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また水汲みをさせられるのだと思っていたアルトは、神童らに体を押されはっとした。広い部屋のような場所へ押し込められ、振り向いた時には扉が閉じていく。閉ざされたことに恐怖を覚えて扉を叩く。けれど、扉はビクともしない。
焦って周囲を見渡すと、やたらと煌びやかな調度品が目に入った。己の部屋とは異なる内装に顔をサッと青ざめさせる。広さと豪勢な造りから身分の高い人の部屋だとわかり、ますます混乱する。
アルトが知る身分の高い人というのは、恐怖の対象である宰相くらいだ。しかも、神童に騙されたとはいえ、不法侵入と云われてしまえばどんな罰が待っているかわからない。
アルトは懸命に扉を叩きながらも周囲を見渡した。窓はないか、脱出できる場所はないかと振り返った時、大理石に靴音が鳴り響いた。
「……ッ!」
扉に身体を押しつけるようにして逃れようとするアルト。その目に映ったのは、この国の王の姿だった。
怯えるアルトに、虎の国の王はその様子を機嫌悪そうに見た。
緊張と混乱していたアルトは目が合ったのかもわからなかったが、ただ恐怖に怯えていた。
そんなアルトに対し、虎の王は忌々しそうに「チッ――」と舌打ちし視線を逸らした。
途端、身体を押しつけていた扉が開き、アルトは廊下へと押し出される。お咎めはないように思える。視線が廊下へと移りながらもアルトは悟った。
期待などしていなかった。けれど、虎の王という地位に就く男は、アルトの状況を言葉一つでどうとでもできる存在だ。その王が、アルトを見て舌打ちし視線を逸らしたのだ。
アルトの現状を知らないはずがない。主賓というお飾りの効果は薄い。例え竜の国が強靭であったとしても、敵の国に一人でその強さが存在するわけがない。その竜の国の花嫁が敵国で保護なしで無事にいれるはずがないのだ。
アルトは足元がなくなるような感覚に陥る。
つまりは、知っていて、現状から目を逸らしたのだ。
虎の国の王は、竜の国の花嫁であるアルトの保護を放棄したのだ。
足に力が入らない。
心のどこかで期待をしていたのかもしれない。そうでなければ、何かを失った衝撃など受けないのだ。
アルトは顔色の悪い青ざめたまま深呼吸を繰り返す。
虎の国の王から保護は受けられない。
常に顔色が白いアルトが極度の緊張を強いられたのだ。元のように戻るのには少しの時間がかかる。
でも、アルトは今度こそ神童に見つからないようにと青い顔をしたまま足を動かした。
支えてくれる人はいない。自分一人なのだと唇を強く噛んだ。
虎の国の王からの庇護の放棄という事実は、アルトの弱った心に予想以上の衝撃をもたらした。
頭ではわかっているのに、逃げるという行動に移すことができない。心が弱ると動きが鈍る。
易々と捕まってしまったアルトは、どこか遠くへ意識をやりながら重荷を背負う。水が入った樽の天秤棒の重さに、なぜ自分はこんなものを運ばされているのかわからなくなった。
身体の中に何もない、空っぽの自分にただ引っかかるようにして乗せられた天秤棒。
時折、物乞いと同じように頭を下げて食料を確保した。けれど、体力の落ちたアルトはそれだけで足りるはずもなく。
アルトは、嘲笑する神童やニヤつく笑みを浮かべる城の男たちが見る中、くらりと視界が歪むのを感じた。不快感に身体が傾く。足で踏ん張るが、それをしたことで体勢が崩れた。
バシャ!と、派手な音が耳に届いて、無理矢理目の前に意識をもっていく。
天秤棒が放り出され、運んでいた水が地面に広がっていた。
アルトの失態に、「あーーー!」と神童の一人ラウラが声を上げる。
「何やってるんだよ!水こぼしちゃダメだろ!」
ラウラの意見に、隣にいたセルマが頷く。
「僕たち神童の手伝いもできないの?罰が必要だね」
この時を待っていたかのようにセルマが城の男たちに目配せする。男たちが動いたので逃げなければ立ち上がると、途端に頬に衝撃を受けた。
殴られた衝撃で水が染み込む地面に倒れる。体が重い。
逃げようとするアルトを男たちが蹴りつける。身を丸めるアルトだが、襟首を持ち上げられる。視界に男の拳が見える。怖いとぎゅっと目を瞑った瞬間、けたたましい獣の声が響いた。
殴ってくる男たちの元へ割って入ったのは、白虎だった。
小さいと思っていたシロは、気づけば大きく見えた。
「グルルッ」
アルトを背に守ろうと前に出るシロに、手を伸ばす。止めたかったのか、安堵したかったのかはわからない。
威嚇して吠えるシロに、周囲の男たちが一歩下がった。鼻息を荒くし、噛みつかんばかりのシロ。神童らも顔を青ざめさせている。頭が真っ白になる。その時、唸るシロと男たちの間に黒い影が間に入った。
黒虎がその場で介入し、周囲は治められた。が、神童らの声に宰相までやってきた。
一連の騒ぎに、アルトはただ呆然とそれらを眺めることしかできない。
疲れ果てたアルトの身体が兵士に持ち上げられる。
どこへ向かうのだろうか。
周囲の景色がゆっくりと移動していく。
どこへ連れて行かれるのかわからない状況のままアルトはぼんやりと思う。
俺はこの世界のどこに居場所があるのだろう。
考えることも疲れた。
疲れたよ。
虎の国の重要人物である竜の国の花嫁が問題を起こしたと、すぐに議会にかけられることとなった。
アルトは留置するという名目で地下の牢に移された。医者が医務室での治療を求めたが、処遇が定まっていないと許可されず牢屋での治療となった。
その措置にも不服であったが、それよりもこの会議でアルトを救わなければと黒虎は真っすぐ宰相を見た。
虎の国としては重要人物であるアルトの会議なのに、王の姿は無い。そして、当り前のようにいる神童の二人。賢くも争いを嫌う他の重鎮らは宰相が裏で手を回したのか不参加だ。
この会議室でアルトを救うのは黒虎しかいない。
パスクァーレを正面にしながら、黒虎は言葉を待った。
「竜の国の花嫁が起こした事件の処遇を決める会議を始めます。まず、花嫁が城で働く男たちに暴行を働いた件についてですが――」
黒虎が宰相の言葉を遮って唸る。
アルトは労働を強いられ、体調を崩し失敗したことを責められ乱暴されたのだ。暴行したわけではない。これは黒虎だけでなく、他の城の人々も目撃している。
「……失礼。花嫁が少々乱暴された件ですが、花嫁は神童の手伝いをしている際に大きな過失をし、男たちと諍いを起こした際に負傷された。その後、己の従者である虎を使い城の男たちに怪我を負わせようとした。これは間違いない事実です」
宰相の発言に、神童のラウラが「そうだそうだ!」と同意する。その鬱陶しい声を視線だけで黙らせると、宰相に反論した。
花嫁は、無理強いされた労働で慣れない上に体調も崩していた。失敗も仕方のないことであるし、そもそも国の主賓である花嫁に労働を強いることに問題がある。更に、失敗をいいことに罰として暴力を働いたのは男たちだ。アルトが男たちに殴られているのを見て従者であるシロが主を守ろうと介入しただけのこと。正当防衛だ。アルトやシロに何ら非はない。城で働く他の人々も目撃している。
黒虎の主張に、宰相は冷やかな視線を送る。
「あくまで花嫁に非はないと云いたいようですね。しかし、花嫁の従者である虎が男たちに牙を剥けたのは事実です。威嚇行動だったのかもしれませんが、男たちは恐怖を覚えたのもまた事実です。それに、事件の近くには神童もいました。国で保護されている神童がです。我が国にとって虎は崇高な存在で、平和の象徴ともいえる。そんな虎が牙を剥いた姿を見てしまったのです。神童の二人がどれだけ恐怖に怯えたでしょう。その無垢な心が傷ついたのは、神童としても大きな損失です」
宰相の言葉に神童の二人は感激したのか熱い視線を向ける。
「ですが、花嫁の言い分もおありでしょう。この事件については被害も小さく、花嫁も大いに反省していると思います。そのため、取り立てて処罰はなしとします。しかし、花嫁の虎については、仔虎とはいえ牙を剥き城の男たちや神童に恐怖を植え付けました。今後も人に危害を加えないとも限りません。躾という罰が必要かと思います。ですが、まだあれは仔虎です。そのため主である花嫁がその責任を取るのが妥当でしょう」
宰相の決定に、黒虎が目を見開く。
反論しようと唸るが、パスクァーレが声を張る。
「これより十日間、竜の国の花嫁には己の虎の責任を取り地下牢で過ごして頂きます」
処遇の決定に、賛成ですと何の権限もない神童が笑みを浮かべる。黒虎がこの判決は無効だ!と主張するが、それを宰相が鼻で笑う。
「この事件の裁決については、私が王より委任されています。それより、黒虎様。こんなことよりも、本来の職務を全うした方がいいのでは?」
急ぎの案件があると重鎮らが零していましたよ。
怒りに牙を剥く黒虎だが、宰相はそれに構わず立ちあがった。
「これにて閉会とします」
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