32


 アルトが竜の国に保護されてから、一週間が経とうとしている。牢獄生活を送り、生死の境を彷徨っていたとは思えない程の穏やかな生活。
 竜の王の庇護下にいるのはこんなにも安らかだ。
 栄養価の高い食事に、良質な睡眠に、過度なストレスのない日常。
 日ごと細胞が生まれ変わる。
 保護された時よりは肌の色も良くなってきた。
 何より、この国は虎の国とも前の世界とも異なる。受入れてくれない苦しさがない。空気さえ違っているように思えた。
 昼寝も終え、本を読むアルトの元にジャレットが訪れる。いつものように頬を撫で、調子を確認するそのしぐさに安心を覚える。
 レオにお茶を頼み、ジャレットに椅子を勧めると急に部屋の扉が開いた。

「え?」

 アルトの視界の端に赤が見えたと思ったら、すぐにジャレットの背に庇われる。身長の高いジャレットに隔たれたらマントの黒しか見えない。何事かと困惑するアルトの耳に、コツコツとヒールの音が入ってくる。次いで女の人の声がした。

「お兄様!いつになったら花嫁に会わせてくれるんです」

 ジャレットに詰め寄る女に、アルトは興味が惹かれる。

「今話すところだ」
「まぁ、まだでしたの!?そうやって出し惜しみするのはよくありませんことよ」

 竜の国で初めての女の人だと気づいたアルトは、好奇心を抑えられず、無意識に握りしめていたマントからそろりと顔を
出した。

「過保護になってしまっては……あら!」

 ジャレットと云い合いをしていた女の人がアルトに気づき、アルトもその第一印象に驚いた。
 まず、赤。綺麗な巻き髪が赤ければ、ドレスも真っ赤だった。瞳の色も赤で、口紅の色ももちろん赤だった。
 次にアルトが認識したのは、迫力美人であることだ。瞳から気が強そうな感じが出ている。
 なんというか、深紅の薔薇がすごく似合う人だ。
 背がすらっと高く、モデル体型で女性にしては低めな声もミステリアスで彼女に合っている。
 竜の国の女の人ってみんなこんな感じなのかな。
 そんな疑問が浮かんだのもつかの間。
 アルトを見つけた女がドレスの裾を揺らし迫ってきた。

「ごきげんよう、あなたが花嫁ね。私はエティエンヌ・ル・ワイバーン。竜の王の妹よ。よろしくお願いね」
「ご、ごきげんよう。シラ・アルトです」

 勢いのあるエティエンヌに、逃げ腰のアルト。背の高い女性にこれ以上迫られたらどうしようと視線を彷徨わせると、ジャレットがアルトの腰を抱き、エティエンヌから遠ざけた。

「こいつはまだ本調子ではない。控えろ」
「そうやってお兄様が囲うから挨拶の一つもできなかったんですのよ」

 逞しい腕の中に閉じ込められて、ほっとするアルト。前の世界でも、虎の国でも女性と話したことなんてなかったように思う。前の世界でも人間で会話をしたのは山田くらいなもので、タリルも男であったし、虎の国で女性を見かけることは少なかったし、話したことなんてなかった。それどころではなかったし。
 そう思うと急に女性との接し方が分からなくなった。人間でも、女性とは男とはやはり違う生き物のように思う。
 ジャレットの腕の中からチラッ、チラッと、エティエンヌを覗き見る。そのしぐさに、エティエンヌはにっこりと笑いかける。

「今日のところは本当に挨拶をしたかっただけでしたのよ。もう帰りますわ。次の時にはお茶でもしましょうね。お兄様、それくらいは許してくれますわよね」
「お前が無理させないならな」

 もっとぐいぐい来るかと思いきや、エティエンヌは兄に釘を刺すだけで本当に挨拶だけで引き下がった。
 真っ赤なドレスと巻き髪を翻して堂々と帰って行った彼女に、拍子抜けしてしまった。ほぅっと溜息を吐くアルトに、ジャレットが腕から解放しながら話しかける。

「疲れたか」
「い、いえ。ちょっとびっくりして。でも、エティエンヌさんが気を遣ってくれたので、平気です」
「そうか」

 はいと返事をすると、ジャレットにまで気を遣われて、更に女の人を前に緊張してしまったことが男として恥ずかしくて少し頬が赤くなった。
 そんなアルトを観察するように見ながら、ジャレットは手の治療のために懐から薬を出すのだった。


 
 竜の国の王――ジャレット・イーグ・ワイバーンは、先ほど部下からの報告を受け、己の花嫁であるアルトの部屋を訪ねていた。
 報告は花嫁に関係しているようで、関係していない。ジャレットの心の判断によるところが多かった。それ故に、視界にアルトを入れながら考える必要があった。
 この世界の掟に従い、虎の国へ迎えられたアルトは高位な存在であるにも拘らず、その待遇を受けるどころか悲惨な状態を強いられていた。このままでは死に至ると判断したジャレットは、保護を目的に彼を連れ去り己の国へ迎えた。
 それは竜の国での周知の事実だ。そして、ジャレットもその行動は王としての判断であり、情による浅はかな行為ではなかったと自覚している。
 これは恋ではない。
 アルトへの恋心は皆無だ。
 ジャレットは部屋を見渡す。虎の国で虐げられ餓死の危機にあったアルトのため、彼の部屋には常に焼き菓子が置かれていた。ベッドサイドや、ソファ近くのローテーブルに白いレースの上にそれらは鎮座している。この気配りは、イノセントのものだろう。今もアルトの世話を焼いている。世話を焼かれながらも照れた笑みを浮かべるアルトの顔を眺めながら、ジャレットは思い返す。
 これは恋ではない。
 しかし、アルトと空の上で会った時から彼は“忘れない”存在であった。“忘れられない”存在でもなく、ただジャレットの頭の片隅に常にいた。過去としてだが、彼の様子を見ることのできる水晶で虎の国での生活を見て来た。
 忘れない存在なのは、竜の王は異界からの人間を好む性質が関係しているからで、己の心はそれとはまた別だと思っていた。しかし、そうではないと否定する自分もいる。
 憂慮して水晶でアルトの言動を観察した。また、表立っては防衛目的としていながら、独占欲が働き己の力が隅々まで及ぶ件の物を作り出した。
 それに、初めて会った時に予感はしていた。死にそうになりながらも、己だけを見つめてくれてた瞳は――。
 静かに瞼を閉じて思念を払う。
 うっすらと目を開け、アルトを見ればいつの間に親しくなったのか赤毛の妹とお茶を楽しんでいた。
 ジャレットの目から見るアルトは、弱いだけの存在から逸脱しようとしている。自分の置かれた状況を分かり過ぎてしまって、虎の国では手を出すことができなかった。でも、それは賢い身の守り方でもある。人に慣れないでいたが、話をすると案外賢い返しと無垢な言葉が返ってくる。それはジャレットの心を癒したし、穏やかにすらさせた。
 竜の国に迎えられ、療養を優先させながらも花嫁であるからと驕ることはせず、文字の習得をしようとしている。現状に満足せず向上心を見せるアルトはジャレットの目からも好意的に映る。
 ジャレットは離れていたお茶会の輪へとコツリと靴を鳴らして一歩踏み出した。
 水晶を覗き込んでいた時からなのか、この国へ受け入れてからなのか、もしくは出会ってからなのか。時間軸はわからない。しかし、この胸に大きく膨らむ存在は否定できない。
 これが恋でないなら何なのか。己の心の中に渦巻く赤とも黒とも云える熱の名は恋や愛ではないのか。否、恐らくそれ以上に深いもので、今はその片鱗を見ているに他ならない。
 お茶を楽しむテーブルの上には、世話役のお手製であろうケーキや焼き菓子で溢れていた。

「楽しいか」
「はい、お茶会とか初めてなので、ちょっとこそばゆいですけど、楽しいです」

 女性的であるお茶会に慣れないながらも楽しんでいるアルトの顔を見れば、色々な思いをした心がざわめく。それは、
底の見えない海の暗い部分であり、雲に隠れた山頂のように不明なもののようである。それでも、感覚的に、軽い好意の範疇ではない、化け物のような感情であることには間違いない。今は抑えられても、これは何れ暴走し、食い破るに違いない。
 未だ細く折れそうな体。それを知りながらも、ジャレットは己の心に従うことにした。
 これから己に捕食されるであろうその身に、「可哀想にな」と、どこか他人事のように思いながらジャレットはアルトに自分の茶を要求するのだった。
 


 アルトの世話役であるレオは、お茶会がお開きとなり王と王女が退室したのを見計らい片づけを始めた。 初めてのお茶会で終わった後もどこか楽しげな雰囲気を見せるアルトを微笑ましく思いながら、夕食は何にしようかと廊下で茶器等をワゴンを押していると最初の角にいた存在に気づいた。
 驚いてワゴンを急停止させると、その主に再度驚く。

「!……ジャレットさん」

 思わず呼び慣れた呼び方をしてしまう。油断していたのだ。
 昔、まだ王でなかった時代の呼び方に懐かしく思ったのか、ジャレットは腕組みし壁に寄り掛かったまま「クッ」と笑うだけで不敬を問うことはしなかった。
 何の用件があるのだろうかとレオが不審に思うと、ジャレットが悪い顔をして云った。

「アルトを本館から出す」

 その内容にレオが目を見開く。ならどこにという疑問は賢いレオは己でそれを打ち消すことができた。

「まさか……!」

 察しの良いレオに、ジャレットは漸くレオを見遣った。
 城の人々の噂を知っているし、それに関わった同僚からも話を聞いている。
 固まるレオに、ジャレットは笑みを深くする。

「慣れておけ」

 そう一言だけ云うとジャレットはレオを残して去って行った。
 残されたレオは待ち構える試練に逃避気味に考える。
 ジャレットがアルトを本館から出すということは、本気になったと考えていいのだろうか。
 竜の国の男たちの頂点、あのジャレットの本気を想像してレオは恐怖しか抱かない。ただただアルトの身を案じることしかできない。
 吐きたくもない溜息を吐きだして、レオは冷静を装う。兎に角、己に課せられた試練を突破しなければ。
 レオは重い足取りのままワゴンを押した。


 翌週。
 アルトが竜の国へ迎えられてから丁度ひと月が経過した。
 何の事情も知らないアルトを今日もジャレットが訪ねる。
 それはアルトにとっては本当に急なことだった。
 ジャレットがアルトの手の甲に残る傷に薬を塗るのはいつものこと。
 けれど、今日に限って、いつもと異なった。
 アルトの手の甲の傷は体力が低下していたため治りが遅かったが、順調に回復しはじめている。
 ジャレットがいつものように懐から薬を出す。

「手を」

 差し出された手に傷のある手を置く。普段ならすぐに薬を塗布するのに、今日のジャレットはそれをしなかった。
 アルトの細くなった指を撫でた。親指のはらで撫でられただけで、アルトは常とは異なるジャレットの雰囲気に戸惑いを覚えた。
 触れられる指から熱が移って行く感覚。伝染したかのように早まる鼓動。
 それは、ただ指だけのせいではなく、彼の眼差しや彼の纏う雰囲気のせいでもあった。

「あ、の……っ」

 戸惑って声をかければ、ジャレットの指がアルトの指と指の間の内側を撫でた。
 熱が込められた視線をその刺激にアルトは混乱し始める。
 頬が熱くなってくる。
 急に、なんなの。
 動揺した時の、視線が左右に彷徨う癖が出始める。しかし、ジャレットはそれすらもさせてくれず、指を絡めるだけでアルトの視線を己の目に捉えさせた。

「俺のに気づいたか?」

 悪戯に成功したような顔をしながら、瞳にはまだ熱が籠っている。
 強くもない弱くもない力で絡められた指は逃げることはできず、絡まっている。
 ジャレットの視線に気づかない程、アルトは子どもではない。この伝染しそうなくらいの熱に無自覚ではいられない。
 けれど、その気持ちに困惑以上のものは抱けなかった。アルトは前の世界で人との関わりが極端に少なかったのだ。心の整理もできなければ、どう対応していいのかわからない。嬉しくは思ったけれど、受けれ入れることは思いつきもしなかったし、心が追いつかなくてただ変に焦るだけだった。

「あ、の、えと、その……」

 それでも何か返さなければと、混乱しながらもまとまっていない考えの端々を口から零してしまうと、ジャレットが笑った。

「答えは急いでない」

 その言葉に安堵すると、ジャレットが絡めていない方の手を拳にしてノックするようにアルトの胸をトンと叩いた。

「お前のここは、器は広いが中身が乏しい」

 胸の――心をそう表現されて、ストンと体の中に入っていった。

「お前が今までいた環境では仕方がないが、俺には好都合だ」

 ジャレットがもう一度胸を叩く。

「ここを俺で満たせ」

 乏しいと云い放たれた心を、目の前の男は当たり前のように自分でいっぱいにしろと要求する。

「ジャレット様で、ですか」
「ああ。俺で溢れたらその気持ちを俺に言え」

 強引な要求に目を左、右と視線を彷徨わせると、ジャレットが愛撫するように絡んだ指を引いた。

「そうしたら、俺も言ってやる。お前の欲しいものをくれてやるよ」

 しっかりと強く見つめられてから、絡んでいた指を解かれた。
 心は戸惑い、ジャレットが何を企んでなのかわからない気持ちを受け入れられないのに、顔が熱くて、胸が熱かった。
 始終真っ赤なアルトを穏やかな目で見つめながら、ジャレットは傷に薬を塗布した。
 アルトは、手の甲に液体が塗りつけられる感覚に、漸く目の前で治療が進められていることに気づいた。
 今の今まで熱っぽい視線を送り、言葉にはないものの想いを悟らせたジャレットにどぎまぎしてしまう。間が持たないと思っていると、ジャレットがふいに云った。

「明日、お前の部屋を移す」

 どこにですか?と少し不安になって問いかければ、ジャレットはただ笑うばかり。
 アルトの部屋はジャレットの部屋の続きを間借りしているにすぎない。けれど、ジャレットの好意が本当ならば、この状況は好都合なのではないだろうか。
 これ以上の何があるというのだろうか。
 ジャレットの想いから目を逸らすために軌道の逸れた考えを展開させるアルト。
 それに対し、ジャレットは少し笑って「不安か」と頬を撫でて来る。

「少しだけ」
「心配するな、お前には悪いようにはしない」

 ジャレットの低い声が耳から伝わり、安心を覚える。元から、アルトにとって安心以上の大きな存在ではある。
 アルトは複雑な心境でありながら、明日を待つことにしたのだった。

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