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*


 虎の国、タリル・ランナーベックは神童の世話役の任を解かれ、城で働く人々の中に埋没した。元より望んだ役職ではないし、利がなくなれば解かれることはわかっていた。
 アルトが竜の王に連れ去られて少し。そのままになっていた来賓室の片付けが始まり、アルトの私物の処分の話を聞き、タリルはその仕事を進んで引き受けた。
 戻れないようにと施錠されアルトの前では固く閉ざされていただろう来賓室の扉は、タリルが訪れると容易く開いた。
 部屋の中は城の人々が片づけを済ませていたらしく、排水場の水が出る器以外は何も残っていなかった。
 水が永続的に出る器を眺めながら、タリルはやり場のない怒りに拳を固く握った。
 悲しい気持ちと、怒りが混ざる。
 タリルはその気持ちを前面に出して、心に住まう塊のようなものを押し隠して器に手を伸ばした。
 いくつかある器を重ねていれば、ふと来賓室の扉が開き、白の仔虎が顔を出した。

「シロさん……」

 虎の国の“白”という存在であるシロは生み出した主が竜の国の花嫁であっても、貴重で大切な存在として城では大事にされている。
 アルトという主がいない今、シロはタリルの元にいることが多かった。
 タリルの傍までやってきて、熱心な視線を向ける。

「手伝ってくれるんですか?」

 重なった器の一番上から溢れる水をひと舐めしてから、シロは頭を低くした。器を運んでくれるらしい。
 タリルは少し戸惑ったが、重なった器を乗せた。
 その後、アルトが投獄されていた牢にも向かい、器を回収した。
 無人の牢で水だけを出す器にやるせない気持ちになった。
 アルトが過ごした場所を巡り、器を全て回収すると、タリルは歩きながらその処分方法を考えた。割ってしまえば水は出なくなるだろう。しかし、タリルはそれをしたくなかった。けれど、竜の国を差別するこの虎の国で、花嫁が残したものをそのままにしておくのも問題となるだろう。
 ふと、器を持つシロを振り返れば、頭から噴水のように溢れる水で顔中を濡らしていた。

「あ、大丈夫ですか!?」

 思考にふけっていたために気づかなかったが、廊下も水浸しにし、シロに至っては全身が濡れている。
 しかし、シロは「これも鍛錬です」と、キリッとした顔を見せた。
 タリルはそんなシロの顔を布で拭うと、シロに協力を求め、器の処分のために歩きだした。

 淀んだ水で満たされた使われていない井戸に、器が落ちていく。ゆっくりと沈む器は汚れた水の中ですぐに見えなくなっていった。
 結局、タリルが考えたのは、器を水に隠すことだった。
 使われていない、使うことのできなくなった井戸や水場に器を隠していく。
 器を沈めていく様を見ると、何かの糸口が垣間見えた気もしたが、今のタリルに気づくことはできない。
 沈みゆく水が溢れる不思議な器。それは、アルトが残した優しさだ。
 水面に映る自分の姿。汚れ淀む水に沈む綺麗な器。
 心が掻き乱されて、押しこめていた気持ちが顔を出す。
 結局、一番自分の心を占めているのは一歩を踏み出せない自分の弱さだ。
 過去の名誉による足枷。一族を背負う重荷。城の上層部の意向に怯える日々。
 不安要素や問題はいくつもある。でも、タリルはそれに抗うことをしなかった。解決したくて動こうとしたこともない。ただ、自分が動いたことで一族に害が及ぶというそれらしい理由をつけて、現状に甘えていただけだ。
 淀む水に沈む器は、何もしない今の自分の先の姿だ。汚れに沈み尊い血さえかき消される。
 現状を打開したかったら、動くしかない。
 足枷は、武器にもなりうる。
 汚れた井戸に沈んでいった器が見えなくなる。全ての器を水に沈めた頃には、タリルの目に闘志が宿っていた。
 気づいたのだ。アルトの言葉や一族の未来。一歩を踏み出さなければ、その重荷すら背負えないのだと。
 もしかしたら、一族粛清の可能性もある。だが、虎の国の誰にもできない、僕にしかできないことがある。粛清なんてさせない。
 タリルはシロに黒虎の場所を聞いて、一歩足を踏み出した。

 この夜、玉座の間に現れたタリル・ランナーベックは一族の分立を虎の王に申し立てた。


* 


 虎の国で言語等を教わっていなかったアルトは、レオに教鞭を執ってもらい文字の書き方から始めていた。その頃には、ジャレットの私物も離宮に運び終え、政務以外はアルトの部屋にいることが多かった。

「レオ、この文章はこれで合ってる?」
「あー? おう、合ってる」
「これは……?」
「違ぇ、ここはこれを入れんだよ」
「えー、難しい……」
「……そろそろ休憩すっか」

 茶のセット持ってくるわと、レオが席を外す。その時、ジャレットに一礼も忘れていない。
 英語とも日本語とも違う言語に頭を混乱させていると、今まで静かに本を読んでいたジャレットが机までやって来た。

「楽しそうだな」
「楽しい、より難しいです」

 どこをどうみたら楽しいになるのだろうか。こんなに難しいのに。
 テキストを唸りながら読むアルトに、ジャレットが手を伸ばす。髪を掬い取られる。

「あまり懐くな」

 ほんの少しだけ髪を引っ張られて、あれと思う。
 もしかしたら、ジャレットはアルトとレオが二人で夢中になっているのを面白く思っていないのではないか。

「……懐いてなくて。ちゃんと勉強してるだけで」
「ああ」

 髪を弄ぶジャレットの手が、するりと頬まで降りる。それが何だか久しぶりな気がして、落ち着かない。

「窶れがなくなったな」
「そ、うですか……?」

 確かに竜の国に来た時のガリガリとした体ではなくなった。
 見た目にもはっきりしているのだろうと、体型の変化を嬉しく思うと、ジャレットがあの時のような眼になる。

「意識してるか」
「…………」
「答えないのか」
「…………そ、れは」
「アルト」

 優しく窘めるような、促すような口調で名を呼ばれ、アルトは観念して答える。

「い、しきは、してます」

 声が裏返ったアルトに、ジャレットは満足したらしく、親指で唇を撫でてきた。
 アルトを見て、顔を見て、唇を見るジャレットは、全身で欲していて、アルトはなぜか急に意識した。それから、意識の違いを思い知って焦った。
 意識はしている。でも、認識が甘かった。きっと、ジャレットの思う意識と違っていたのだ。 
 ジャレットの見つめてくる目から逃げる。戸惑いと焦りを前面に出すアルトをジャレットが解放する。
 それと同時に、扉が開き明るくも刺激的な声が部屋に響いた。

「アルトちゃん、お茶の時間でしてよ!」


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