すようにした虎は嬉々としてその溢れ出る水に口をつけた。喜んで水を飲んでいる虎を見て、これが欲しかったんだと理解した。舐めとるように、けれどもごくごく飲む虎に、抱いていた不安が徐々に薄らいでいく。
喜んで、くれたなら、いい、かな…。
アルトは水を飲む虎の傍に一緒にしゃがむ。ふさふさと艶やかな毛がゆさゆさ揺れるのを眺め、アルトはそれに目が離せない。触ってみたいが、水を必死に飲んでいるのでタイミングをうずうずと待ってみる。
虎語、とかわかんないけど、触っていいか、訊いてみよう。
虎と仲良くなろうと密かに心の中で目標とすると、軽いノックの後ひょこっとタリルが顔を出した。新しい水を持ってきたらしい。
お帰りなさいと声をかけようとすると、その前にタリルが大きく目を見開いた。
「黒虎様…!?」
来賓室にいた存在に、思わずタリルは持っていた瓶を落とした。その拍子に折角汲んで来た水が絨毯へ零れてしまう。アルトはタリルのその反応に驚き、次の瞬間可哀想なくらい顔を青褪めさせた。
もしかしたら、俺はとんでもなく身分の高い人を相手にしていたのかもしれない。急に緊張して、体が強張り始めた。ぐらんと一瞬頭が揺れる。
アルトの真っ青な顔を見ると、虎がそれを察して目だけで笑った。その表情は、「気にしなくて大丈夫だ」と云っているようでアルトはほっと安堵する。動揺を無くしたアルトに、タリルが恐る恐る問いかける。
「あの…、アルト様」
黒虎様はなぜ、ここへ…?と慎重に質問をするタリルに、アルトは見舞いの件を思い出し、口をもごもごと動かすと照れたようにそれをタリルへ報告する。
「俺、お見舞いで、お花、貰って…」
嬉しさを抑えようとして、でも抑えきれず心底嬉しそうな雰囲気を醸し出すアルトに、タリルは何故だか胸が締め付けられる。と、同時にその短い言葉で全てを理解した。
「良かったですね、アルト様」
まるで母が子を見守るような優しい目でタリルがそう云う。こくんとアルトが頷く。黒虎は二人のやり取りを見て尻尾を揺らすと、しなやかな動きで扉へと向かう。黒虎が部屋を去ろうとするので、アルトは慌ててその背中へ「ありがとう、ございましたっ」とがばりと頭を下げる。アルトの感謝の言葉に黒虎は尻尾を揺らして答えると、そのまま部屋を出ていった。
扉がぱたんと閉じられると、暫くしてから二人は大きな溜息を吐いた。アルトは、感謝と緊張とで忙しく感情を変化させたことと、タリルは高貴な存在である黒虎と同じ空間にいて緊張したためだ。二人はお互いに目を合わせるとタリルは水を零したことを思い出し、アルトをベッドへ促すとその片づけを始めた。アルトも大人しくベッドへ向かうが、ふとナイトテーブルに置いたアボカドの種ほどの実が視界に入り、それをタリルに尋ねてみる。
「タリル、君。これって何、かな?さっき黒虎…様に貰ったんだけど」
手のひらに乗せてその実を見せると、タリルは「ああ、これはですね」とそれが実は種であることを教えてくれた。
「これは、虎の種と云って、文字通り虎を生む種です。黒虎様から頂いたということですから、正式に許可が得られたということですね…。アルト様、この種を育ててみましょうか」
ちょっと待ってて下さいねと、タリルは手短に説明すると部屋を出て行った。残されたアルトは今の説明にただ驚愕した。
虎って、種から生まれるの…?
どうやって?と、不思議そうに手の平にある種を覗き込む。前の世界では、生物の授業の際に生命の誕生という動物が生まれるまでのビデオを見たことがあった。が、この世界では虎が虎を生むという前の世界の摂理は存在しないらしい。ならば、どのように虎が生まれるのか、凄く興味がある。
手のひらの種をコロコロとしながら、楽しみにしているとタリルが大きめの鉢を持って戻ってきた。どうやら、種を植えて虎を生むらしい。
鉢の中には土が入っていて、本当に植物を植えるような感じだ。
「えっとですね。ここからはアルト様お一人でやって頂くんですが、僕が一から教えるので…って、またそんなに目をキョロキョロさせなくても大丈夫ですッ!」
すごく簡単ですからと、少し不安になるアルトの前にタリルが鉢を置く。
「ここの真ん中の土を種が入るくらい掘ってもらって、その穴に虎の種を入れます」
タリルの説明通り、アルトは鉢の真ん中の土を掘り、種が入るくらいの穴を作る。そして、種をそこへ入れた。
「そしたら、そこで水を入れるんですが、あ、持ってくるの忘れましたね、ちょっと持ってき…あれ?」
水を忘れたと取りに行こうとしたタリルの視界に今しがたアルトが作った水が溢れる器が入る。
「え、これ、は…?」
排水場まで歩み寄って不思議そうにそれを覗き込むタリル。ただただ水が溢れ出るだけの器に首を傾げながらアルトの方を見た。一方アルトは不安そうな表情をしていた顔を一変させて青くする。もしかしたら、いけないことだったのかもしれないと、目を泳がせた後タリルに頭を下げた。
「ごめん、なさいっ。その、黒虎…様が、器を俺の手の中に落として触れたら水が、溢れて、きちゃって…」
可哀想なくらい顔を青くするアルト。思えば、器から水を出すなんて変だ。異世界だからといって不思議な力が良く思われるとは限らない。それに、薬を捏ねるための器を勝手に水を出す器へと変えてしまったのだ。よく見ると高そうな器だ。アルトの脳裏に弁償の二文字が浮かぶ。
変な力なのかもしれない。それと、弁償しないと。でも今は無一文だし、どうしようと、色々な考えがごちゃごちゃと頭を回り混乱するアルト。それに対し、タリルは顔をぶんぶん横に振った。
「謝らなくても大丈夫ですよ!?」
「…でも、やっぱり変、だよね…あの、弁償するからっ、でも、俺お金…あ、体で返す、から」
「いけません!」
ちょっと落ち着いて下さい!と、声を荒げるタリル。
「アルト様、器のことは大丈夫ですから気になさらないで下さい。それと、その力は変でも何でもないですよ。花嫁様というのは何かしらの能力をお持ちですから」
罪悪感を取り払い、不安を解消するように説明をするタリル。アルトはそれに耳を傾け徐々に落ち着きを取り戻した。
「アルト様のお力は変でも何でもないですよ。大丈夫です。さ、アルト様、先にこれを済ませてしまいましょう?」
まだお体が本調子ではないでしょうからと、先を促すタリルにアルトは頷いた。
虎の種を植えた鉢を配水場まで持ってくると、アルトはタリルに教えられた通り、水があふれる器から水を手で掬い取り種へとかけた。それを数回繰り返し、土が全体的に濡れたところで種へ周りの土をかける。そして最後に両手でひと掬いした水をかけ虎の種撒きを終えた。
「あとは、花が咲いて虎が生まれるまで毎日欠かさず水をやれば大丈夫です」
簡単でしょう?と云われ、アルトはそれなら自分にもできそうだと意欲を見せる。鉢を配水場近くのチェストの上に置くと、早速タリルにベッドへ戻るように云われ大人しくそれに従った。ベッドへ横になると、体が随分と楽になった気がして、ふうと小さくため息を吐いた。すると、その些細な息遣いを見逃さなかったタリルがアルトの額に手を乗せた。
「あ、やっぱりまたちょっと熱上がってきてますね」
熱があることがバレると、タリルはすぐにアルトが生み出してしまった水が溢れる器から水を汲んできた。
「部屋に水汲み場があると便利ですね〜」
冷たい水に布を浸すとそれを硬く絞って額に乗せてくれた。冷たい布が気持ちがいい。
「やっぱりまだ体調がよくないですね、アルト様。力のことはまた後日にしますね。今日は取りあえず、寝てて下さい」
タリルにそう云われてしまい、大人しく眠りに付こうとするがまだ日が高く眠れそうにない。目が覚めてしまっているアルトに、タリルが気をきかせてくれる。
「じゃあ、何かお話でもしましょうか」
何のお話がいいですか?と優しく問われ、アルトは考えた。力のことは後日と云われてしまったし、何を訊けばいいのだろうか。この世界の言い伝えは何度か訊いたしと、迷っているとタリルが苦笑する。
「すみません、そう云われても困っちゃいますよね。それじゃあ、今日は黒虎様から虎の種を貰ったことですし、この国の虎のことでもお話しますね」
気を遣ってくれたタリルに「うん、お願い、します…」と返すと話は始まった。
この国は虎の国という名だけあって、虎は高貴で神聖な生き物だという。一人に対し、虎の種から生まれる虎は一頭で、主より一つ下の階級が与えられるらしい。
「それから、この国の虎は様々な色が存在します。青や赤、緑といった多くの色がありますが、黒色は我が国には一頭のみ存在します。黒色は王の証であり、黒色の虎を生み出した者だけが王位に就くことができます。なので、黒虎様の主は必然的に現王となります」
種から生まれる虎の話に、そうなんだと感心すると同時に、黒虎がやはり高い身分であったことを知り、少しだけさっきの接し方でよかったものかと不安になった。が、先ほどの黒虎の表情を思い出し心の中で頭を振ってそれを振り払った。
「アルト様…?」
「あ、うん、何でもないよ。その、続き、お願いします」
タリルはアルトの様子に首を傾げてから、それじゃ続けますねと話を続けた。
「えっと、この国の虎は様々な色が存在するって言いましたよね?青や赤、緑といった色がありますが、実は白色に近い色の方が虎の能力が高いんです。黒色は王の虎なので、また別格の力なんですけど…。なので、この虎の国の人々は自分の虎が白に近い色であるようにと望むんです」
「白い色の方が…、そうなんだ…」
「はい。ですが、実は白色は現王がその座に就くようになってからまだ生まれてません。王が就任した当初はまだ薄い色の虎が生まれていたのですが、最近は色の濃い虎ばかりで…その他にもこの国は問題を抱えているので、王もそちらを解決するのに忙しいとは思うのですが…」
タリルはそこまで云って口を噤んでしまった。虎を大切にする国だ、虎の問題が解決していないことに気を揉んでいる人も多いのだろう。タリルもそのうちの一人だ。
「タリルは、虎はいない、の?」
「僕ですか?何度か試しましたが、ダメでした。虎が生まれないのは特に珍しいことでもなんでもないんですよ」
タリルの平然とした言葉にアルトは問うてから訊いてはいけないことだったかもしれないと思ったが、そうではなかったので安堵する。
「今は濃い色の虎ばかりが生まれていますから、虎の種を育てることを避けようとする人も多いんです。体裁が大事な人も多いですから」
その言葉を訊いて、だからタリルはすぐに植えようと云ったのかもしれない。今の時期に虎を生む人は少ない。けれど、アルトが竜の花嫁でこの世界へ来たから。この虎の国へ来たから。何かの突破口になればと考えたのかもしれない。そんなことを思ったがアルトはそこまで思ってから考えるのを辞めた。どんな理由があるにせよ、自分の虎の種なのだ。
どんな色の子でもいい、な。だってきっと可愛いと思う、し。
アルトはタリルの話を聞きながら、倦怠感がある中自分が植えた虎の種へと思いを馳せ、次第に重くなる瞼に逆らうことなくそのまま眠りについた。
「アルト様…?」
白色の虎が生まれやすい人の話をしていると、アルトの反応がないのでタリルはベッドへと視線を向けた。すると、そこには静かに寝息を立てるアルトが居り、タリルはふふっと小さく笑うと布をかけ直す。
アルト様の虎様なら、きっと幸せな気がします。
そんなことを思いながら、タリルは音を立てないようにアルトの部屋を後にした。
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