26


 苔が生えた石壁の間から差し込まれる光をぼんやりと見ていた。
 暗い牢の中。その光は十分なようで足りてない。
 アルトの望む、手の届かない希望のようでぼんやりと悲しくなった。
 投獄された理由は治療してくれた医者からそれとなく聞かされた。
 それでも、聞かされた時には呆然としていて理解が追いつかなかった。
 理不尽だと思ったけれど、怒る気力もない。身体が重かった。
 今も、やけに倦怠感が酷い。
 ぼんやりと石壁に背を預けていると、鉄格子の向こうに足が何本か見えた。鉄格子が摩擦する音がして、何かを投げ込まれる。
 カランカランと派手な音がして、中身が飛び散った。何が面白かったのか、それを投げ込んだだろう若い声は愉しそうに笑って去っていった。
 何だろうと思ってそろりと視線を容器へと移す。そして、目を見開いた。
 それは食料だった。アルトは駆け込んだ。しかし、その中身を見て絶句した。
 腐りかけたパンに、ハム。糸を引いた物体。
 心が壊れる音が胸に響いた気がした。
 呆然とし、でも、身体は欲していて、手を伸ばし、指を折って拒絶する。
 少ない理性が必死に拒む。
 心がガタガタになって、膝をついてしまう。
 思考が停止して、ただ重苦しく呼吸を繰り返すだけだった。
 苦しくなって、息だけでも深く吸おうとした時、鉄格子の向こうに白色が見えた。
白色の物体は、シロだった。
 アルトはその存在を目にして、ほっと息を吐いた。
 親心にもこんな場所へ来てほしくないと思った。牢獄にいる自分を見てほしくないとさえも思った。けれど、来るなとも云えなかった。
 アルトはシロの姿を目にして、鉄格子へと寄り手を伸ばした。
 どこかしょぼりとした様子の仔虎に触れると、寄り添ってくれる。その瞳は濡れていて、ごめんなさいと云っているように見えた。
 シロは悪くないと言いたいのに、じわじわと涙が集まってくるのを感じる。シロの前で泣いてはいけないと変な意地が邪魔をする。
 察しの良いシロは、アルトの表情で気に病むことをせず、いつものしっかりとした顔で横に置いていた包みを鉄格子のこちらへと押しこむようにして差し出した。
 その包みに見覚えがある。
 アルトの期待通り、その中身は食料だった。
 残飯を与えられた悲しさの衝撃が湧きあがり、それと同時に、シロの優しさに心が震えた。
 アルトは食料に食らいつく。
 パンの触感に、ボタボタと涙を零した。 
 目が熱いのが止まらない。
 嗚咽が漏れる。
 こんなところへ来させてごめん。
 こんなところを見せたくなかった。
 でも、寂しかった。
 アルトはパンを握りしめながらも、鉄格子ごとシロを抱きしめた。
 後から後から涙が零れてくる。

「っ……ロ、ぉ……シロッ、うう……」

 温もりが足らない。優しさが欲しい。
 シロを抱き寄せ、傷ついた心を満たしながら、アルトは思う。
 あの時の竜に会えたなら。
 あの黒い竜ともし一緒だったら、もっと温かくて明るい世界だったかもしれない。
 こんな世界じゃなかったかもしれない。
 幸せな想像をしながら、涙は後から後から零れ続けた。

シロが持ってきてくれた食料は全部食べつくした。
 シロは付かず離れず傍にいてくれて、それがアルトの大きな救いとなっていた。
 食料もどこで調達してくるのか、ほぼ毎日食べ物にありつけた。
 牢屋で過ごして一週間。
 鉄格子から手を出してシロを撫でていると、甲冑を着た男が鍵を開けた。
 鉄が摩擦する音を立て、扉が開かれる。

「出ろ」

 看守なのか、兵士なのかわからないが、男の指示に素直に従う。
 鉄格子で区切られた世界しか視界に映すことがなかった一週間。鉄格子の扉が開かれているのもどこか新鮮に思えたし、一歩牢の廊下に出ると解放感で胸の底の方が熱くなった。
 男に何故出られたのかと問いかけたが、「出せという命令だ」と手で追い払われてしまう。
 男は、竜の国を嫌悪するような視線だったが、アルトは胸にあるじわじわとした喜びでそれには気づかない。
 理由も状況もよくわからない。鉄格子の外の世界に戻れて喜んだが、急に大きな不安にも駆られた。
 隣にいたシロに抱きついて感謝をしつつも、不安が募る。
アルトは不安を抱えながらも、看守らしき男に追い出されるようにして地下牢を出た。絨毯の敷かれた廊下に戻ってくると、行き場がない。
 当てもなく彷徨うことは体力が奪われる。仕方なく、アルトとシロは居場所である来賓室へと向かった。
 シロと一緒に、人々からの視線を纏わりつかせながら、進む。目的の部屋の近くは静かだ。
 来賓室のある廊下はいつもと変わらないように思えた。
 アルトが勝手知ったる来賓室の扉を開けようとすると、なぜか開かない。鍵でもかかっているのか、中へ入ることができない。
 悪戦苦闘していると、前方から、宰相と神童の二人が楽しそうに会話をしながら歩いてきた。アルトは顔を青ざめさせ、威嚇するシロと逃げようと思ったが、宰相がこちらに気づいてしまった。

「おやおや、これはこれは竜の国の花嫁様」

 宰相らが立ち止り、見下した視線でアルトを見やる。

「どちらへ行かれるのですか? まさか、まだご自分が賓客であると思われているのではありませんよね?」

 宰相の言葉投げかける言葉に合わせて神童の二人がクスクスと笑う。

「事を起こした時点で、あなたはもう国の客人ではない。人質は人質らしくしていればいいのですよ」

 そう云うと宰相と神童はアルトの横を通り過ぎて行った。
 息が止まった。
 周囲の音が耳に入らなくなる。絨毯で押さえられた宰相たちの去る足音さえ、聞こえなかった。
 静かな廊下で、どれだけ呆然としていただろう。
 小さく吐息をついて、力が抜けるように扉の取っ手から手を放した。
 アルトは意地の悪い宰相の言葉で、自分が来賓室を追い出されたことを知った。
 安心とはいえなかった居場所。揺れ動くも宿り木であったことには違いない。
 その場所さえ取り上げられた。
 力が抜けて、見上げてくるシロをぼんやりと眺める。
 足が一歩、踏み出た。
 立ち去らなければ、どこかへ行かなければと無意識に思ったのだろう。

「っロ……、シロ、行こうか」

 第一声が泣き声で、声を抑えてシロを誘った。
 どこへ向かえばいいのかなんてわからない。さっきは大人しかった神童らも次に会えば何をしてくるのかわからない。
 世界が違い、国も違う。
 この国で何の後ろ盾もなく、最低限の保護もなくなった自分は生きていけるのだろうか。
 呆然と思いながら、廊下から見える空を眺めた。



 目的もなく、ただ歩いた。疲れれば人気のない場所で立ち止り、考えることも止めてしまったかのように呆然と俯いた。時折、シロが心配して顔を覗き込んで来るので頭を撫でるだけだった。
 日は傾き、いつの間にか辺りは暗くなっていた。外とはいえ、城壁の中だから危険はない。
 城で働く人々も安らぎを求めて帰路についているだろう。周囲に人の気配がなく、空に見慣れない月が出ていて漸くそれに気づいた。
 足が棒になるくらい歩き疲れて、来賓室に戻ろうかと考え、そこで来賓室から追い出されたことを思い出した。
 帰る場所がないことは、何よりも辛い。眠るという安寧を求め、視線を彷徨わせると教会に似た建物を見つけた。
 誘われるようにしてその建物へと入る。中は何とも云えない厳かな雰囲気がありながらも、どこか安心する空気を持っていた。
 アルトは疲れきっていて、目には生気がなかった。ふらふらと歩くアルトを心配してシロが後を追うようについてくる。
 ここはもしかしたら、タリルが云っていた聖域の中なのかもしれない。
 教会のような、神殿のようなこの建物には祭壇があった。そこには、供え物なのか果物が置いてある。その中にりんごがあるのを目にしながら、アルトは心も体も疲れた自分を休めたいと横になれるスペースを探す。すると、祭壇と祭壇画の間に隙間を見つける。祭壇から回ってその隙間に横になるとほっと息を吐いた。シロもその隙間に入り込もうとするので、シロを抱き込む形で眠ることにした。祭壇に敷かれた白いリネンが長く垂れていて、シーツのように包まることができる。
 聖域の中は静かだ。 
 予想以上の安寧に深くため息を吐く。これくらいでは傷ついた心は癒せないが、何者にも邪魔されない時間がとても心地よい。
 アルトは祭壇へと手を伸ばす。
 目的のリンゴを手にすると、行儀悪くも横になったままそれを齧った。甘い香りが広がり、シロもそれを見て小さな鼻をスンスンさせ近づけるので、小さく笑ってシロの分のリンゴも取ってやった。
 しゃくしゃくと音を立てもぞもぞと動くシロを微笑ましく思いながら、リンゴを齧る。
 リンゴを食べながら、天井を見上げる。細部まで細かい作りを眺めながら、アルトはだんだんと眠気に襲われる。白いリネンを瞼が重くなる中引っ張って深く包まる。持っていたリンゴが手から離れ転がるのを気にしながらも眠りの世界へ落ちていった。

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