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 翌朝、タリルは約束通り耐魔食器で朝食を持ってきてくれた。アルトは、この日初めて自分の手で食事を取ることができた。朝食にしては量が多目なので残してはいけないという義務感に駆られ頑張ってみたが、無理して食べようとしていたことがタリルにバレてしまい、半分程残したところで食事を終わらせた。残したことを謝罪すると、タリルは屈託ない笑顔で「気にしないで下さい」と云って片づけてしまった。その手間にも申し訳なさを感じつつ、食事も終えてしまい昨日よりも体調が良いアルトは時間を持て余した。それはタリルも同じで、朝食の片づけが終わってしまえば時間ができてしまう。

「暇ですね…何かお話しましょうか」

 何か訊きたいことはありますか?というタリルの気遣いに感謝しながらも、アルトは何かないかと思考を巡らせる。すると、以前訊けなかった神童のことを思い出した。けれど、それを訊いていいものか悩む。アルトの何か云いたげな表情に気づいたのかタリルが「何か思い当った顔してますね」とその内容を訊いてきたので、アルトは慎重に言葉を選びながら神童のことを尋ねた。すると、タリルも神童の話をまだできていなかったことを思い出したらしい。

「そういえば、神童の話がまだできていませんでしたね」

 では、この時間は神童の話をしましょうかと、タリルがいよいよ話をしようとした時、コンコンと部屋にノックの音が響いた。その音に思わずビクッと肩を跳ねさせるアルト。そして、タリルと顔を見合わせる。すると返事を待たずに扉が開き、アルトとタリルは心の準備がないまま、訪問者と対面することとなった。扉が開く前に、アルトは思わずタリルの前に出る。手足が震えるが、庇ってばかりではいられないと無意識に体が動いたのだ。しかし、アルトとタリルが予想した顔ではなく、扉の前にいたのは漆黒の虎だった。
 黒虎の登場に、二人はほっと安堵する。二人の緊張した顔が急に緩まったので黒虎は首を傾げたがすぐに部屋の中へと入ってきた。そして、アルトの傍まで歩み寄ると自然な動きで止まり恭しく一礼した。あまりにも滑らかな動きにアルトは慌てて頭を下げると、黒虎はずいっと口に咥えていた手紙を差し出した。それを受け取ると、紋章入りの封ろうがされていて、アルトが何か重要なものかもしれないと警戒すると、それを見たタリルが目を見開いてから嬉しそうな声を上げた。

「アルト様、きっとお披露目の告知ですよ!」

 王の紋章が何よりの証拠です!と開けるのを促すタリルに、警戒心が解けたアルトは封をゆっくり開けた。中に入っていたのは予想通り手紙で、こちらの文字なのだろう象形文字に似た字が羅列してあった。アルトは一通りそれに目を通し驚く。その紙に記載してある文字は以前アルトが習ってきた文字とは異なる。だというのに、その文字が読めるのだ。見たこともない、読めない文字なのに理解できることが不思議でならない。

 でも、これを書けって言われたら、書けない自信がある。

 やはり普段目にしていなかったものだ。読めはするが書けない。書ける文字というのはやっぱり前の世界の文字なのだ。アルトが手紙を眺めながら不思議がっていると、内容が気になるらしいタリルが「何て書いてありました?」と尋ねてきた。読みながら意識が別の所へ行っていたアルトは慌てて手紙へと集中する。するとそこには、今夜の晩餐に招待すると書かれていた。内容を察したタリルはただ喜びの声を上げているが、招待されたアルト自身は戸惑いを隠せない。晩餐というくらいには、国の重鎮たちが集まるに違いない。その中にはもちろん、宰相や神童の二人もいることだろう。それを予想して顔を青ざめるアルトに、機嫌の良いタリルが肩を叩いてきた。

「大丈夫ですよ、アルト様。王には誓約がありますから」

 ニコニコと機嫌が良いタリルの励ましを受けるが、アルトの不安は拭いきれない。誓約があるのは知っている。現にその誓約があるからアルトは嫁ぎ先の竜の国ではなく、虎の国に迎えられているのだ。しかし、それはただ単に滞在しているというだけ。それに、竜の国の花嫁という位置づけのアルトにとって敵国であるということに変わりはない。手紙を見つめながら難しい顔をするアルトに、タリルが明るい声を出す。晩餐のための準備をしなくていけませんねと嬉しげなタリルを他所にまだ浮かない顔をするアルト。まだ不安が拭いきれない。忙しそうに晩餐の準備へと思いを馳せているタリルを他所に、アルトがちらりと黒虎を見やると水の器から溢れ出す水をはぐはぐと喜んで飲んでいた。尻尾が嬉しそうに揺れている。一人緊迫していたアルトはその様を見て、力が抜けてしまった。

 難しく考え過ぎだったのかな…。

 黒虎を眺めながら、アルトは準備を始めたタリルに呼ばれ手紙をベッド横のテーブルへと置いた。




 王が主催の晩餐会に招待されたことで、アルトの本日の予定はそれに関することに時間を費やされることとなった。晩餐会の説明をタリルから受け、今回の食事に関してのマナーを教わる。昼食も晩餐会を想定した食事で予行練習をすることができた。そして日が傾き夕刻。月と表現していいのか、それとも太陽なのかわからない星が徐々に水色に染まり始め、空が不思議と紫色に染まり始めた時、晩餐会の打ち合わせに行っていたタリルが戻ってきた。

「戻りました。すみません、お待たせして」
「あ、ううん。タリル君、は俺のために頑張ってくれたんだ、し。その、お疲れ様です」
「ふふっ、ありがとうございます。あッ、それとアルト様。食器は耐魔食器にしてもらうようにお願いしてきましたから、食器に関してはバッチリです!」

 タリルの言葉に胸を撫で下ろすアルト。もし普通の食器で料理を出されたら、アルトの器から水を出す力で料理をダメにしてしまう所だった。アルトが礼を云うと、タリルは当然のことですと胸を張って答え、帰ってきた時にテーブルに置いた箱の蓋を開けた。そして中に入っていた布を取り出すとアルトに差し出した。

「今夜の晩餐会はそのお召し物を着て下さい」

 手渡された布を受け取ると、知っている手触りに思わず胸が高鳴った。布を広げると、それは竜から貰った服だった。

「これ…」
「はい、アルト様がこの国に来た時に着ていたものです」

 今夜の晩餐会にはそれを着て下さいとニコリと笑うタリル。アルトはこの服の存在をすっかり忘れていた。否、気をやる余裕がなかったのだ。カンタレラの毒に苛まれ、意識が混濁し、回復したかと思えば宰相や神童から攻撃され体調を崩していた。けれど、今手元に戻った竜からの贈り物に酷く心が落ち着いた。大事そうに服を抱きしめるアルトに、タリルが準備していた手を止めて問いかける。

「その服大切なんですね」
「うん、これ、竜から、貰ったものなんだ」

 頬を染めて嬉しそうに答えるアルトに、タリルは優しげな眼差しを向ける。「そうなんですか、良かったですね」と柔らかい口調で云われ、アルトはふと訊いてみたくなった。

「タリル君は、竜の国のことは、あまり知らないんだよね」
「はい、僕は生まれが虎の国なので」
「そっか。じゃあ、竜は、見たことある?」

 白い服のことであの夜に会った竜のことを思い出し、アルトはふわふわと柔らかい気持ちのままタリルへ問いかける。当然それは否と答えられるだろうとわかっていたが、どうしてか止まらなかった。アルトの問いかけに、タリルははっきりと答える。

「ありますよ」

 あ、やっぱりないんだ。と、返答をよく聞かず勝手に納得しようとしたアルトは耳を疑う。

 今、見たことあるって云わなかった?
 きょとんとした表情のままタリルを見遣る。

「この城にですね、一頭だけいるんです。唯一の竜が」

 タリルから知らされる事実にアルトは目を見開いて驚いた。そしてじわじわと胸の奥底から嬉しさが溢れ出して来る。

「どういうわけかその竜は数年前から城に住みついてしまったんです。しかも、王の云うことしか聞かないので、今は王の従者という形で城に置かれてます」

 タリルが話してくれることをアルトは聞き逃さないようにした。自分が竜の国の花嫁だからか、それとも虎の国では余所者という親近感か。この世界へやって来た時に竜に優しくされたから。恐らく全てだ。この城に存在するという唯一の竜に、胸が嬉しさでいっぱいになったアルトは、やんわりと着替えを促すタリルに従い今着ている服を脱ぐ。タリルが話した虎の国の城にいる竜に会いたいという気持ちが酷く高まった。

 会いたい、会ってみたい…!
 白い服をもごもごと被りながらやっと顔を出したアルトは竜の居場所を尋ねると微笑ましいものを見る顔つきのタリルから「城の外れにある庭にいますよ」と教えられた。
 竜の話を訊いてこれから晩餐会に参加する緊張が解れたアルトは、着替えが終わり御髪を整えて貰うこととなった。箱に入っていた鏡の前に座ると、右側の髪を耳へかけて留められる。タリルは器用なもので、箱から白い花――それは黒虎から見舞いとしてもらったものと同じ白い花を留めた髪へと付けてくれた。

「この花は花嫁様がつける花なんですよ」

 そう教えてくれながら右側へと飾られたそれが目の前にある鏡に映る。普通の男子高校生が頭に花を飾るのは微妙だが、タリルの整え方が上手いのか、白いワンピースの竜から貰った服に合っていて、それなりに見えてくる。
 晩餐への参加のための準備を終え、タリルがテキパキと道具を箱の中へ仕舞っていると、コンコンと部屋の扉が叩かれた。タリルが返事をし、開かれた扉から顔を出したのはいつの間にか姿が見えなくなっていた黒虎だった。黒虎は滑らかな足取りで部屋に入ってくる。漆黒の毛としなやかについた筋肉が揺れる。アルトの前まで歩み寄ると優雅に礼をした。いつもながら美しいその仕草に、見惚れているとタリルがこちらに向かって「お迎えですね」と呟いた。どうやらもう晩餐が始まる時間らしい。アルトは急に心臓の音が喧しくなり胸を抑えながら不恰好に立ち上がると、タリルが緊張を解すような優しい笑みで手を差し出した。

「花嫁様、お手を」

 よく見ればタリルもいつもの質素な装いから少しだけ飾り気のある服を着ている。恐らく、晩餐会の場所まで仕えてくれるのだろう。アルトは少しだけ不安を和らげ、ちょっとだけ恥ずかしそうに自分と同じくらいの大きさの手を取った。

 城内は改めて見るととても厳かだった。赤い絨毯が敷かれた廊下を黒虎の案内でゆっくりと進む。右手をタリルに引かれ、アルトは突き刺さるような視線の中、緊張した面持ちで晩餐会の場所へ向かう。とてつもない緊張に手は冷たくなり、唇が乾くがアルトは先へ向かうしかない。心音が耳の傍で聞こえる感覚に陥りながら黒虎の後をついて行く。時折、黒虎が様子を気にして振り返ってくれたり、タリルが傍で声をかけてくれるのが唯一の支えだ。城内の人々は、宰相と神童に連れ回されていた花嫁の印象が強く、あの時は心配と好奇心が織り交ざったような視線を向けていたが、今はそれとは異なる。どこか様子を覗う、見定めるような目にアルトは少し恐怖を覚える。けれど、一歩一歩前へ進むしかない。それに、この先に待ち構えているのは、きっと自分にとって恐らく好ましくない状況だ。これくらいの視線は、耐えなければ。否、以前間違えた世界では耐えてきたじゃないか。
 アルトは口の内側を噛んで緊張と周囲の視線に耐える。すると、目の前で揺れていた黒い尻尾が急に止まり、アルトは視線を前方へと向けた。そこには大きな扉があり、派手な装飾がしてある。どうやら、晩餐会の会場へ着いたらしい。思わずタリルに視線を向けると「僕はここまでです」と眉を下げられた。すまなそうな顔をするタリルにアルトは精一杯の笑顔で答える。安心させようとしたその笑みは引きつっており、逆にタリルを心配させたが、それはアルトなりの励ましだ。アルトは自らタリルの手を離す。頑張って下さいと小さく云われた言葉に頷くとアルトは自然と黒虎へと視線を移す。意を決めたアルトの意図を知ると、黒虎は前足でその扉を押し開けた。




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