7


 アルトが眠りについて暫くした時だった。
 タリルが、何度目か布を水に浸し冷えたそれをアルトの額に乗せた時、乱暴な音と共に予想外の人物が部屋に入ってきた。その人物の顔を見て、タリルは目を見開いた。

「宰相様!?」

 突然部屋に入ってきた国の重役に、タリルは一瞬遅れてから慌てて頭を下げた。その様を見た宰相――パスクァーレ・ディオニージは、ふんと鼻先であしらうと先程の音で目を覚ましてしまったアルトへと視線を落とす。

「私がわざわざこうして出向いたというのに、本人は随分ゆったりと構えていらっしゃる」

 頭上からした嫌味の声と鋭い眼に、アルトは顔を青ざめさせて飛び起きた。未だ引かない熱に、体が重かったがそれどころではない。

「す、すみません」

 この世界へやってきて、まだ自分の状況を理解できていないアルトは、命を脅かすかもしれない因子を作らないためにも相手の、恐らく自分よりも地位が上の人物に頭を垂れた。
 パスクァーレは溜め息を吐くと「これだから竜の国の奴は…」と、小さくぼやき、アルトを見下ろしたまま口早に言い放つ。

「私はこの虎の国の宰相をしています。名は…あなたに教える必要はないでしょう。これからこの世界の説明を行います。二度は言いませんので、聞き逃すような愚かなことはなさらぬよう」

 嫌味を織り交ぜながら口火を切るパスクァーレに、アルトではなく、傍に控えていたタリルが容喙した。

「あのっ、宰相様!アルト様は、まだカンタレラの毒から回復しておりません。なので、また後日」
「黙りなさいッ」

 タリルがアルトの容体を気遣ってパスクァーレに意見を云うが、一喝されてしまった。アルトは微熱が続きうまく体を動かせない中、その光景を見てただ口を噤むことしかできない。それくらいパスクァーレの圧力が凄く、萎縮してしまったのだ。

「…申し訳ございません」

 タリルはただ謝罪をして、壁際へと下がる。だが、その言葉だけでは満足できなかったのか、パスクァーレはタリルを攻撃し始めた。

「…お前は確か、竜の国の奴と契ったランナーベック一族の者でしたね。道理で庇い立てするわけだ。忌々しい血が、花嫁に反応して守れとでも云っていますか」

 クスクスと嘲笑するパスクァーレ。明らかな侮蔑に、思わずアルトが口を開いた。

「あッ、のっ…その、説明を、お願い、します…」

 萎縮、緊張して声が裏返ったが、タリルへの攻撃を止めさせたかった。アルトの要求に、パスクァーレは眉間に皺を寄せると口早に説明を始めた。

「この世界には、二つの国が存在します。虎の国と竜の国です。そして、あなたは竜の国の花嫁です。世界の掟で、この一年間、虎の国で過ごして頂き、後に竜の国へと返還されます。これは決まりなので、変えようのないことですが、ここは竜の国ほど甘くはありません。誤った立ち居振る舞いをなさるとそれ相応の処置を取らせて頂きますので」

 パスクァーレの話を聞き逃さないようにと、真剣に耳を傾けるが、如何せん毒から回復していないアルトの熱が再び上昇し始めていた。その様子を見ながらも、パスクァーレは説明は終わったと早々に踵を返す。簡潔な説明だが、まだまだ不十分なそれにタリルが目を見張るが、パスクァーレはそれに構わず部屋から出て行こうとする。ノブに手を置き扉を開くとパスクォーレが蔑んだ視線を向けてきた。

「…あなたは人質なんですよ」

 部屋の中にはっきりと響いた言葉。それだけ云い残し、パスクォーレは部屋を後にした。
 アルトはただ呆然とそれを見送り、ただ衝撃を受けていた。

 人質って、何…。

 以前の世界とは異なる世界。そこへやってきて、まだ何も知らない。今説明されたことだけでは、自分の立ち位置が理解できない。
 放心したように扉を見つめるアルトに、タリルがベッドへ寄ってきて寝るよう促してくれる。いつの間にか落ちていた濡れた布を再び額に乗せられると、タリルが悔しそうに、また、悲しそうな表情をして、深く頭を下げてきた。

「ごめん、なさい…」

 ほとんど泣き声になっているタリルに、アルトは意識をそちらへ向けた。

「謝らない、で。俺も、タリル君が気遣ってくれたのに、何も、できなかった、し…」

 呼吸を少しだけ乱しながら答えるアルトに、タリルは唇を噛み締めた。何か伝えたいことがあるのだろう。けれど、その感情が鬩ぎ合って、うまく言葉にできないのだ。だから、アルトはただタリルの言葉を待った。それしかできることがなかったから。
 しばらくして、タリルはぐっと一度唇を噛み締めると、意を決めたように話し始めた。

「…アルト様、僕、謝らなければならないことがあります」

 真剣な目をするタリルに、アルトはその目を見つめ返す。

「…僕、の名前は、タリル…タリル・ランナーベックって言います。先程の宰相様――パスクァーレ様が、云った通り竜の国の人と契った一族です。…これは、竜の国と虎の国の二つの国の関係の話なんですけど…」

 タリルは、一拍おいて宰相がしなかった二つの国の関係、世界の話を始めた。

「この世界には、竜の国と虎の国の二つが存在します。二つの国は仲が悪く、僕が生まれる前に何度か戦争もありました。今は冷戦状態なんですけど、小さな火種でもすぐに戦争に発展しそうなくらい、緊張関係にあります。故に、二つの国はお互いの人種を毛嫌いして、虎の国に竜の国の血が混ざった僕なんかは、あまりよく思われません」
「…そう、なんだ」
「はい。といっても僕が竜の国と契ったわけではないんです。僕の曾おじい様が、戦争の休戦を申し出るため、当時の虎の国王の命で竜の国の人と契ったんです。中立の立場の人間を作るために」

 そう、国王の命に従っただけだったのに…と小さく呟いて、タリルは唇を噛み締めて黙ってしまった。
 アルトは、以前の世界では己に違和を抱きながらも、平和を謳う国にいた。だから、こうして戦争が目の前にある状況に戸惑った。けれど、段々とタリルという人物がわかってきた気がする。これはアルトの推測だけれど、タリルは、タリルの一族ランナーベックは、きっと未だに中立の立場なのだ。それも、虎の国側の。だから、どんなに疎んでも虎の国はランナーベック一族を、タリルを追放したりはしない。彼らは、彼は、もしもの時の切り札なのだ。が、そのことにタリル自身が気づいているのかと云うと、それはわからない。わかることと云えば今、目の前でタリルが差別されたことに対して深く悲しんでいることだけだ。
 アルトはもしかしたら出しゃばりなのかもしれないと思いながら、悲しむタリルに声をかける。内心では、出しゃばってはいけないのかもと、心臓をバクバクさせながら。

「…たっ、タリル、君は、この国の誰もできないことが、できる人だと思う、よ」

 だから、そんなに悲しまない、で?と声が裏返りながら励ます。的外れな励ましに聞こえただろうが、アルトは伝えたかった。だって、切り札は戦争の休止を申し出るだけに使うわけじゃない。きっと、他の交渉の際にも、中立の彼が必要なはずだから。

「俺、は…タリルが、曾おじいさんに感謝する時が、いつか来ると、思う」

 恨んでいるわけではないと思う。でも、絶対にタリルはその曾おじいさんが竜の国の人と契ったことを少なからず責めたと思うから。
 アルトが遠まわしに諭せば、タリルはただ眉を下げて笑う。

「そう、ですかね…そうだったらいいんですけど」

 まだ悲しそうに笑うタリルは、話を続けますねと話を戻す。

「…でも、虎の国で竜の国への差別は激しいです。なので、恐らくアルト様のこの国での立場も危うくなると思います」

 タリルの言葉に、アルトはそれを認めざる得なかった。先ほどの宰相の態度。あれがきっと虎の国の竜の国への態度として普通のことなのだろう。
 アルトはそれを悟ると、ずっと疑問であったことをタリルに問いかけた。それは、仮にも竜の国の花嫁が何故虎の国にいるのかということだった。  

「タリル君、何で、俺、虎の国にいるの、かな?」 

 当然の疑問に、タリルはハッとしてからとても複雑な顔をした。その表情に、聞いてはいけなかったのかなと目を泳がせると、タリルは「そんなに困った顔をしなくても…」と苦笑した。

「どう説明すればいいのか考えていただけですから、安心して下さい。そうですね、やっぱりここは言い伝えを用いて説明した方が誤解がないかも…」

 タリルはそれから少し俯き加減で何かを考え、それから顔を上げてこちらを見た。

「さっき話したことと少し重複するかもしれませんが、お話しますね。えっと…世界は二つの国から成っていた。一つは大地を支配する虎の国。一つは空を支配する竜の国。二つの国は創生からずっと争いが絶えなかった。それを悲しんだ創生主は、争いをなくそうと一つの掟を考え出します。それは、異界から伴侶を呼ぶ竜の国の特性と、力不足の虎の国の弱点をうまく利用したものでした。異界からやって来る竜の国の花嫁を虎の国の王が迎えに行き、この世界を教えるということ、そして、虎の国は竜の国の王女を花嫁に迎えることというものです。この掟により、両国の争いはなくなりました。こういった経緯で、この世界の掟があるから、竜の国の花嫁様であるアルト様は虎の国に迎えられていんるんです」
「そう、なんだ…」

 国と掟の説明を聞き、アルトは少ない情報の中で先程の宰相の言葉に納得した。それと同様、宰相の言葉に隠された意味にも気付いた。つまり、花嫁という名の人質なのだ。両国に嫁ぐ花嫁。その人物がいる限り、お互いに手は出せない。随分政略的な掟だと心中で呟くと、タリルが眉を下げて申し訳なさそうな顔をする。

「…ええ。なので、アルト様はこの虎の国で一年間この世界のことを教わるはずだったんですが…」

 そう云ってタリルは口を噤んでしまう。恐らく、その教えるという任を請け負った宰相が早々に仕事放棄したことを思い出したのだろう。アルトはそのことに引っ掛かりを感じたが、それよりも宰相も云っていた一年間という期間の方が気になった。

 一年、長い、な…。

 竜の国の人を毛嫌いし、差別する虎の国。その国に形上迎えられた竜の国の花嫁の自分。当然、差別し毛嫌いされるだろう。
 でも、前間違えた世界だって、同じだったじゃないか。あの時は生まれてからずっとこの世界に来るまでいたんだ。耐えてきたんだ。一年くらい、耐えられる。

 耐えられる、か…。

 期待して来た世界。アルトは心の奥で何かが折れそうになることに気づかないふりをして、目を閉じた。

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