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 けれど、その安心はすぐに崩れることとなる。
 翌日、タリルの気配で目を覚ましたアルトはおおよそ決まっている朝食の時間までタリルと話をしていた。それは天気の話であったり、窓から見える実をつける植物の話であったりしたが、そんなゆっくりとした時間は神童の登場とともに消えうせた。
 いつもの通り、神童の二人はけたたましく扉を開き来賓室へと入ってきた。恐怖の対象であるその二人に、アルトは身動きが取れなくなってしまう。顔を青ざめさせるアルトに対し、タリルが前へ出て阻む。

「逃げてくださいっ」

 張るような声ではなかったが、アルトはタリルの声に目覚めるように反応して俯いていた顔を上げると、窓枠に手をかけ身を乗り出した。
 アルトの行動に、予想していなかった神童の二人はただポカンとそれを見つめる。すぐに反応できなかった二人に、アルトはまんまと逃げることに成功した。
 目的の人物がいなくなった来賓室で暫し呆然としていた神童の二人は、遅れて我に帰り、タリルを睨めつけると逃げ出したアルトを追うため足早に部屋を出て行った。お小言の一つや二つ覚悟していたタリルは睨まれるだけで済んで深い溜息を付くと、主人を探しに同じく部屋を後にしたのだった。

 タリルの提案通り、この世界に来てからの自分の居場所を抜け出したアルトは中庭を駆けてからすぐに物陰に隠れた。しばらく走ることのなかったアルトは目に見えて体力が低下していて、少し走っただけだというのに息を切らしていた。荒い呼吸を繰り返しながら息を整える。思い切った作戦なだけに走っただけではない緊張感に心臓が激しく鼓動する。
 ビクビクと周囲を見渡しながらアルトは胸に手を当てる。逃げられたことは良かったが、逃げる先の場所がない。加えて、部屋から出た城内はたったの二回だけ。それも、一度目は意識が朦朧としていたこともあり辛い記憶しかない。二度目はタリルと黒虎がいたものの晩餐会への緊張のため、城内のことは殆ど覚えていない。広い城内の構造など知らないアルトはどうしようと困り果てた。
 敵国の花嫁という危うい立場の自分が城内の一定の場所に留まっていていいかもわからず。かといって好き勝手に歩き回っていいのかさえわからない。でも、ここに留まっていると神童の二人に見つかってしまうかもしれないという恐怖がある。何よりも精神を蝕むあの二人から逃げたいとアルトは足を動かした。
 何時間歩いたのか、ずっと移動中を繰り返していたアルトは見慣れない場所で立ち止まった。足が疲れてしまった。そういえば朝食を食べていなかったと頭の済みで考えるが、不思議とお腹は空いていなかった。
 疲労感のある体で視線だけを周囲へ向けると少し離れた所に一人の男の人がいた。城の人だと分かるとアルトは顔を青ざめさせ不安げに目を左右に動かす。
 男はそんなアルトの様子に何を云うでもなく、しばらくじっと見てからアルトに一歩近づくとすぐに踵を返し歩き始めた。アルトは怯えた目で男を見やってから離れていったと安堵しそうになる。が、男が歩みを止めこちらを振り返ったのでビクリと肩を揺らす。何だろうと男の目を見てからアルトは一つの考えにたどり着く。それはまるで付いて来いと云っているようだ。
 男がまた歩き始めたのを目で追いながら、アルトは自分の考えに半信半疑になりながらも男を追いかけて疲れた足を動かした。
 
 アルトが後を追いかける人は初老の男で、城で働く人のようだ。動きやすい作業着のようだが良く見れば見かけたことのある制服だった。
 男が何を考えているのか、初めこそ半信半疑だったがいつの間にか来賓室のある廊下にたどり着いていた。見知った部屋の扉に思わず駆け出し、そろりと中を確認する。
 神童もタリルも誰もいない部屋を見て安堵するとアルトは男を振り返った。けれど、男は既に去った後で、アルトは親切にしてくれた嬉しさとお礼を云えなかった悔しさで胸をいっぱいにしながら深々と頭を下げ来賓室へと戻った。



 それから、アルトの生活は変化していった。朝食の時間を狙ってくるようになった神童たちから逃げるため、食事を取ることが少なくなってしまった。
 朝食は一日の活力だ。加えてアルトは病み上がりでこの世界へ来る前よりも少しだけ痩せてしまっていた。けれど、どこの国にも優しい人はいる。先日助けてくれた人のようにアルトを影で助けてくれる人も少ないけれど存在した。彼らの意図はわからない。本に良心的なのか、アルトが敵国の花嫁であり恩を売っておきたいのか、それとも本来の高位な地位を知っているのか。彼らが何を思っているのかはわからない。
 でも、神童らから身を隠してくれたり、逃げ道を教えてくれたりした優しい行為にアルトは助けられていた。
 その日も、アルトはタリルの手によって逃がされたが、神童らにいつもと同じ手が通用するでもなく道を塞がれてしまった。だから、アルトは少々の無茶をして少し高めの塀から降りた。したことのない無理に加え、逃げなければと焦る気持ちでアルトは派手に転んだ。その間抜けな姿に神童らに声を立てて笑われたが、そんなことよりもその場から逃げ出したかった。
 神童たちは滑稽な姿を見れて満足したのか、それ以上追っては来なかったがアルトは必死に足を動かした。
 逃げ切ってから、落ち着けた場所へ来たアルトは、ようやく己の体を顧みる。
 右膝に擦り傷ができて血が滲んでいた。よく見れば、肘や手なども小さい傷が出来ている。
 このままではいけないと、せめて水で洗い流さなければと思い一歩踏み出したところでふいに人とぶつかった。視界に真っ白な布が見えて、高貴な人かもしれないとすぐに飛びのく。
 アルトが怯えたように視線を彷徨わせながらもそろりとその人物を見ると、その人は医者のようだった。

「あ、あの、す、すみませ…そ、その、ごめっ…」

 壮年の医者はアルトの怯えながらも謝る様子に眉間の皺を寄せたが、擦り傷ができた膝を見て溜息を吐く。

「…来なさい」

 呆れたような物言いだが優しい声音を耳にして、アルトは先へ行ってしまう医者の後を追った。


 医者はアルトが見たことのある人物だった。それもそのはずで、アルトがこの城へ来てからずっと世話になっている主治医だったからだ。
 医者は医務室らしき所へアルトを連れてくると、怪我の治療を始めた。小さな傷は消毒で済まし、膝の傷は布が当てられる。
 治療をしてくれるらしいとわかった時にはアルトは謝罪と感謝を緊張しながらも懸命に伝えた。けれど、医者が始終無言なのでアルトもいつしか口を閉ざしてしまった。
 治療が終わり、アルトが再度礼を云うとようやく医者が口を開いた。

「私は虎の国の者だ」

 少しだけ面倒そうな表情をしている医者は、それでも真っ直ぐに見つめてくるのでアルトは黙って言葉に耳を傾けた。

「…虎の国の者が竜の国の者を差別視していることは知っていると思う。もちろん良心的な人や、君が本来高位な立場であるということを忘れていない者もいるだろう。けれど、彼らは立場や周囲の目もある。情勢や王の意向が君にとって利のあるものならいいが、今は違うしこれから先もわからない」

 医者の言葉を受け止めるしかできない。
 アルトにもわかっていた。自分に手助けをして何か罰があるのではないかと頭の片隅で思っていた。でも、周囲に目を配れる程の余裕はない。
 黙って耳を傾けるアルトに医者は難しい顔をして、けれどもアルトにはその表情がどこか悲しそうに見えた。

「…期待を、しないで欲しい」

 その言葉はアルトの胸に刺さる。

「私は特に差別する気はない。だが、虎の国の者として君を助けることのリスクを負う気はない。医者の立場から君をここまで引っ張ってこれたが、それは君が怪我を負っていたからだ。医者という中立な立場は治療が必要な時でしか介入できない」

 だから、助けを期待しないで欲しいと再度云われる。
 その言葉でアルトは泣きそうになるのをぐっとこらえる。
 色々な感情がアルトの中に押し寄せる。自分の境遇に悲しみ、苛立ち、それでも心の奥で幸せを願い、けれど現実に絶望する。
 感情を必死に押し込めるアルトに、医者は悲しい瞳を向けるばかりだ。
 自分を頼るなと云われたも同然だった。目の前で拒絶された言葉にアルトは少なからず傷ついた。
 もちろん、聡いアルトが気づかないわけがなかった。
 医者の言葉は酷だ。現状でアルトは公の理由なしに医者からの助けを得られないということだ。加えて、虎の国の人でもある医者の所を駆け込み寺にするなという意味も含んでいるだろう。けれど、裏を返せば差別的な意味合いを含まず治療を受けられるということだった。
 しかし、人との関わりをしたことがなく、またこの世界へ来てからも人との接し方に戸惑いを感じていた。神童や宰相といった怖い対象の対処の仕方もわからない。
 頭で分かっていてもそれを実行していいかどうかわからないアルトは、医者の言葉にただ了承して礼をすることしかできなかった。

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