31
眠って、起きて。
そのサイクルを繰り返すアルトは、穏やかな日々を過ごしていた。
窓から見られる景色はいつも違う。それは月が輝く夜であったり、緑が鮮やかな昼間であったりした。それらは、アルトの目が覚める都合だ。まだ竜の国へ来て日が浅いアルトは、いつの景色だって新鮮で、いつだって穏やかだ。
安寧と呼べる生活が降るように与えられて、アルトは医者から療養が必要だと云われ、少しずつ心身の修復に努めている。
ジャレットは、変わらずアルトの元を訪ねてくれている。アルトが使う部屋はジャレットの続きの部屋らしい。
この国へ来て初めて目が覚めた時に、食べさせてくれたように、二日ほど食事を手伝ってもらった。
アルトは包帯が巻かれていた手を見る。もうそこに包帯はないが、荒れた肌と傷は残っていた。傷の治療はまだ続いていて、ジャレットが薬を塗ってくれる。
恐縮しながらもこの身を預けてしまっている自分が少し情けない。そう思っていた頃だった。
ノック音の後、扉が開いて、ジャレットが部屋へ入ってくる。今日は政務をしていたのか、黒い鎧は付けていない。その代り、軍服のような格好だ。
挨拶をしながらアルトはジャレットを改めて見た。
端整でどこか野性味のある顔。黒い短髪は左の前髪だけ少し長くて、あとは刈り上げてあり清潔感がある。男らしい骨格にのった筋肉は軍服の上からでもわかるくらい逞しい。それらが合間って絶対的な存在感を作り出し、彼から発せられる空気は王たるそれだった。
ベッド際まで来たジャレットは、いつものように懐から薬を取りだした。それは医者から飲むように云われている薬とは別の、アルトの手の甲の傷に塗る薬だ。薬品らしくない青リンゴの香りの薬はアルトの心を解す。
大きな手、骨ばった指がアルトの一回り小さな手に触れる。
「後少しだな」
「はい……」
当初より小さくなった傷。早く治ればいいと思う。
手早く薬を塗りながら、ジャレットは同じ色をしたアルトの瞳を見やる。
「アルト」
「はい」
「お前に会わせたい奴がいる」
「……は、い」
思わず返事が遅れる。虎の国での出来事から人に会うことに抵抗を示すアルト。
ジャレットはそんなアルトに、「恐がるな」と髪を軽く引っ張る。
「俺がいる」
強さの塊のようなジャレットの存在は、アルトの不安を弾け飛ばす。
頷いたアルトに、ジャレットは頭を撫でた。
アルトの手の傷に薬を塗り終えたジャレットは、部屋を出て少し思うところがあった。しかし、考える間を与えられないまま、扉前で待ち構えるコンスタンタンに捕まる。
「また王妃様のところ?」
「妃じゃねえだろ」
「まぁ、まだ結婚式もしてないしねぇ」
ニヤニヤといつも以上に緩んだ顔を向けられ、鬱陶しそうに見遣る。
「用件は」
「レオ君には話しといたよ。でも、どうしてレオ君なの? 彼は近衛隊の副隊長で出世頭だし、名門イノセント家の貴族だ。もっと他に世話役として適当な人がいたんじゃない?」
「アルトの近くに置くのに、使えない奴では困るだろう」
それに、今後貴族という地位も必要になってくる。
「まぁ、アイツは面倒見がいいからな」
「結局それが一番の理由でしょ」
コンスタンタンが会わせるの楽しみ〜と笑っている。
「お前はまだ会うなよ」
「それなんだよね〜、何で会っちゃダメなわけ?」
「有害だからだ」
「ちょ、酷ッ!酷いよ!」
もう!と怒る声を聞きながら、ジャレットはその場を去った。
朝を迎えたアルトは、届けられた画集を見ていた。虎の国でこの世界のことをあまり教えられなかったアルトには、とても興味深いものだった。
文字に関しては読めるだけで書けないし、今は休むことが優先されるので、絵であるのはとても助かった。いつかは文字を書いてみたい。もう少し細い体が改善したら、ジャレットに云ってみてもいいかもしれない。そう思った時だ。
ノックの音がして、扉からジャレットが現れる。その後ろに誰かを伴っており、アルトの視線はジャレットとその人を交互に見てキョロキョロ動いた。
「昨日より顔色がいいな。調子はどうだ」
「はい、大丈夫です。あの、これありがとうございました。絵だったので、とても読みやすいです」
「そうか」
問いに答えながらも後ろの存在が気になり落ち着かない。ジャレットはその様を面白そうに見ながら彼の話題を出した。
「アルト、会わせたい奴がいると言ったな」
「はい……」
「こいつのことだ」
ジャレットが顎でしゃくると、男が一歩出て一礼する。
「……レオ・ビー・イノセントだ」
「……し、シラ、アルト、です」
よ、よろしく、お願いしますと、途切れ途切れに答えてしまう。それも仕方のないことだった。
レオは銀髪を立たせ、耳にはいくつものピアスがぶら下がっていたり、はまっていたりしており、口元にもそれは存在した。また、彼の容姿に関しても、顔は整ってはいるが、半分しか生えていない眉や、つり目がちな切れ長の瞳。更には、支給されたであろう軍服を改造しつくしてあり、裏地からは竜が覗いていた。迫力があり過ぎたのだ。
アルトは人を見た目で判断してはいけないと思いながら、その印象に衝撃を受けていた。
不良だ!不良がいる!
以前の世界でも不良という人種は存在していた。しかし、そんな彼らよりもよっぽど不良らしい不良がここにいた。
半ば恐怖でパニックになっているアルトに、ジャレットが追い打ちをかける。
「お前の世話役だ。何かあればレオに言え」
アルトの心中に再び衝撃が走ったのだった。
世話役の紹介を終えると、ジャレットはアルトの頬を指のはらでひと撫でしてから政務へと戻って行った。
にこりともしない不良のレオと二人きりの状態となった。
何か話さなければならないだろうか。ジャレットの時だって沈黙はあったが、これほど緊張はしなかったし、安堵の方が大きかった。
アルトは戸惑い、キョロキョロと目を動かした。
「おい」
「は、はい……」
声をかけられ、ますます戸惑うアルト。右へ左へ眼球運動を激しくしてしまう。それはタリルと過ごした時の比じゃない。
「チッ」
舌打ちをされ更に戸惑い泣きそうになるアルトに、レオはその両肩を掴んだ。
「眩暈なら、楽な体勢になれ。横になれるなら横になった方がいい」
え、眩暈……?
戸惑った時にキョロキョロと視線を彷徨わせる癖を知らないレオはそれを眩暈と思ったようだ。
アルトは戸惑いながらも云われたまま横になる。その際、レオはさっと布団をめくり、さっと枕を差し込んだ。もちろん、必要の有無を確認してからだ。
混乱するアルトに対し、レオは周囲を見渡し再び舌打ちする。
「……んだよ、水がねぇじゃねぇか」
レオはそのまま部屋を後にする。
聞こえて来た言葉に、アルトは状況についていけず驚いて少し放心したのだった。
そして、彼が水差しとグラス、服を数枚持ってきたので、優しい人なのかもしれないと密かに思うのだった。
竜の王から世話役を与えられたアルトは、戸惑い続けることもなく彼と打ち解けることとなった。
それは、食事がきっかけだった。
食事を運んできたレオは、彼が見せる中で一番不機嫌に思えた。彼は食事をテーブルに置いて、「飯だ」と云うとベッドからの移動を促す。それに従って、アルトは食事を取るため席に着いた。
出された食事は色身のない全体的にトロトロとした病院食だ。アルトは食事が自動的に出されることだけで幸せだったので、その内容にまで気にしていなかった。
スプーンに触れる。何事も起きないことを確認して、次に器を人差指でちょこんと触れる。
虎の国では粗末な食事さえ水を溢れさせてダメにしてしまっている。恐る恐る触れた器は何の変化ももたらさなかった。安堵の溜息を吐くと、手をつけようとするアルトに、レオが珍しく意見した。
「そんなメシで満足なのか?」
云われたことの意味が突然過ぎてわからなかったアルトは首を傾げる。
「何が、ですか?」
「敬語はよせ。むず痒い。いや、もう病院食も飽きただろう、こんな白湯に近いメシ。色もねぇし、少しくらいは歯応えのあるものを食いたいと思わねぇのか?」
レオの問いかけに、アルトはそれもそうなのかもしれないと思った。しかし、アルトのこれまでの食事やそれに纏わる経験では、これらは御馳走の部類に入ってしまう。
「食べられれば、それで満足、です」
細く、まだまだやつれた顔で幸せですというアルトの回答に、レオは用意していたナプキンを取り落とした。ひらりと床に白いナプキンが舞い落ち、それが皮切りとなってレオが爆発した。
「は、はぁあああああああ!?おまっ、そんな程度の低い幸せで満足してんじゃねぇよ!これ米しかねぇんだぞ!食べたいものがあるなら言っていいんだぞ!言えよ!遠慮してんじゃねぇ!いや、お前の性格じゃ言い出せねぇか。チッ!今日のところは仕方ねぇからこれを食ってもらうが、明日からは俺が美味いもの作ってやる」
「え、は、はい。楽しみに、してます」
びっくりして再度敬語になるアルト。レオはガシガシと頭を掻いてから、アルトに向き直った。
「俺に敬語なんて使わなくていいし、畏まる必要もねぇ。言いたいことがあったら言え。美味い物を作れって言えば死ぬほど美味い物を食わせてやる。特にお前は食って体力つけなきゃいけねぇんだ。遠慮するな」
レオにはっきりと云われ、反射的に頷く。遠慮のないレオの物云いに、何も気にしなくていいんだとわかった。
「え、と。じゃあ、よろしく?」
「ああ。任せろ」
見た目が不良の相手に貧弱な自分が敬語を使わないことは傍からはとても不思議に見えるだろう。それが可笑しい。
心の緊張が解けたアルトの笑みに、レオは温かくそれを見守る。
「ほら、飯食えよ。あと、今からちょっとつまめる物作ってくるわ。甘ければ食べられるだろ。それと、この部屋換気が必要だな。服ももちっと用意するか。医者と相談して食事と風呂、それと薬の説明受けるとして……おい、食べられるだけでいいぞ、無理して食うなよ。んじゃ、明日のメシ期待しとけ!」
改造した軍服を翻して駆けるように出て行ったレオ。アルトは仲良くなれたことにきゅんきゅんと胸を熱くさせるのだった。
レオ・ビー・イノセントは憤怒していた。怒りがおさまらず、宰相であるコンスタンタンの元を訪れたがそれも叶わず、自分の居場所を告げると用事を済ませることを優先させた。
次第に大きくなる怒りは、心の中で呟いていた言葉を叫びへと変えていく。
「なんでアイツはッ!」
ふーふーっと、怒りが熱となって出ていく感覚を覚えながらも、それを鎮めようと荒い息を繰り返す。
虎の国で酷な扱われ方をしていたことは知っているし、誓約よりも保護を優先した竜の王は英断だと思う。けれど、それにしたって酷過ぎた。
レオは怒りがおさまらないまま、作業中の手に力が入る。
竜の王は昨日よりは顔色がいいと云っていたが、レオの目からすればどれだけ酷かったのかと思ってしまうくらいだったし、改善されていない血色の悪い顔だった。
アルトの顔を思い出し、再びもんもんと怒りが込み上げてくる。
ぐつぐつと茹る音が木霊すのは幻聴ではないが、まるでレオの怒りを表しているかのようで。ぐっ、ぐっ、と八つ当たりのように手元に力を入れるとレオを訪ね偶然その様を目撃してしまったコンスタンタンが思わず声をかけた。
「何、してんの……?」
心底意外そうな彼に対して、レオは彼を睨みつける。
「裏ごししてんだよッ!」
いつくもの鍋を火にかけ、石窯の火加減を監視しつつ、調理場でレオはカボーチャ、通称かぼちゃの裏ごしをしていた。
コンスタンタンが目の前にいることを確認すると、レオは裏ごしの手を休めぬまま噛みついた。
「コンス、てめぇ……!」
「コンスなんて止めてよ!せめてタンタンって呼んでよ!」
誰が呼ぶか!と吠えるとレオはつり目を更に吊り上げた。
「なんでアイツはあんな状態なんだよ!」
事前説明では足りぬほど酷い有様のアルトを思い出し、レオは手を休める。
「アイツ、ボロボロの肌で髪だって艶もない栄養の足らない酷い顔で食べられればそれで幸せだって云うんだぜ……」
「……食事もろくに与えられていなかったそうだからね」
しんみりとするレオに、コンスタンタンが再度口を開く。
「ジャレットの話じゃ、残飯だったこともあったそうだよ。一部の人間に寝どこも取り上げられ、果てには牢屋での生活を強いられていたらしい」
追って与えられた情報に、レオは眼を見開き絶句した。マグマのようなドロドロとした怒りが噴火して、声を上げそうになればコンスタンタンの瞳に冷徹な怒りを感じて、押し黙った。
竜の国は基本的に身内が大好きだ。しかも、王の花嫁、国の母となる存在が傷つけられて怒らないはずがない。
怒りを露わにする二人は、互いの熱で冷静になる。ここで怒っても何の意味もないからだ。
レオは一つの鍋を火から外すと、再び裏ごしを始めた。オレンジの身がすりつぶされていく。
「……アイツ、食器を怖々触れるんだぜ。うちの国じゃ能力のある者はすぐに耐魔食器に切り替えるから、そういう恐れすら抱かねぇのによ」
裏ごししたかぼちゃを先ほどの鍋に入れる。コンスタンタンは黙って彼の言葉を聞いている。
「……可哀想によ、グズッ……」
アルトの今までの状況を考えて涙ぐむレオ。否、本当は泣いているのだが、ツンとして素直じゃない彼は否定するだろう。
レオは、ぐるぐると鍋をかき混ぜながら眼から出る汗を拭ってコンスタンタンへ向き直った。
「全力でアイツを支援してみせる。食わせて寝かせて、強欲な王妃に育ててみせるぜ!」
「それは行き過ぎじゃない?」
「ああ? アイツはそれくらいの方がいいんだよ」
ぐっと力を更に込めて、レオは世話役としての決意を固めるのだった。
朝。
アルトに待っていたのは、煌びやかな食事だった。
体調を考慮しての食事内容だったが、舌に乗せただけでとろける肉や、口当たりの良いかぼちゃのスープ。色とりどりの野菜、優しい味つけのそれらはアルトの心を震わせた。
更にはデザートまで出て来たので、思わず泣きそうになってしまった。
「いいか、お前は細っこいんだから栄養はたっぷり摂れ。でも、無理はすんなよ。それと、クッキーはいつでも食べられるように部屋に置いとくからな。あと、骨が心配だから、おやつの時はミルクな。ああ、オラ、零してんじゃねぇ!」
「すみま……ん」
おやつまであるのかと驚いて口に入れるスプーンが軌道からズレてしまい口端から零れてしまった。それをレオにナプキンで拭われる。
「あの、自分で……」
「いーから、お前は食べることに集中してろ」
まるで小さい子の扱いだが、自分がもっと太れば改善されるだろう。でも、世話を焼かれることは嫌いじゃない。
口元が緩んでしまう。
「ったく、何笑ってんだよ」
見た目が不良なレオに小突かれる。それも何だか嬉しくて、一人笑ってしまう。
「オラ、早く食っちまえ」
口は悪いが、アルトのために世話をしてくれるレオは優しい。
疲れていた心が少しずつ修復していくようだ。
「あの、レオ、さん……」
「あ?」
「ありがとう」
照れながらもお礼を云うアルトに、レオも照れくさくなり、「べ、別に俺はなんもしてねぇーよ!」と、返した。
そのツンツンとした返しに、アルトはクスクスと笑いながら、レオが作ってくれた優しい食事を堪能するのだった。
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