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そのしぐさにタリルは思わず微笑めば、アルトは更に困惑するのだった。
 アルトにそう難しくない仔虎の扱いを丁寧に教えると、タリルは目の前の虎とアルトを見やる。
 生まれた銀の虎模様の白い虎。この国では、色の濃い虎しか生まれないことが問題となっている。色が濃ければ濃いほど能力が低くなる。反対に、色が薄ければ薄いほど能力は高くなる。竜のとはいえ、花嫁の虎。かつ白と前例のない銀との組み合わせなら、能力は高いに違いない。
 タリルは真剣な表情で仔虎の相手をするアルトにこっそり溜息を吐いた。

 神童たちのやっかみが酷くならなければいいけど…

 先を心配して、タリルは今以上に気を引締めるのだった。




 竜の花嫁であるアルトの虎は、シロと名付けられた。どこへ行くにもアルトの傍を離れず、幼い足取りでチロチロと後ろを歩く姿にアルトの目を和ませた。が、優しい日々は長くは続かない。祈祷の時が終わってしまうのだ。明日から地獄の日々が戻ってくると気落ちするアルトに、タリルはシロのためにもと庭で気分転換を申し出た。
 二人と一頭で楽しくも悲しい庭の散策をしていると、その光景を祈祷を抜け出した神童の二人が目撃してしまった。
 差別の対象である竜の国の花嫁。それにじゃれ付く、白虎。その存在を目にした瞬間、神童の二人の目つきが急に険しくなった。
 白は黒虎と同じでこの国では稀少で、能力もさることながらその価値は高い。加えて、神童の二人は毎日水をやるということを面倒がって虎を咲かせることが未だできずにいた。それも相まって、嫉妬心が渦巻く。
 けれど、逃げるアルトを捕まえることはできずにいた。アルトが聡いのと、何より彼の世話係のタリルが阻むのだ。
 穏やかで優しい光景をにらめ付けるように見ていたセルマは、ふいに口端を吊り上げた。

「…卑しい竜の国の花嫁、身の程を知ればいいのさ」


 祈祷の時が終わり、辛い日々が戻って来ると思っていた。しかし、神童らは接触をしてこなかった。アルトもタリルも不思議に思っていたが、追い詰めることに飽きたのだろうと安堵した頃だった。
 タリルは一人、用事を早々と済ませアルトの元へ戻ろうとしている時だった。ランナーベック一族のタリルは好意的な視線を向けられることは少なく、どちらかといえば差別的な意味合いの視線が多かった。しかし、タリル自身もう慣れてしまっていたし、今はアルトを守る使命でいっぱいだった。
 廊下を急ぐタリル。城内の人は至る所で各々の仕事をしているのを横目にしながら先を進むタリルに、ふいに声をかけて来た人物がいた。

「……タリル」
「ポシュナーさん!」

 タリルを呼んだのは、彼の上司でもあるアンスガー・ポシュナーだ。彼は虎の国では珍しく差別意識がなく、加えて、ランナーベック一族に対しても深い理解があり、タリルはよく目をかけてもらっていた。
 信頼できる上司に声をかけられ駆け寄るタリル。ポシュナーは、そんなタリルに対し、少しばかり苦い顔をして見せた。

「実はな、タリル。お前に話がある」

 苦笑した後、真剣な表情をしてポシュナーはタリルに残酷な言葉を突きつける。

「セルマ・ドリー様の世話役に付くようにとお前に命がきている」

 ポシュナーの口から紡がれた言葉に、ただただ驚愕した。
 頭の中が白くなる。
 タリルは目を大きく開き、前に立つポシュナーを見つめる。ポシュナーは動揺するタリルに同情したが、すぐに顔を引締めた。

「タリル、お前がよくやっているのは知っている。竜の花嫁のことも守りたいこともわかる。だがな、タリル。お前はランナーベック一族だ」

 ポシュナーに云われ、タリルはそれを再認識した。忘れていたわけではない。

「ランナーベック一族は、先の大戦の休戦を申し出るために竜の国の者と契り、両国に対して中立の立場となった尊い一族だ。だが、虎の国の差別意識によってその立場は危うくなっている。王様は沈黙を守り続け、神童に傾倒している宰相が何をするかわからない状況だ」
「ですが…」
「お前の云いたいこともわかる。だが、お前には妹もいただろう?」

 タリルの脳裏に妹の顔がちらつく。タリルはランナーベックの出世頭であり、一族を背負う身。タリルの身の振り方によって、ランナーベック一族の今後が左右される。差別意識の高い虎の国によって、一族粛清とならないとも限らないのだ。
 タリルは唇を噛む。
 ランナーベック一族は不安定な立場にある。どこへ出ても差別視され、軽視される。それは、タリルも痛いほど知っている。

「タリル、これは勅令だ。逆らえばお前の立場、元より一族の立場を悪くしてしまう」

 ポシュナーがタリルの両肩を掴む。

「ものは考えようだ、タリル。目を付けられたとはいえ、これは特例の出世だ。神童の世話役など異例だが、あの神童の世話役は官吏に匹敵する。一族の安寧を思うなら、命に従った方がいい」

 選択肢などタリルに与えられていなかった。
 これは残酷な決定だ。
 強張っていた顔から緊張がなくなり、葛藤がなくなったタリルにポシュナーが慰めに肩を叩いた。
 守ると、人に慣れていない人だから守りたいと思っていた。
 何て言えばいい?
 何て言ったら許してもらえる?
 タリルはアルトの待つ部屋へ戻りながら、己を責めていた。
 アルトと一族を天秤にかけた。
 自分にこんな選択肢を与えた神童や宰相が憎い。なにより、自分が許せない。
 でも、タリルにはそうするしかなかった。
 アルトに次いでタリルは虎の国で、差別の対象にされている。以前は違っても現状はそうだ。
 権力を持った使えない宰相の気分次第で、一族粛清となる可能性だってある。
 でも、罪悪感に捕らわれる。
 アルトにとって自分は数少ない味方なのだ。それが、なくなる。
 アルトのぎこちない笑みばかりが思い出される。聡い人だけれど、守らなければならない人だ。
 タリルの足が止まる。目の前にアルトが待つ部屋の扉があった。
 心臓が変になる。ショックを受けて穴が空いているような感覚と、ドクドクと鼓動が鳴る音が全身に伝わる。
 頭はいい訳ばかりが浮かぶ。色々浮かんで最後には命令だからという結論に至ってしまう。
 そうだ、命令だからと云ってしまえばいい。現にこれは逆らうことのできない命令なのだ。
 タリルは心が定まらないまま扉を開いた。
 目の前が明るくなって、でも顔を上げることができない。ノックすることも忘れたタリルに、中にいた人物がビクつく様子を見せる。思わず顔を上げてしまったタリルに、そこにいたアルトが不安から安堵した表情を見せた。
 心底ホッとしたような顔。それを自分がこの短い間で得た信頼なのだと、自分が与えてあげられたものなのだと自覚して、涙が零れた。
 驚くアルトに駆け寄って、タリルはしがみつくようにして服を掴んでいた。

「ごめんなさい…ごめんなさいっ」

 ただ謝る事しかできない。扉の前で考えていたいい訳など、アルトの顔を見た瞬間吹き飛んだ。
 酷い顔をして泣いている。今までこんなに泣いたことなんてない。

「ごめんなさいっ、ごめんな、さい…」

 しゃくりあげて、言葉が途切れる。
 どうしたのと動揺して視線が揺れるアルトに、タリルは縋る。
 いつもの凛とした姿をなくしたタリルは、神童の世話役になったと裏切ったことを告げたのだった。


*


 
 思いつめた顔で現われたタリルは泣いて謝罪をした。そして、神童の世話役になったとまた謝った。それを聞いてアルトは酷く狼狽し、先の不安を思って目の前が暗くなる気がした。でも、タリルに頼りきりだったことにも気づかされた。
 タリルの口から幾度と繰り返される謝罪の言葉に、アルトは混乱しながらも、胸の内にある動揺を隅に追いやって静かに思った。それは、先への不安に対する現実逃避だったのかもしれない。だから、アルトはタリルに慰めではない言葉をかけたのだった。
 タリルにはタリルの譲れない事情があるのだろう。でも、それを一切云わず謝り続けるタリルに、どうしてなど聞けようがない。ただ、自分から離れて欲しくないという我が侭な願いを飲み込んで。
 翌日、タリルは最後の最後までアルトの世話をし、少しの保存食を託して去っていった。強く手を握って泣きだしそうになるのを必死に留めて、タリルは去り際に「できるだけ信用を置ける人に引継ぎをお願いしました」と云った。
 アルトはそれだけでも本当に嬉しくて、それが叶うことはないだろうとわかっていても心が温かくなった。
 今生の別れではない。でも、二人には、アルトにはそれと似たものがあった。
 程なくして新しい世話役がやって来た。が、引継ぎをして数日、彼はアルトの元へまともに食事を運んできたことはない。運んできても、耐魔食器ではなくアルトは自分の力で水浸しにしてしまったり、残飯が混じったものを出されることもあった。けれど、アルトにとっては大切な生命線だ。だから、食事はよほどのもの以外は口にした。例えそれを影で笑われてもだ。
 飢えの辛さはこの世界へ来た時に嫌というほど味わっている。
 蔑ろにされて悲しくないはずがない。
 アルトは粗末な食事を食べながら、扉の向こうで嫌な声で笑う世話役とその仲間の声を聞いていた。
 耳に入れないようにしながら、こちらを見上げる無垢な視線に気づく。
 シロの食事は毎食きちんと与えられている。それがアルトには救いだった。

「どうした、の?」

 アルトがぎこちない笑みでそう問うと、白い仔虎はただじっと見てから、自分の器をついっと前に出した。眉をキリッと上げて、その目は食べてと云っている。
 その様子に心を和ませながらも、アルトは笑みを浮かべながら首を横に振った。

「ダメ、だよ。それはシロが、大きくなるためのものなんだから」

 断られると、シロはしょんもりとしたが分かってくれたようで再びがつがつと食べ始めた。時折、こちらを見るので、アルトはその度に笑みを浮かべるのだった。
 シロの様子に和みながら、アルトは隣にいる小さな存在に救われた。
 しかし、アルトの小さな悲しみは次第にじわじわと大きくなっていく。あの神童が守ってくれる存在を離すだけで終わるはずがなかったのだ。
 また、アルトが白に銀模様の仔虎であるシロを咲かせたこともすぐに噂が広がり、更に神童の嫉妬を煽った。
 城中に広まった事実。城内の人々は粗雑に扱われる竜の国の花嫁だが、やはり何かしらの力を持っているのだと隠れて噂する。その噂話も自分に注目が集まらないからなのか、神童にとっては気に食わないものだったのだろう。
 神童の息がかかった世話役がアルトの分だけ食事を出さなくなるのはそうたいして時間がかからなかった。
 夕食として運ばれてきた食事はシロのものだけしかなく、アルトはショックを受けたが勇気を出して問いかけた。

「あの、あの……俺の、は……」

 冷たい視線を送ってくる相手にビクビクとしながら話しかける。口の中はカラカラで、掠れた声しか出なかった。
 アルトの問いかけに、世話役は「は?」と馬鹿にしたような顔をして一文字だけの返答をした。その答えにアルトはビクッと肩を揺らし、目を泳がせると世話役はそれ以上何も云わず部屋を去っていった。
 置かれたのはシロの食事のみ。アルトは暫し呆然としてから、シロの心配の視線を感じて無理に微笑む。シロに食べるように云うと、アルトは誤魔化すように大丈夫だよと、排水場に置いた水が溢れる器の水を手で掬って飲んだ。
 相変わらずシロが心配する視線はあるが、微笑んで水だけで腹を満たす。ベッド下の保存食へ視線をやるが首を振って堪えた。この先どうなるかわからない。まだ食べるわけにはいかない。
 シロがはぐはぐ食べるのに目を向けながら、食欲を誤魔化した。
 翌朝、やはりアルトの朝食は運ばれてくることはなかった。シロの食事だけ扉の前に置いてあり、アルトはシロに食べるように云うと自分は再び排水場の水を飲んだ。
 ゴクリゴクリと喉と腹を満たし、先の不安に目を曇らせるとふいに外から嫌な声が聞こえた。笑い声に混じって聞き覚えのある声が近づいてくる。アルトは顔を真っ青にして体を振るわせた。徐々に近づいてくる声と、首を傾げるシロの視線にぎゅっと拳を握り締めた。

「シロ、早く食べて」

 残り僅かな量を食べるように急かす。シロは何かを悟ったのかはぐはぐと急ぎ始めた。扉外の廊下から笑い声が響いてくる。
 ドクドクと自分の心臓の音が耳の傍にあるかのように聞こえてくる。心の中で早く早くと急かすと、シロが食べ終わった。それを見てアルトはすぐにシロを抱えた。そして、扉に近づいてくる足音を聞きながら窓から部屋を後にした。
 走って走って来賓室から遠ざかる。走り始めたとき頭がくらっとしたが、それでも構わず走った。
 今は、逃がしてくれたり、一緒に逃げてくれるタリルはいない。寂しいし、頼る人がいないのは辛い。でも、今は腕の中にある小さな存在が支えだった。

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