17
黒虎に連れられて晩餐会の広間から出たアルトは、扉前にいたタリルを酷く驚かせることとなった。スープまみれなのだから、それは当然のことだろう。タリルは己が仕える主の姿を見て、すぐに湯浴みを促した。おかげで、今アルトは久しぶりのお風呂に浸かれている。適度な湯加減に、ほっと息をつくものの、アルトは先ほどスープまみれになった、竜からもらった服が手元にないのを寂しく思った。もちろん、信頼できるタリルに任せたので心配はしていない。ただ、あの竜との繋がりがなくなるような、ないような気がして落ち着かないのだ。晩餐会での出来事を支えているのは、もちろんタリルもいるが、アルトにとってあの竜が心の支えの大部分を占めているのだ。
不安とまではいかないが、やはりどこか落ち着かず、早々に湯から出た。適当に拭いて、用意された服を身につけるとタリルの元へと急いだ。
アルトが居住する主賓室は湯浴みの部屋から近く、すぐにタリルが待つ部屋へと戻って来られた。が、頭もよく拭かずに濡らしたまま主賓室へ戻ってきたアルトに、タリルがぎょっと目を見開くと慌てた声を上げる。
「アルト様!」
ぽたぽたと髪から水が垂れた状態のアルトに布をサッと取って駆け寄る。「そこの椅子に座ってくださいッ」と指示すると、その声にアルトはピッとその通りにした。あまり訊いたことのないタリルの叱るような声に、思わず反応してしまった。すぐに行動したアルトに、タリルはふわりとタオルのような布を被せる。
「大声出してすみません」
と、謝るタリルに頭を拭かれながら「う、うん…あ、俺も、ごめんなさい。髪、拭いてなく、て…」と、叱られて萎縮して始めの声が掠れてしまったが、タリルの行為にほっとして声が戻っていく。
さわさわと髪の水分を布に奪われながら、布の隙間から正面を見やると、そこには竜から貰った白い服がかけられていた。思わず「あ」と声を出せば、タリルがアルトの反応と目の前の濡れた髪に気づいて「ああ、それで…」と声を漏らした。
「アルト様はあの服が気になって、濡れた髪も構わずに出てきてしまったんですね」
何もかもお見通しなタリルに、アルトは「そう、です…」と顔を赤くした。その様子にタリルは少しだけ笑うと、すぐに沈黙してしまった。アルトも同じように黙ってしまうと、髪を乾かす手を止めずタリルがぽつりと云った。
「神童の彼らは…いえ、その前にこの国の神童について話さなければなりませんね」
どこか自己完結したような、独り言に近いタリルの言葉に、アルトは黙って耳を傾ける。
「虎の国での神童とは、神子候補のことを指します。神子は、創生主の意思を託宣し、その意思をもって国、王とは違った立場から決められた約束を守っていく役割を担うんです。ラウラとセルマはその神子となる候補生です。もちろん、彼らの他にも神子候補はいるんですが、ラウラとセルマは神子に一番近いと云われています。名門一族の出ですし…」
タリルは優しく手を動かしながら、遠くを見つめる。それは、その先にある見えない未来を危惧しているようにも見えた。
「何より、あの二人は宰相様のお気に入りですから。もちろん、神子を決めるのは神官ですし、能力と真摯な心が必要です。でも、今の虎の国では、宰相の偏愛が影響しないとも限らない」
今、虎の国は未来を担うはずの上層部が迷走している。それは残念ながら、アルトがこの国に形上迎え入れられてから更に悪化している。
国の重鎮でありながら、差別意識が強く聖の使いである神童を寵愛する宰相。それに甘んじて努力をしない神童は媚を売ることばかり。更に、それらを野放しにする王はアルトが来るまで国の問題に着手していたのに、今では手を止めてしまっている。
この先この国は大丈夫なのだろうかと、不安を覚えるタリルに、アルトは説明が止まってしまった彼の言葉を待った。いつの間にか自分の髪を拭いてくれている手も止まり、やっぱり声をかけようか、でも何やら考え込んでいるしと迷う内に、アルトはうつらうつらと船をこぎ始めた。自分の髪を拭いてくれるタリルの手が止まったことと、湯浴みをして体が温まったためだろう。
ゆらゆらと前後運動を繰り返すアルトの動きに、漸くタリルが気づいて声を上げた。その声にぼんやりと意識を取り戻すアルト。
「すみません、アルト様。僕が考え事をしていたせいで…」
すぐに頭に被さっていた布を取り去ると、アルトの手を引く。手を握られれば、すぐに覚醒して立ち上がる。急に立ち上がったせいで頭がくらりとしたが、タリルの支えがあったから倒れずに済んだ。
「お疲れなのに、本当にすみませんッ」
「え、でも、タリル君、まだ話…」
「いえ、それは明日にしましょう。今日はもうお休みになられた方がいいです」
タリルの促しにより、寝台へと導かれたアルトは、一度目覚めはしたものの、やはり疲れたのか柔らかい寝具に包まれるとすぐに意識を手放した。
すぐに眠ってしまったアルトの寝顔を眺めながら、タリルは自分の失態を責める。この国へやってきた時から変わらぬやせ細った寝顔。困難続きで休まる暇がないアルト。国内外の問題やその他の事情で不安に駆られている場合じゃない。自分の立場も弱い。けれど、自分のできる限りで彼を守っていかなければとタリルが強く思った。
タリルの心配していた通り、翌日からアルトへの当たりはより厳しいものとなった。まだ本調子ではないアルトの元へ神童の二人が不定期に訪れるようになったのだ。城内の案内の続きという名目でアルトを連れ出し、奴隷のように連れまわす姿を他の城内の人々の目に焼き付けさせようというのだ。その度に、タリルはアルトの前に立って言い負かし、追い返した。
今回もアルトの朝食時に無遠慮にやって来たが、タリルはいつものように二人の前に立ち塞がる。
「神童様方、今の時間帯は朝の祈りの時ではないですか?」
まさか、神子になられる尊い方々がお忘れではないですよね?と続ければ、神童の二人はあからさまに顔を顰める。セルマに至っては睨めつけてきた。けれど、祈りの間を蔑ろにすることはできないのか、二人は文句まがいの言い訳をして退室していった。
再び静かになった来賓室で、タリルとアルトは深い溜息を吐いた。小賢しい神童たちは、徐々にこちらが言い訳できない時間帯に訪れるようになってきた。
タリルが深く考え込んでいる傍らで、アルトは心労で再び溜息を吐く。いつ来るかわからない神童たちに、心が休まる暇がない。
中断してしまっていた朝食も食べる気がせず、手は止まったままだ。そんな様子を見せるアルトを盗み見たタリルは、ふいに思いついた言葉を口にした。
「…逃げましょうか」
その言葉に、アルトは俯いていた顔を上げて思わずタリルを見た。タリルは自分の口から出た言葉に暫し考えてから、やはりそれしかないと至ったのかもう一度云った。
「逃げましょう、アルト様」
タリルの予想外の提案に目をぱちぱちさせるアルト。驚くアルトだが、タリルはそれに構わず続ける。
「神童たちの執着は晩餐会以降酷くなってますし、正直、今の彼らに捕まったら城内を連れ回されるだけとは限りません。だから、逃げてください」
タリルの発言に、アルトは不安があるものの、それは頭で考えれば導き出されることだった。統制が取れておらず、国内情勢がよくないこの国で、神童の二人はやりたい放題。竜の国の花嫁である自分は何をされるかわからない状況なのに、一箇所に留まっている。捕まるのは必須だ。もちろん、与えられた場所から出ることによって、もしかしたら、国際問題に発展するかもしれない。アルトの杞憂はこれが原因なのだが、自分が嫁ぐという竜の国の情勢もわからないし、虎の国から卑下される国だ。両国間で差異がどれだけあるかもわからない。花嫁だからといって、自分の言動で命が危ぶまれないことなどない。また、自分のことが引き金となって争いに発展したらと思うと、国もだけれど、今後自分がどうなるのかも想像できない。
自分のことしか考えられないことが、悲しいが余裕がない。
一人自己嫌悪に陥るアルトは、自分の考えに不安が残り思わず俯いて目をキョロキョロするとタリルが「大丈夫です」と声をかけてきた。
「僕もできるだけ一緒に逃げますから」
もしかしたら、ダメな時もあるかもしれませんけどと、続けアルトを安心させる。一人ではなく二人で逃げてしまいましょうというタリルにアルトは酷く安堵したのだった。
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