29
穏やかな水の流れのように揺らめく意識の中、アルトは目を覚ました。目を開いて、自分が水の中にいるような感覚を覚える。いや、違う。耳に入るどこからか聞こえる水の音がそう思わせていた。
アルトは石が敷き詰められている牢の中で倒れていた。現実は揺蕩う水の中ではない。
何かを期待して鉄格子向こうの明かりを虚ろな瞳で監視する。何の変化もない向こう側の世界に、アルトは溜息を吐くこともなく視線を逸らした。
黒虎も、その監視下に置かれたシロもここへ顔を出すことはない。孤独は予想以上にアルトの精神を蝕んでいった。
折れた心はそのままで、いつまでも修復することはない。その傷は時折痛みとなって、胸を襲う。
時間をやり過ごすことしかないアルトは刺激の少ない監獄生活の中で、水の音を聞きながら夢を見ることしか楽しみがなかった。
遠い所にいるだろうあの時の竜を思い、妄想にふける。目を閉じて意識が遠のいていくのを感じると、ふいに軽い金属が石の床と擦れる音が聞こえて来た。アルトは意識を浮上させると、鉄格子の方を見やる。すると、その視界の中に皿を見つけた。誰かが持ってきたのだろう。
ゆっくりと起き上って、それを覗き込むと酷い残飯だった。アルトはそれに、表情を変えることなく震える手を伸ばした。
途端、水が皿の底から溢れだし、中の米を躍らせ押し流した。耐魔食器などという上質な器であるはずがない。気遣いもない。人の扱いとは到底思えない仕打ち。米が皿の中を踊る様を見て、アルトは堰を切ったように泣き出した。
ぼろぼろと溢れる水の中へと落ちていく。
「ぅ、う…ふぅ、っ……」
惨めだ。
嗚咽が漏れる。涙が後から後から溢れだしてくる。 アルトは傷つきすぎた。
前の世界でも精神的攻撃を受け、異世界の嫁ぐ国とは敵対する国で、物理的な攻撃、更にはもっと酷い扱いを受けている。
「辛、ぃ……も、いや、だ……」
泣きながら言葉を吐きだして、喉が渇いて皿の水を飲んだ。残飯は残っていなかった。
口元が水で濡れても、構わず飲む。自棄になっていたのかもしれない。その間も涙は止まらなかった。
一頻り泣いて、目も鼻も赤くして、腫れて重くなった瞼のまま倒れ込む。
泣いても誰も来ない現実にまた瞳が潤む。
これ以上涙が出ないように手の甲で目を抑えると、ざらついて痛かった。そういえば傷があったなと思いだした。
神童らに命令され水仕事をし、手が荒れてできたあかぎれ。男たちの暴力によってできた傷。酷い有様な手を見て、これが治せなかったら自分はもう駄目だろうなと笑う体力のないまま嘲笑しする。痩せこけ、体力のない自分の体は、自然治癒力も低下しているだろう。もしかしたら、この傷が死に繋がるかもしれない。
ぼんやりとした考えの中、どうしてを繰り返す。
どうしてこんなことになったんだろう。
この世界に来てから、辛いことばかりだ。
薄れゆく意識の中、アルトは瞼の奥で竜の姿を思いながら小さく、もう、この世界なんて……と呟いた。
*
真っ赤な巻き髪を後ろへ払い、同じく真っ赤なドレスを捌きながら前へ進む。凛とした彼女の姿に、人々は道を譲り頭を垂れた。
彼女――エティエンヌは騎士に泣きつかれた用件を面倒に思いながら目的の人物の元へと急いだ。
目的の人物の居場所はわかっている。エティエンヌは、見知った部屋の前に辿り着くとノックの返事を待たずに中へと入った。
目的の人物は水晶の前にいた。一時期は離れて何かをやっていたようだが、今は自分の知らない過去を埋めるように覗きこんでいる。
その熱心さには呆れる。
エティエンヌの気配には気づいてるのに、視線すら寄越さない。
我が兄ながらすごい変わりようね。
エティエンヌは盛大な溜息を吐いた後、兄――ジャレットへ声をかけた。
「お兄様、建設材料に細工をするのは結構ですが、扱う城下の者たちが触れられないと嘆いていますわ。騎士クラスでも運ぶのがやっとでこちらに泣きついて来ました。早く何とかして欲しいそうよ」
視線すら合わさない兄にほとほと呆れていると、エティエンヌの目にアルトが殴られる画が飛び込んできた。
「な!?」
思わず声を上げると、その拍子にジャレットが立ちあがった。靴音を鳴らして部屋を出ていく。その纏う雰囲気に水晶にひびが入るのをエティエンヌは見逃さなかった。
*
頭に何かがぶつかった。その衝撃でアルトは意識を浮上させた。目だけで周囲を見渡す。もう身体を動かすことも億劫だった。
食料を与えられていなかったアルトは、水だけで耐えていた。一度だけ医者が来て食べ物をくれたが、頬がこけ、ますます細くなる身体は止まらなかった。精神も肉体も限界が来ていたアルトに、また何かがぶつかる。
「おい、さっさと起きて出ろ」
何かとは、看守の靴だった。コツコツと頭を蹴られ、アルトはよろよろと身体を起こす。男が出ろと云うので、感情も気力も欠落したアルトでも開いた扉は魅力的だった。床を這うようにして出た。鉄格子の外の世界は前と何も変わらないのに、出られたことの高揚感は気持ちを上へ向かせた。
自由になったアルトはよくわからないまま地下から出た。
アルトは知らない。本来の日数より早く出られたことを。また、タリルと黒虎が必死に訴えた結果だということも。
知らないままただ彷徨う。ふらふらと牢から出されて、アルトの思考は現実と夢との境にあった。牢から出られたことで気力が上へ向い、どこへ行けばいいのかわからないのに足は進む。
できることなら、あの優しい竜のところへ行きたい。
急に動いたことで眩暈がした。細くなった腕で壁をつたいながら歩く。
どこへ行けばいいんだろう。
視界を時折白くさせながら、広い階段の手すりをもって降りていく。
外へ行きたかったのだろうか。
城の正面にあたる階段を降りていると、二人の影が背後から迫った。
「あいつッ!」
セルマが目ざとくアルトの姿を見つけ声を上げる。苦手とする相手の声すらアルトの耳には届いていなかった。
神童の二人が癇癪を起こす。
「どうしてあんな奴が花嫁なのッ!」
牢屋を出たことも、国は違えど力ある花嫁の地位が気に食わないのだろう。
アルトは闇雲に竜を探して、神童に気づかない。
ふらふらと階段を下りるアルトを、逆上したセルマが突き飛ばす。
背中を押された感覚があった。体が宙に舞って、体勢を崩し衝撃を受けた。
視界が激しく揺れた。
一瞬意識が飛んで、頭に何か温かいものが触れる。絨毯が染まっていく。
近くで悲鳴が聞こえた。
アルトは床に倒れたまま動けない。
悲鳴を聞きつけ、宰相がやってきて目を見開く。
絨毯を血で染めるアルトに、この時、すべての人が悟った。
やりすぎたのだと。
最悪のシナリオを作り出してしまったと。
誰も手を出せない状況の中、アルトは濡れた頭に手を伸ばす。
ぬるりと濡れた手を見て、ぼんやりとそれを確認する。
温かかったものは、血だったのだ。それを目にして、ぼんやりと思う。
もう、疲れてしまった。
ああ、竜に会いたいな。
でも。
もう、この世界……
異世界へ来た時の言葉を無意識に呟こうとした時、城が揺れた。
アルトの虚ろになった瞳に、白く光って破壊された壁が映った。
周囲が顔を青ざめさせる中、穴の空いた城壁から、漆黒の甲冑を身に纏った男が現れる。
アルトはその黒い塊のような男を初めて見た。けれど、それはあの時の優しい竜に似ていて、胸の底がじんわりと温かくなる。
男はアルトを認めると、その変わり果てた姿に険しい目つきになる。
男――竜の王は、纏う雰囲気を怒りへと変えアルトへ歩み寄る。周囲は震えあがって息を潜めることしかできない。
竜の王はアルトを抱えると、予想以上に軽い体に眉間に皺を寄せた。
アルトは彼の大きな手で前髪を掻き分けられ、小さな光をあてられる。それは一瞬でなくなると、そのまま抱きあげられて、酷く安心した。
その身を預けて、胸がただ温かくなった。
竜の王――ジャレットは、己の花嫁――アルトを横抱きにし、破壊した壁へと向かう。
この時、城の異変に駆けつけてきた虎の王と対峙する。
竜の王は、虎の王を認めると鋭い目を向け言い放った。
「戦争も辞さない」
虎の王の目が大きく見開き、城の人々を凍りつかせると竜の王は花嫁を取り戻し虎の王の城を後にした。
夢心地だった。
空を飛ぶ男の腕に抱かれながら、アルトはよくわからない感情のまま涙が出そうだった。
泣く体力はない。ただ、胸の中が歓喜でいっぱいだった。
頭を打って、気力もないものの辛うじて意識はある。
男はアルトに優しく云った。
「今は何も考えなくていい」
その言葉に小さく頷く。
空を駆けながら、あの時の光景を思い出した。
この世界へ来た時に、白い檻から出されて連れて行かれる時のことを。
あの時、竜のところへ行きたかったことを。
アルトが夢の中にいるような感覚でいると、男が頬に手を滑らせる。
「お前は俺が連れていく」
その言葉はアルトを歓喜に包み、自分があの地獄から抜け出せたことを知る。
何度も何度も頷く。
飛ぶ空は青く、光も輝いている。
肌に触れる風は強いはずなのに、心地よいとさえ思った。
瞬きをする瞬間さえ惜しいと思うくらい、虎の国を出たことは嬉しく、そして目の前の風景は美しかった。
白い光と白い雲と、青い空。
アルトが飽きずに空を眺めていると、頭上から男が「あいつら……」と呟いた。
飛びそうになる意識の中、どうしたんだろうと思うとその理由はすぐにわかった。
竜の群れとすれ違ったのだ。彼らは、すぐに旋回しアルトたちを守るように囲う。
アルトの青とも緑ともいえない目に、さまざまな色の竜たちが喜ぶ光景が映る。歓迎しているような温かな光景。そして、自分を抱く男。
強くて温かい腕の中、アルトはこの世界にいたいと思った。
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