30
竜の王がその花嫁を連れ去り、城の人々の混乱を鎮め、破壊された城壁を一時的に補修すると虎の王は喚く宰相をそのままに記録の間を訪れた。
全ての要因に苛立ち、部屋の中央に置いてある石盤を睨みつけた。
靴音を鳴らしながらそれへ近づくと、誓約が書かれた石盤を怒りにまかせ台から払い落した。石盤は派手な音を立てて割れる。しかし、割れたはずの石盤は、ひとりでに修復してしまう。
その様を見て舌打ちすると、虎の王――クロス・バルシュミーデ・クロノスは、本棚に収まる一冊の本を睨みつけた。
苛立ったまま、その本へと手を伸ばす。
その本は、叔父の日記だった。
虎の国の王は、世襲制ではない。黒の虎を咲かせることができれば、誰にでも成れる可能性はある。が、代々王族より排出しているのは、やはり王族の血が関係するのかもしれない。
叔父は、前王だった。歳は離れていたが、近しい存在でもあったし、平和的に戦争を解決した才ある王でもあった。幼い頃より尊敬していたし、叔父の死後も、それは続いていた。叔父と歴代の王の秘密を知るまでは。
クロスは叔父の日記を開く。
叔父の日記には、こう記してあった。
“竜の花嫁に惹かれていた”と。
私は、当時の竜の花嫁に惹かれていた。片思いしたが、結局それは実のらなかった。それは、竜の花嫁はまだ会ったことのない竜の王を慕っていたからだ。
竜の王からの手紙を隠したこともあった。けれど、寂しい顔を見せる花嫁に笑って欲しくて捨てることもできなかった。
まだ機会があると思っていた。しかし、竜の王と会った花嫁は王に恋をしていた。それを端で感じた。
誓約の期日が来て、花嫁がこの地を離れる時、礼を云われた。“ありがとう”が辛かった。
奪ってしまおうと思ったことは何度もある。が、自分の意思で国を危険に晒すわけにはいかない。結局は言い訳で、竜の力が怖かったのだ。
反竜が高まり、戦争になりそうになったが、民衆を説得した。恋をした相手のいる国を脅かすことはできなかった。相手が傷ついて死んでしまう可能性を少しでもなく去りたかった。もし戦争になったら、花嫁と過ごした一年間の思い出までもが壊されてしまう気がしたから。
本当に恋していた。辛かった。だから、争いだけは起したくない。
私の恋は、叶わなかった。前王も恋に破れた。
歴代の王たちの過去を知り、悟った。この想いは、決して叶うことはない。
虎の王は竜の国の花嫁に惹かれる定めなのだろう。 ――残酷な運命だ。
クロスは叔父の日記を閉じた。
叔父の記録は途中でページが破れてしまってこれ以上はわからない。
しかし、クロスの呪縛となるには十分だった。
歴代の王たちが恋情により和平が保たれていたことも衝撃であったし、一国の王として受け入れなければならない過去でもあった。
しかし、自分の心が運命に囚われるはずがない。
自分は、竜の花嫁などに惹かれはしない。それが運命だと云うのなら、逆らって見せる。
竜の花嫁を避け、接触しないようにしたのもこのせいだった。結果は、惹かれることなどなく、恋心を抱かないことに成功した。運命に勝てた。しかし、代償は大きかった。
竜の花嫁は自分の庇護がない状態で、悲惨な状況に陥り、それに怒った竜の王が連れ去った。そして、先の不安が一気に押し寄せた。
それでも、竜の花嫁が離れてほっとしている自分もいた。己の心は何事にも屈しない金糸が張られている。その金糸がなくなる恐れがなくなったのだ。強がってはいたが、やはり連鎖の中に加わってしまうのではと恐れていた。
竜の王の腕に抱かれる花嫁を思い出す。抱きあげられる際に零れた腕は細く、男のものとは思えない棒のようであった。
王としての振る舞いではなく、個人の身勝手な振る舞いの結果だ。やはり惹かれることはないが、花嫁には悪いことをした。あの少年に落ち度はない。ただ、花嫁であったがために、自分に拒絶された。己の心が弱いために、彼を追いつめた。
脳裏に金糸が揺れる様が思い起こされる。
苛立ちが落ち着くと、石盤を一度見て、仰いだ。
深いため息が零れる。
沈黙を守ってきた竜の国がこのまま黙っているはずがない。虎の王としての怠慢が招いた結果だ。
民を悲しませるわけにはいかない。
戦にならなくとも、不条理な条約を持ちかけられるだろう。
他にも、国内の問題も多くある。
国の学者、重鎮らを収集して解決に当たらなければ。
既に、動いている者もいる。そういえば、ランナーベック一族は目覚しい動きをしていると聞く。
クロスは、立ち上がり記録の間を出た。
王の間に戻り、脳内を整理しながら酒とグラスを持ち出す。
窓から見える二つの月明かりを眺めながら、いつもより度数の高い酒を煽った。
*
己が統治する国へ戻ったジャレットは、腕に抱いた花嫁が眠っていることを確認すると速やかに城内へと急いだ。
空を移動中囲うように守備していた近衛兵たちをそのままに、城の門をくぐった。
見慣れた青の絨毯の廊下を進むと、緩んだ顔をした男がこちらへ駆け寄ってきた。
「おかえり〜ジャレット。我慢できなくて迎えに行っちゃったんだって〜?誓約をぶち破るとかマジで強欲……何があったの」
真剣な声音になった人物、コンスタンタン・ラファエル・マウラが状況をジャレットに尋ねた。
「詳細は俺の部屋でする。医者を呼べ」
ジャレットとコンスタンタンの会話を遠巻きに聞きながら、血で濡れた花嫁の姿に絶句する竜城の人々。周囲の反応にジャレットは、視線だけで沈黙を強要させる。
「他言無用だ」
王の言葉に頷くと人々は道を譲り目礼する。その真ん中を歩きジャレットは己の部屋へと急いだ。
花嫁を部屋で寝かせると、コンスタンタンが連れてきた医者へみせる。連れてくる際に、応急処置を施したことを伝えると、医者は眉を下げて「どうしてここまで……」と呟いた。
花嫁の状態は悪く、栄養失調に心労が重なって長期療養が必要だと診断された。
コンスタンタンが可哀想にと漏らす。
ジャレットも己のものがこんな悲惨な状態にまで追い詰められていることに苛立ちを覚えた。
痩けた頬に指のはらでなぞりながら、コンスタンタンへ命じる。
「イノセントを呼べ」
気を失ったように眠りにつく名も知らない花嫁を眺めながら、この先の構想を練るのだった。
ぼんやりと見たことのない天井が目に入った。
何度か瞬きを繰り返すと、徐々に覚醒してくる。視線を彷徨わせると、頭に違和感を覚える。手で触れると、布が巻いてあった。そういえば、持ち上げた手も包帯が巻いてある。傷の手当てをしてくれたようだ。
ふわりと柔らかい布団を持ち上げるようにして、少し体を動かし、周囲を見渡す。
質素だが品のある内装の部屋。
アルトがゆるりと目を動かすとふいに声をかけられる。
「目が覚めたか」
いつからいたのか。そこにいたのは、あの時の男だった。伸びた手が頬に触れる。男の指のはらが頬を撫でた。
「ここは竜の国だ。覚えているか」
男の質問にアルトは素直に頷く。
虎の国で血を流し倒れている自分を助け出してくれた。忘れるはずがない。
礼を云おうとするアルトだが、喉が乾いていて息しか出なかった。
「起きられるか」
頷くと、男が背に腕を回して起してくれる。
ナイトテーブルに置いてある吸飲みを口元に持ってきてくれた。男の大きな手に捕まるようにして小さな口を吸う。
こくりこくりと男の手から飲むと、喉の渇きが治まり声が出せた。
「覚えて、ます」
先ほどの返答をすると、男はアルトと同じ青とも緑とも云えない瞳で真っすぐに見つめながら続ける。
「俺は竜の国の王だ」
王だという男をアルトは見つめる。
この人を知っている気がしたのだ。
アルトの疑問は、すぐに打ち消されることになる。
「あの時、空で会ったな」
その言葉に、全てが繋がる。
あの空の上で白い檻に閉じ込められていた時に会った黒い竜。竜であったとか、そんなこと関係ない。
心の折れた部分から温かい何かが溢れだす感覚でいっぱいになる。
「あの時の、黒い竜……」
「ああ」
肯定されてアルトは歓喜した。会えたことが嬉しくて、あの地獄から助け出してくれたことも嬉しくて。 思わず言葉を詰まらせる。
心の喜びに、体が追いつかなくて、新品の電池を入れたのに動かない玩具みたいだと自分を比喩した。
口数の少なく、まだ倦怠感の残るアルトに、竜の王は吸飲みの横に置いてあった食器を取る。
「食べられるか」
持ち上げられたスプーンに、頷くと水を飲んだときと同じように男の手に触れて飲んだ。
食器に入っていたのはスープのようで、滑らかな舌触りで優しい味だった。
もっと食べたい気持ちはあるのに、体が受け付けず結局半分も残してしまった。
竜の王も強要することはせず、食器を早々と下げてしまった。
何日も食べ物を口にしていなかった体はまだ固形物を受け付けない。竜の王もそれがわかっていたのだろう。
食事を終えたアルトは、酷く安心する空気の中、竜の王を見つめる。同じ瞳を持つ彼を不躾に見ていた自覚がなかったアルトに、竜の王が口を開いた。
「云い忘れていたな。俺の名はジャレット・イーグ・ワイバーン。ジャレットでいい」
「ジャレット、様……」
少し遅れて敬称を付けると、アルトは胸の中で大切にそれを繰り返した。名を教えられると、ジャレットから名を問いかけられる。
「お前の名は?」
「……アルト、えっと、シラ・アルトです」
「シラが名か?」
「アルトが名前です」
名前を知ったジャレットは、「アルト……」とその名を味わうかのように舌に乗せて呟いた。自分の名前を知ってもらえたことが嬉しい。しかし、その嬉しさに体が抵抗を示した。歓喜が体を疲労させる。療養が必要なアルトは、喜びという心の変化にも少しだけ対応が追いつかなくなっていたのだ。
「アルト」
「……はい」
己の変化に疑問に思いながらも、かけられた声に返事をするとジャレットが真摯に言葉を紡ぐ。
「ここにはお前を脅かす者はいない」
だから、安心して眠れと、手の甲で頬を擦られた。
その言葉は、己が守るからという誓いにも聞こえた。
安心に安堵に。それ以上の何かに包まれてアルトは次第に瞼を重くした。背に腕を回されて優しくベッドへ戻される。
眠りにつきそうな意識の中、ふと思い出す。あの空の上で過ごした時に、服をくれたお礼と、助け出してくれたお礼を言えてない。
うとうとする中、アルトの視界にジャレットの手が映り、思わずそれを引っ張った。
「ありがとう……」
小さな感謝の言葉を告げて、ジャレット様に届いているといいなと思いながら、アルトは意識を手放した。
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