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関係に戸惑うアルトとそれを寛容するジャレットの間を割って入るように真っ赤なドレスを捌きながらエティエンヌが現れた。
そのタイミングの良さにどこかほっとしたアルトは彼女の提案に乗ることでジャレットから逃れる。
間もなくしてレオが顔を出し、運び込まれたティーセットにてお茶の準備が始まる。
賑やかなエティエンヌの話に耳を傾けながら、穏やかではない心を押し隠していると、黙ってアルトを見ていたジャレットがその場からゆるりと離れた。
その行動をアルトが目で追うと、ジャレットが目だけで笑う。
その目は優しくもあり、アルトの心を見透かしているようにも見えた。
そして、戸惑うばかりのアルトをただ広く受け止めていることを表しているようにも思えた。
触れるでもなく、ただ視線だけを寄越したジャレットは何も云わずアルトの部屋を出ていく。
包容力のあるジャレットの余裕とも思え、アルトはなぜか自分が恥ずかしくて、面白くなかった。
途端に会話が途切れたアルトに、エティエンヌとレオは不思議に思い顔を見合わせ、慌てた様子で甘いお菓子をすすめるのだった。
アルトがジャレットを本来の意味で“意識”し始めた。それはジャレットにとって喜ばしいことだ。
中身の欠けた心に、ジャレットを意識することによって変動が起こる。どのような感情でも、自分のことで心が満ちれば、嬉しい。
小さく笑うジャレットは、アルトの離宮を離れると本城へと向かった。
竜の国の本拠地である城は、厳かな外観で王族の居住区だけでなく、国の最高機関であり、国民を導き何をすべきなのかを決定する場でもある。また、虎の国との外交政策を立案する場でもある。
その中枢である公務室に入ると、ジャレットの顔は鋭くなる。
歩きながら、書類をいくつも抱えた腹心たちに問いかける。
「虎の返答はまだか」
竜の王であるジャレットが口に出す案件に、腹心らも面白くない顔をする。
ジャレットが所定の席につくと、今の案件に関する書類がサッと差し出された。
虎の国からの返答はまだないようだ。
「虎の国の内部が荒れてるみたい」
そう答えたのは宰相のコンスタンタンだ。
ジャレットが書類に目を通すと、虎の国で一族が分立した旨が記されていた。その書類を机へ投げる。
虎の対応の悪さに機嫌を損ねるとふいにコンスタンタンが軽い口調で呟く。
「戦争がしたいのかもね」
その発言に、腹心らの動きが止まり、公務室が静まり返った。時が止まったかのようで、しかし、腹心らの視線は王へと注がれる。
「宰相の云う言葉じゃねぇな」
軽口で返す竜の国の王に、注視していた腹心らは今のところ王は戦争の意思はないのだと安堵する。
害のない戦争は存在しない。
王の意思に腹心らは仕事を再開する。
腹心たちが耳だけをこちらに傾けているのを知りながら、ジャレットは宰相に命じる。
「火急に謝罪を要求すると伝えろ」
虎の国での竜の国の花嫁に対する仕打ちは許されるものではない。いくら虎の国が白を切っても、この国で保護した時のアルトの状態を知るこちらに言い逃れはできない。
思い起こされるアルトの細さと傷。
虎の国で流れた竜の花嫁の血。
それらはあってはならないことであり、起してはならないことであると虎の国もわかっているはずだ。
我が花嫁にした仕打ちを思い出し、怒りが沸く。
それこそ、戦争を仕掛けてもいいくらいに。
否、虎の王には戦争の意志も伝えている。
それなのに、再三の謝罪要求をしたのは、半意識的に戦争を仕掛ける段階を見定めるためだ。
ジャレットにとってアルトを傷つけられたという事実は、戦争を起こすに十分な理由なのだ。
静かな怒りが心を熱くし始める。先ほど別れたばかりのアルトを思い出し、心身の距離を考えなければならないはずが、怒りと欲のままにあの身体を貪ってやりたいという衝動が起こる。獣の目をさせながら、衝動を抑え込むジャレットに、周囲の腹心らは顔を青ざめ身を震わせるのだった。
ジャレットが自分のことで容易く感情的になることを知らないアルトは、急に意識し始め戸惑ってばかりだった。
ジャレットの好意。それをただの感情、ベクトルの方向とだけしか受け止めていなかったアルトは、その感情の奥深い“欲”に気づき、途端に好意の意味、意識をするようになった。
あの時のジャレットの目は唇に注がれ、次にアルト自身を見つめ、欲していた。
そのことに気づいたアルトは、冷静ではいられなくなる。顔すら赤くしていなかった少し前とは違い、意識して、したくもないのに顔を赤くしてしまう。
戸惑うままにジャレットを避けることも考えたが、アルトの離宮に生活居住を移してきたジャレットを避けるわけにもいかず。けれど、接する度にギクシャクしてしまう自分にも困惑していた。
ジャレットがその様を見守っていることも、アルトの心情をかき乱すことになっているのだが、本人はそれどころではなかった。
だから、今日のようにジャレットの妹であり、竜の国の王女であるエティエンヌがお茶会と称して部屋を訪れてきてくれることは、アルトの心を大いに癒していた。
他愛のない話をすれば、ジャレットのことで悩んだり、考えなくて済むのだ。
もちろん、日中は政務があるジャレットは離宮にはいない。しかし、存在がなくともアルトの頭から心から離れることは少なくなかったのだ。
レオが淹れてくれたお茶を飲む。エティエンヌの声に耳を傾けていると、扉が開きジャレットが顔を出した。
途端、心が落ち着かなくなるアルト。
「控えろと言ったはずだが」
「ええ、ですからお兄様が来るまでですわ」
どこまでも強気なエティエンヌがそう返して立ち上がる。
「アルトちゃん、またお茶会しましょうね」
半ばジャレットに追い出される形でエティエンヌが退場する。
二人きりとなったアルトは、目をキョロキョロさせる。
緊張しているのか、やけに唇が渇いた。見ないようにと思っていても、目がジャレットへと向かってしまう。
変にドキドキして、ジャレットを見るも、その表情から読みとれるものすらわからない。
瞳を揺らしながら座ったまま見つめるアルトに、ジャレットが動く。
ソファに座ったままのアルトを腕で閉じ込めてしまう。
ジャレットの手がアルトに伸びる。と、寸前のところで扉が開いた。
「やぁっほー!全然会わせてくれないから、僕の方から花嫁に会いに来ちゃったよぉー!」
明るい口調と突然現れた男。男の登場にジャレットがアルトを背に庇う。しかし、視界に入ってしまった男の姿に、アルトの瞳が大きく開かれる。
そこには、虎の国の宰相と同じ顔をした人がいた。
ジャレットの背に隠れながら、アルトは部屋に入って来た予想外の人物に混乱し、顔を青ざめさせた。
思い起こされる虎の国での出来事。
胸の中心が萎む感覚が痛みを生む。
「っ、は……」
手足の末端がじんじんと痺れて痛み始める。止まっていないはずの心臓が動かなくなってしまったかのように、血が巡らない。
必死に手の指先の感覚を知りたくて、掴んだり握ったりするが、よくわからなくなる。
呼吸すらもなぜか上手く出来なくて、現れた人物が怖くて、助けて欲しくて目の前の強い存在を掴んだ。
黒いマントを掴む力は弱かったが、ジャレットが気づくには十分だった。
様子がおかしいアルトの顔をジャレットが覗き込む。
大きな手で両頬が包まれる。
「俺がいる。大丈夫だ」
ジャレットの青とも緑ともいえない瞳に自分が映る。自分と同じ色をした瞳とジャレットの絶対的な強さと器に、呼吸が一つ楽になった。
そのままジャレットに抱きこまれて、安心して呼吸が次第に落ち着いてくる。
目尻からしぼり出るようにして出た涙が、ジャレットの胸に吸収していった。目を瞑って、鼻先を押しつけ、ジャレットを感じる。
あれだけ意識して避けようとまで考えていた相手を、無意識に欲した。その事実に、心を休めることに努めたアルトは後に気づくこととなる。
ジャレットの胸の中で心を落ち着かせたアルトに、突然の訪問者は事態に困惑していた。
容体が急変した当初は口を閉ざしていたが、竜の花嫁が落ち着きを取り戻し始めると途端に口を開いた。
「え、何なになに。急にどうしちゃったの!?」
「お前の顔が虎のと同じだからだ」
騒ぐ男に、ジャレットが原因を説明する。すると、全てを悟ったように訪問者は
「あー……」と、納得と否定が混ざったような声を出す。
アルトを覗き込むようにして、訪問者は「そんなに似てるー?」と笑った。
「僕はコンスタンタン・ラファエル・マウラ。この竜の国の宰相をやってるよ。タンタンって呼んでね。君はシラ・アルトだったよね、よろしく。虎さん所の宰相とよく似てる、双子かとも云われるけど、全くの赤の他人だからね。僕も最初に会った時には驚いちゃったけどさ〜、よ〜く見てよ。僕ったら、あんな風にしかめっ面じゃないでしょ?」
ニコニコというよりは、ヘラヘラとした顔を向けられる。しかし、虎の国のパスクァーレと同じ顔はアルトにとって恐怖でしかない。
顔だけならまだしも、髪の色や目の色、服は異なってもあの時の宰相と瓜二つの姿がそこにあるのだから。
びくりと身体を震わせると、ジャレットがすぐに強く抱き込み、コンスタンタンを睨みつける。
「顔を焼くか」
低い声で恐ろしいことを云うジャレットに、「嫌だよ!」と否定するコンスタンタン。
困り顔でコンスタンタンは「う〜ん」と唸ってから、へらりと笑って見せた。
「花嫁様、僕のことよく見てみてよ。これから顔を会わせずにいるのは難しいし、慣れていってくれると嬉しいな」
気を遣ってくれるその声に、錯乱していた頭と心が現実を捉え始める。まず、声が違う。そして、ジャレットの陰から見える服装が違う。
アルトは恐る恐る顔を上げて見た。
ここは竜の国だ。ジャレットもいる。しかし、過去に同じ顔をした人に、つけられた傷は決して浅くはない。
別人だと云う。それは頭ではわかってる。でも、身体と心が拒絶する。
アルトは目を逸らした。
コンスタンタンにとっては、失礼なことだ。初対面でこんな反応を見せるアルトを好ましく思うはずもないだろう。
「……ごめん、なさい」
目を逸らしながら謝る。
人との接し方がわからない。また、空気のような扱いをされてしまう。そんな悪循環な思考に陥りそうな所で、ジャレットに再び抱き寄せられた。後頭部を大きな手で押さえられ、胸に顔がうずまる。
限界を悟ったらしいコンスタンタンはどこまでも明るい口調で「んじゃ、またね」と声をかけ退出した。
完全に二人になると、心に余裕が生まれてくる。
思えば、一目見た彼はあの宰相のように差別的な瞳をしていなかったように思う。
でも、異なるとはいえ宰相と同じ顔は恐怖の対象でしかない。
「……慣れる、かな」
ぽつりと呟いた願望。
「慣れるだろ。別人だ」
甘やかすだけじゃない言葉に救われて、アルトは少しずつでも頑張ろうと思う。
いつの間にか収縮していた心がまた広がり始め、徐々に現状を把握する。
逞しい腕に抱き寄せられていることを再確認したアルトはその状態で固まった。
顔は真っ赤だ。
でも、意識して避けようとしていた時と異なり、無意識にもその存在を欲し、それに応じてくれて守ってくれたためか、今は離れようと思わない。
ただ、本当に慣れないだけで、それにも困惑した。
目をキョロキョロと動かすと、腕の力が強まる。
「え!?」
素っ頓狂な声を上げると、ジャレットがくつくつと笑う。
「もういいのか」
「……もう大丈夫です」
「お前は抱き心地がいいな」
「……放して下さい」
「もう少し抱かせろ」
「ッ、ダメですっ」
抱きしめられた状態で、ジャレットの唇が項に触れ、このままではどうにかなってしまうと解放を求めれば、ジャレットは悪戯に成功したかのような顔をしつつもあっさりと放してくれた。
熱い頬を隠すように腕を持ち上げて顔を隠せば、ジャレットがくしゃりと頭をかき混ぜる。
「また必要があれば示せ」
からかうでもなく、真摯な言葉に今の事を責めることができなくなってしまう。
言葉ではなく、示すだけでも気づいてくれる。
与えてくれるのだとわかると、嬉しくなる。
いつだってアルトには優しく、絶対的な存在であるジャレット。
彼を失ったら、どうなってしまうのだろうと思ってしまうほど、彼の傍は心地よかった。
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