9



 穏やかな風と、したたるような新緑の香りに、ハルはゆっくりと目を開いた。そして、驚く。ここは、神聖ルチルの攻撃を受けて荒れた土地のミルフィ共和国ではない。太陽の光を浴びた柔らかな大地に、緑が生い茂った美しい情景がそこにあった。
 息を吸い込むと、新鮮な空気が胸を満たす。呼吸が楽だ。
 ハルは一瞬で、ここが自分の世界だとわかった。腕に抱いた夢人の体温を感じながら、やっと故郷へ帰ってきたような気持ちになる。
 小さく呻った夢人に、ハルは目が覚めたかと問うた。
「ここ、は……」
「たぶん、俺の世界だと思います」
 安心できる世界へ来て、ハルは夢人の首に擦り寄り、匂いを嗅いだ。幸せになる匂いだ。
 大好きな夢人を堪能すると、ハルは周囲を見渡した。夢人は怪我をしているのだ。その治療がしたい。とりあえず、森を抜けようと夢人を抱き上げ、歩き出す。
 すると、後方から「お待ち下さい〜」と、知らぬ声が聞こえた。立ち止まって、振り返ると一羽の梟が飛んで来る。梟は、シマフクロウで、全体的に灰色がかった茶色で、黒い斑がある、かなり大きいサイズだ。
「お初にお目にかかります、精霊王。ワタクシめは、ヴォッコといいます。ここ精霊の国で長老をしております」
「……精霊王って、僕のことか?」
「はい、左様でございます。実は、こちらから迎えの者を送ったのですが、悉くそちらの人間に阻まれて、お迎えができませんでした。大変申し訳ございません」
 梟は、そう云ってお辞儀をした。
 ハルは小さき存在がふわふわと梟の背後から現れたのを見つけた。彼らは、夢人が差し出すお菓子に食いついて、職務を全うできなかったらしい。存在すら知らなかったが、もうこの世界へ来てしまったのだ。今更責める気はない。
 ハルは、長老だという梟に、夢人の傷の手当てがしたいから、出来る場所がないか聞くと、休憩できる家があると案内してくれる。
 家は、ログハウスで、温かみのある二階建てだった。無人だという割には、綺麗だ。
 ハルは、怪我を負った夢人を中へ運び入れ、梟がベッドルームへガイドした。
 ベッドへ横たわらせると、負傷した足を診る。ミルフィ共和国で、スズが治療してくれたようだが、止血がまだだ。梟の指示で、小さき者たちが治療道具を持ってくる。それを受け取り、血が早く止まるように気持ちを込めながら治療していく。手当が終わると、夢人は魔法を受けて疲れたのか、少し寝ると云うとすぐに眠ってしまった。
 ハルは、少し血色の悪い夢人の寝顔を暫く眺めた。空気を読んだ梟が、沈黙を守る。そんな中、眠る夢人の唇にキスを落とすと、ハルは梟に自分に関わる全てのことを尋ねた。
 精霊の国は、文字通り、精霊が生息する所である。国という概念は概念でしかなく、精霊の次元、世界は他と異なる空間に存在する。ハルは、精霊の国の王であり、この世界を統べる存在だという。
 また、ハルが何故この世界ではなく、王国ルチルで生まれたのかと問えば、先代の精霊王がより強い力を持つ者であるようにと、望まれたからだ。精霊王の生まれは、この世界とは異なった場所、境遇が厳しいほど強くなる。そのために、ハルは、あの国で生まれたのだ。
 梟は、あらましを話すと、ヴォッヴォッと鳴いた。
「今日は、この国へ来てお疲れでしょう。また詳しい話は明日にしましょう」
 穏やかな表情を向け、梟のヴォッコは翼を拡げて窓から出て行った。小さき者立ちも消えている。
 戦争のない世界、自分に優しい国で、夢人と二人きり。ハルは今の幸せで胸を満たした。
 夢人が寝ている隣に横たわる。隣に夢人を感じて、こんなこといつぶりだろうかと振り返る。随分久しい気がした。
 戦争に参加して、戦闘員として戦っていたから、常に気を張っていた。今はそれがない。自分が望む理想の世界だ。
 ハルは、今まで置かれていた状況や問題から目を反らして、目の前にある夢人に執着した。
 ハルは、夢人の冷たい手を取って、指を絡ませる。
「おやすみなさい、夢さん」
 
 それから、二人だけの生活が始まった。夢人の性格上、戦場から逃げ出したことを窘められるかと思ったが、夢人にも何か思うところがあるのか、何も云われない。
 夢人の足は、まだ完治していないが、もう看病はいいと断られてしまった。ハルは、夢人の世話ができることを喜んでいたため、この申し出は残念に思ってしまった。
 精霊の国へ来てから、そんなに日は経ってない。ハルは、梟のヴォッコから着替えを受け取ると家へ戻る。その時、夢人がふらりと寝室から出るのを見て、思わず聞いてしまった。
「どこへ行くんですか?」
 気づかれない程度に、声が低くなったが、夢人は気づいていないようだった。
「どこって、キッチンだけど。小さい子たちに、いちご貰っただろ? だから、いちごのタルトでも作ろうかと思って」
 夢人が云う小さい子とは、小さき存在のことで、精霊の一種だ。
 夢人は、血色の悪い顔のまま、キッチンへ向かう。足はまだ完治していないため、引きずっている。ハルも手伝おうと一緒にキッチンへ向かおうとすると、途端、夢人の上体が傾いた。
 服を捨てて、倒れてしまう前に抱きとめる。夢人の顔は相変わらず白く、一瞬意識を失ったのか、何が起きたのか分かっていない様子だった。
 その場で、お菓子作りは中断してもらい、ハルは夢人をベッドへ運んだ。
 何だかおかしい。
 嫌な予感がする。そう思ったハルの予感はすぐに表れた。
 夢人は歩けなくなった。そして、その翌日には起き上るだけで息切れするようになり、三日目には寝たきりとなってしまった。
 呼吸が苦しく、身体に力が入らないという。更に、完治していなかった足の傷は、ここへ来てずっと血が止まっていなかったことを知る。
 明らかな異変に、ハルは夢人を失う恐怖を感じ、長老である梟のヴォッコを呼びつけた。
 梟のヴォッコは、とても冷静で、淡々とハルに告げた。
「この者は、人間。そもそも、精霊の国に長くいられないのです。更に、この者は世界を渡ってきております。召喚された際に、先日までいた世界に合うように身体を作り変えたのでしょう。だから、精霊王が元いた世界でなければ、長く生きられません。このまま、この国にいると長く持ちません」
「何で言わなかった! もっと早く知っていたらッ」
「この者を戦地へ戻しますか?」
 ハルは何も言えなくなってしまう。ハルは、戦争で夢人が失うのが怖くて、安住の地を求めたのだ。しかし、夢人はこの国では生きられない。ミルフィ共和国へ戻っても、自分が戦っている間に、怪我を負ったような場所だ。危険で不安定な状況下に夢人を置けない。
 ハルが望むのは、この地で二人で生きていくことだ。
「どうすればいい」
 困窮した言葉が独り言のように呟かれれば、梟のヴォッコが屈託ない丸い瞳で嘴を開く。
「あなたの血を飲ませればいいかと。今、この者の命は、綱引きのようになっております。精霊の国と前の世界との境界線から、こちらの世界での綱が短い故に、短命となっている。ならば、命の綱をこちら側へ引っ張ってやればよいこと」
 梟のヴォッコはヴォッ、ヴォッと鳴いて、目を細めた。
「長い目で、あなたの血を少しずつ飲ませれば、こちらの世界での寿命が延びます。精霊王ほどの方の血なら、確実に効果が認められるでしょう。ただし、血を飲めば痛みが伴います」
「痛み……?」
 梟のヴォッコの言葉が脳に届くとハルは青ざめた。
 それは、毒と一緒じゃないか。
 ハルは、自分の辛い過去を思い出す。毎日、毒を飲まされ、喉を焼かれるような痛みと何の温かみもない悲しみ。いつか舌の感覚がなくなり、多彩な味を知る前にわからなくなるのではないかという恐怖。
 大好きな夢人に己の血とはいえ、毒を飲ませることなんてできない。
「夢さんに、毒を飲ませるなんてできるわけないだろう!」
「でも、そうしなければ、この者はここでは生きていられません」
 この国で一緒に居たいのではありませんか?
 悪魔のような囁きに、ハルは梟を睨み付ける。それでも、ヴォッコの言葉は止まらない。
「彼はあなたを兵器として利用していたのに?」
 ハルがぐっと奥歯を噛みしめる。心の奥に鍵をかけて仕舞い込んでいたわだかまり。この不穏な気持ちが表に出てきたから、戦争から遠ざかりたかったように思う。
 否、ハルはそうじゃないと否定する。違う、俺は夢さんのためなら戦えた。夢さんを守るために戦ったのだ。
 夢人を疑う言葉を、必死で否定して頭を振る。
 でも、もし俺を兵器として利用していたのなら、俺の血を飲ませていいのではないだろうか。
 ふと浮かんだ自分勝手な選択に、自分を殺したくなっていると、ヴォッカが片翼で指さしてきた。
「彼を召喚したのは、あなただ。強く願ったのでしょう? 彼が欲しいと。それなら、彼はあなたのものだ。所有者であるあなたは彼を好きにしてもよいのでは?」
 精神がぐらぐらと不安定になる。ハルは、目を彷徨わせ、自分本位な方へ気持ちが傾いていることに気づき、ヴォッカに退出願った。
 ヴォッカは、ヴォッヴォッと鳴くと、すいーっと飛んで部屋から出て行く。パタンと扉が閉じられると、ハルは夢人と二人きりになって、項垂れた。
 夢人を召還したのは、確かにハルだ。でも、彼から与えられるものは、自分の願いより大きく、彼のものになっている方が、ハルは幸せだった。
 彼とこの国で一緒に居たい。でも、夢人に毒を飲ませたくない。
 自分が経験した喉が焼けるような痛みを、彼に負わせるなんて、絶対に嫌だ。
 その葛藤が、ハルの涙腺を壊した。目頭が熱いと感じたときには、涙が零れてしまっていた。
 伝う涙が止まらない。
 苦しめたくないのに、自分の幸せを考えてしまう。
 眠る夢人の手を握り込む。涙が、夢人の手に落ちると、それをゆっくりと指で拭われた。驚いて、夢人を見ると、青白い顔で笑っていた。

 
「話、聞いてた」
 お前ら、ここで大声で話しするんだもんなと、夢人は笑った。笑うと肺が苦しくなるが、それでも笑って見せた。
 イケメンのハルが涙を流す姿に、俺は可愛いと思ってしまった。同時にこれ以上泣かせたくないとも思う。
 夢人は、深く息を吸って、吐き出した。
「……俺は、お前を兵器として利用した」
「違うッ! 俺が望んで戦っただけです!」
「聞けって」
 自分の話を聞くように、また新たな涙を流すハルを宥めた。
「お前が俺を好きなことに気づいて、お前の力を利用した。戦争に負けたら、ルチルの奴らにお前を殺されてしまう。だから、戦争に勝たなきゃって思ったんだ。でも、すごく不安になって、自分で戦うことが怖くなって、お前に甘えた」
 話し始めると、目頭が熱くなる。酷いことをしたのは俺なのに、目に涙が溜まる。
「でも、戦争が始まって、お前の姿を見て、なんで好きな奴に戦いを強いているんだろうって。自分が嫌になった。いたたまれなくなった。なのに、お前はここへ来て、こんな俺にずっと優しかった。なんで、俺はこんなに優しい奴に戦えって云えたんだろうって」
 夢人は唇を噛みしめ、ハルの瞳を見た。
「……だから、取引しないか」
「取引……?」
 オウム返しするハルに、ゆっくりと頷いてみせる。
「俺はお前を兵器として利用した負い目があるし、お前はこの世界で俺を生かしたい」
 そうだろ? と、念を押すと、ハルは眉を下げた。わかりやすい奴だ。
「……だから、こうする」
 夢人は、手を伸ばしてハルの胸ぐらを掴んだ。そして、その唇に噛み付いた。
 歯で薄い皮を裂くと、破れた部分に吸い付いた。口の中に、鉄の味が広がる。そして、それを飲み込むと喉が焼けるような痛みが走った。
「ぐッ……!」
 強い痛みに、思わず喉を手で押さえる。ハルは俺の行動に、慌てた。吐き出させようとすらした。でも、俺は頑なに拒んだ。
「……こん、なもん、これから何度だってキスすんだろ。その度に、慌ててたら、どうしようもないだろ」
 唇が切れたハルの血を再度なめ取る。正直劇薬のようだが、表情にでないように我慢する。
「少しずつ、俺にお前の血を寄こせよ。毎日だと、キツイから、日数決めて、飲ませろ」
 そう言ってしまうと、不思議と心が軽くなり、また、ハルの血の効果か、足の傷の血が止まったような気がした。
 ハルは、ただ俺の行動に驚いているようだ。でも、俺はここで、また残酷になる。
「……だから。だから、俺のために、前の世界に戻って、戦ってくれ」
 非道なことは分かっている。負い目がが重なっていくこともわかる。でも、あの世界で、知り合った人たちと別れもなく、ましてや戦力を失った状態で敗戦してルチルの隷属となってしまうのはどうしても嫌だ。それに、ハルにルチルとのケリを付けて欲しい。
「戦いが終わったら、俺の全部の時間を、お前にやるよ。だから、ルチルとケリをつけてくれ」
 心に決めたことをハルに告げると、ハルは眉を下げて笑った。夢さんらしいと。
「俺、戦いから逃げ出したこと、いつ怒られるんだろうって、思ってました。絶対、ハルさんは叱るよなって。嫌いなものから、逃げるなって」
 ハルは、ぽろりと涙を一筋流して、スッキリとした顔をした。
「やっぱり、俺にとって、夢さんは優しい神様です」
 いつもの蕩けた顔を見せるハルに、二人の先が決まった。
「ミルフィ共和国へ戻るぞ」

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