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 エティエンヌ・ル・ワイバーンは、とても機嫌が悪かった。全てを見ることが出来る水晶を覗き込みながら、唇を強く噛む。それは、気性の荒い彼女の怒った時の癖で、彼女をよく知る人物ならそれを見かけたらそっとその場から立ち去るのが、通例であった。
 水晶には、小柄な少年が白い檻に閉じ込められている姿が映っていた。そして、その傍らに黒い竜がいる。エティエンヌはそれを見ながら、再度唇を強く噛んだ。水晶を覗けば覗いただけエティエンヌの機嫌は悪くなる一方だった。その時、エティエンヌがいる真実の部屋の扉が開かれた。ツカツカと靴を鳴らして入ってきた長身の男。
 エティエンヌはその人物の顔を見て、思わず皮肉が口から零れた。

「お早いお帰りですわね、お兄様。また、会いにいかれていたんですか?」
「…見ていたのか」

 男は、エティテンヌの兄――ジャレット・イーグ・ワイバーン。竜の国の王である。
 エティエンヌは、真っ赤な巻き髪を後ろへ払い、同じく真っ赤なドレスを少しばかり翻して椅子から立ち上がった。

「お兄様、掟の裏をかいて本来の姿ではない姿で会いに行ったのは、この際良しとしましょう。ですが、どうして服なんか与えたのですかッ!」

 エティエンヌは、水晶を刺す。そこには、今にも死にかけた少年の姿があった。

「この子に必要なのは、食糧でしょう!水でしょう!?クソの役にも立たない服なんて、与えてどうするんです!」

 エティエンヌの指摘に、ジャレットはただ黙るだけ。その姿に、エティエンヌは一人憤慨する。

「お兄様のことだから、他に裸を見せたくないとかそういう理由で服を与えたのでしょうけど、順序が違いますでしょうに!いえ、そもそもどうして誓約の時が来ているのに、虎の国の王はこの子を迎えに来ないんです!?」

 ジャレットは、キイキイ煩い妹の声に耳を傾けながら、水晶の中の少年に視線を一直線に注いでいた。そして、ぽつりと呟く。

「…恐いんだろうよ」

 その呟きに聞き取れなかったエティエンヌが「は?今、何て言いましたの?」と聞き返すとジャレットは椅子に深くかけて足を組んだ。

「虎の奴が迎えに行かねぇ理由だ。恐ぇんだよ」
「恐い?何が恐いんです?どこからどう見たって、弱そうですのに!」

 エティエンヌが再度水晶の中の少年を指さすが、ジャレットはそうじゃねぇとスッと目を細め水晶から目を離した。意味深な表情を浮かべるジャレットに、訳がわからないわとエティエンヌは怒りながらまた椅子に座る。そして、何の気なしに水晶を見遣った。

「あ」
「ア?」

 エティエンヌが声を上げたのでジャレットも水晶を覗き込む。すると、そこに映っていたのは、ひもじさに耐えきれなくなった少年が服の裾に食らいついている所だった。ワンピース型のそれの裾を銜え、下半身が丸出しになっている。
 水晶は過去の真実を映し出すもので、実際には時は流れている。現にジャレットは、先程少年を見送ったばかりだった。なので、エティエンヌがどんなに怒っても後の祭りだ。そして、ジャレットは自分が目の前で見てきた過去を再度見ることに興味はなかった。しかし。

「クッ、いいもん見たなぁ」

 口端を持ち上げて夢中になって水晶を覗き込む。今まで自分が見てきた過去の補足として見るのも案外いいものだ。ましてや、自分の興味の対象のものなら尚更。
 エティエンヌは、兄が無防備に下半身を晒す少年の肌を食い入るように見ているのを見て眉を顰める。

「お兄様のせいですわよっ。彼が服を食べようとしているのはッ!」

 自覚しているんですか!?と、問い詰めるが兄の視線は少年に向いている。恐らく自分の声など聞いていないだろう。エティエンヌは、まだ名も知らぬ少年が兄の独占欲に振り回されていることを可哀想に思う。
 と、エティエンヌが兄を見ながら小さく溜め息を吐くと、兄の瞳が細められたことに気づいた。何かと思い、水晶を覗くとそこには皿を放ってもがき苦しむ少年の姿があった。

「なっ、何があったんです!?」

 兄から視野を奪って水晶を覗きこむ。よく見ると、倒れた少年の傍らに紫色の液体が零れていた。

「これ、は…カンタレラ!?」

 どうしてこんなものが、誓約の檻の中に!?
 目を見開くエティエンヌに、ジャレットはただ冷静に事の成り行きを見守ることにした。少年がカンタレラを飲んでから黒い虎がやって来て、次に虎が自分の主である虎の国の王を連れて来た。そこからは、ジャレットが実際に見ていた通りの展開である。しかし――。

「…気に入らねぇなぁ」

 元より、自分が見届けた少年を餓死寸前まで放置していたことに関して少なからず怒りを覚えていた。それに加えて、何者かの手によって命を脅かされていたとは。
 ジャレットは、暴君に見えて、その実寛大な心の持ち主だ。しかし、自分のモノに手を出されるのを一番嫌う。
 エティエンヌは、兄が席を立ったのを眺めながらその背中に声をかけた。

「私、心配してたんですのよ。もしこの子が嫁いで来て、お兄様が気に入らなかったらどうしようかって。それで、気に入らなかったら誰かにやらなくてはと考えてましたのよ」

 あんな細い子一人ではやっていけないでしょう?と云うと、ジャレットは、喉の奥でクッと笑った。

「安心しろ――アレは、俺の嫁だ」

 悪い顔をしてそう答えるとジャレットは部屋を出て行った。
 エティエンヌは、その返答を訊いて喜ぶ。先刻の独占欲といい、今の言葉といい、兄が少年を気に入っているのが手に取るように分かる。何事にも興味が薄い兄が、酷く傾倒している。

「あら、あらあら!」

 これは、ひょっとすると、ひょっとするかもしれませんわね。
 エティエンヌは、兄の感情の変化に今後を思い一人ほくそ笑むのだった。

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