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「それで、そのまま寝て風邪を引いたんですか」
馬鹿ですねとは、ヒサメの言葉だ。
「大丈夫……?」
スズが水分を取った方がいいと、水を持ってきてくれる。
夢人は、結局あの後ふて腐れてヒサメのベッドで寝た。薄い掛け物はハルがかけてくれたようだが、全裸で寝たことで、風邪を引いてしまった。
店が改修中で休みで良かった。
夢人は熱で火照る身体をぐったりとさせて、二段ベッドに押し込められた。早朝に現れたヒサメに叩き起こされたのだ。曰く、僕らのベッドにいつまでも寝ているなとのことだ。
「今日は寝ていることですね」
「ハルは……」
「あの人は、あなたのために何か食べれるものを作ってますよ」
今は寝ることを優先なさいと、あのヒサメに諭されて、何だか悔しく思いながら、夢人は意識を手放した。
ラインハルトは、居住スペースの夢人のいる所から逃げ出し、調理場で複雑な感情に苛まれていた。体調を崩した夢人に何か作らねばとは思うのに、心が落ち着かなくて行動に移せない。ただ深く考え込んでしまって、調理場で佇んでいると、その様子を見たヒサメが「あなたたちは、器用で不器用ですね」と呆れた声を出された。
「あ?」
苛立った気持ちのまま声を出せば、随分低くなったが、ヒサメはそれすら呆れて肩をすくめた。
「何を怒っているのかは知りませんが、折角僕が与えた機会でしたのに」
その言葉で、昨夜夢人が積極的になった理由を知り、思わずヒサメを睨みつけた。
「僕を睨んだって仕方ありませんよ。夢人は遅かれ早かれ行動を起していたはずです。あなたと想いを通じるために。嬉しくなかったんですか?」
淡々と並べられる言葉に、「うるせぇよ」と返すことしかできない。
嬉しかったに決まってる。心の底から慕う夢人に、己への思いをぶつけられて、身体まで差し出されて。積極的だった迫り方も胸の鼓動が馬鹿みたいにおかしくなって、たまらなかった。でも、ハルはそこまでされても、己の感情に名を付けることができないでいた。
今は亡きルチルでは、信仰が盛んだったように思う。幽閉されていた自分にも、幼少の頃から少なからず浸透していたから。それでも、教えられていたことは少ない。逆に云えば、ハルはそれしか知らない。だから、夢人が現れてから、彼への想いは崇拝なのだと思ったのだ。それ以外を知らないから。
しかし、今はそれは崇拝ではない感情だとわかる。でも、わかっているのに、それがどういう名前をつけていいのかわからないのだ。
夢人を見ると、こんなに胸の中をかき乱されるのに。
表に出せず、心の葛藤をするハルにヒサメは作業台に手をついた。
「何を難しく考えているか知りませんが、恋愛というものは本当に簡潔なんです。それは、相手に情欲を抱くかどうか。ただそれだけです」
ヒサメは至極真面目な顔で、己を語る。
「僕はスズに欲情しますよ」
ぎょっとしてヒサメの顔を見てしまった。
「スズはまだ幼いので、手を出していませんが、あの子を抱きたいと常に思っていますよ。舐めたい、吸いたい、あられもない姿にしたい、そうかと思えば、どろどろに甘やかしたい、己の意のままにしたい。そういう欲の目で見てしまう。あなたには、そういう瞬間はありませんか?」
ヒサメの明け透けな言葉に、ハルは何かを掴みかけたような気がした。語り始めてから黙ったままのハルに、ヒサメは興味を失くしたように切り上げる。
「さて、少し話過ぎましたね。まだ悩みたいなら最初に戻ってみるのもいいかもしれませんよ。あなた考えるの得意でしょう?」
さっさと夢人に何か作って持っていって下さいと、調理場を出て行った。
一人になったハルはヒサメの言葉が胸に残り、夢人との出会いを振り返った。
テーブルと一脚の椅子が置いてある白い空間だった。俺は、物心つく頃から、そこで毒を飲まされていた。
毒は効かない身体だった。ただ、胃まで通る道が痛むだけで。最初の頃は、喉が痛くて嫌だった。でも、いつの頃からか、その痛みにも慣れてきた。
俺は、疎まれる存在だった。暗殺も計画され、その度に生きてしまった。
心が死んでいく。つまらない日常に、早く死ねたらいいのにと思っていた。
テーブルに皿が置かれる。俺は、この繰り返しの日常にふと思った。
せめて、食事くらい美味しいものが食べたいな。
舌は、どれだけ毒を飲んでもすぐ正常に戻ってしまう。食を楽しみたい。舌で色々な味を知りたいと思ったのだ。
それから、少しして。
いつも毒の皿を運んでくる男が代わった。目の前に、皿が差し出される。何も変わってない日常に、俺の願いは夢のままなのだと思った。
ただ一つの作業のように、スプーンを持ち、掬う。
とろりとしたものに、毒の種類が変わったかと心の中で呟いた。
しかし、口に入れた瞬間、世界が変わった。舌に、喉に、痛み以外の喜びを感じた。
驚いて、男の顔を見ると、今度からは俺がちゃんとした物食わせてやるよと言われた。
救いだと思った。
じわりと、瞳に涙が溜まる。
美味しかった。
口の形が、美味いと発音しそうになる。俺は、それを慌てて留めた。
ここで、自分が素直に美味いと云ってしまえば、この国は、彼を自分から取り上げてしまうだろう。
だから、俺は、「まずい」と云った。
反対の言葉を云って、嫌われたくないと、瞬時に思った。嫌わないで欲しい。でも、こう云うしか、繋ぎ止めておく方法がない。
離れて行かないでと、強く願った。
男は、俺の思いに反し、「好みの味じゃなかったか」と苦笑した。
俺は、そんな彼の態度に申し訳なく思いつつも、彼の存在が胸に宿ったのを心地よいと感じた。
空になった皿を男が下げる。
俺は、男にせめてと料理名を尋ねた。
男は、意外そうな顔をして、教えてくれた。
ハルは、夢人との出会いを思い出し、食材を取り出した。
自分の世界を変えてくれた料理。コメリを洗うために、水にさらしていると、流れる水の音に、違うと気づく。
夢人さんが、俺の世界を変えてくれたんだ。
水が溢れる様を見ながら、胸の中に宿る彼への思いが大きく膨らんでいく。それは、純粋で無垢な気持ちだけではなく、邪な感情もある。
ハルは、ダシを取るため、鍋を火にかける。
あの時の料理を作りながら、ハルは自分の感情を認めた。
崇拝なんかじゃない。もっと、汚くて、素晴らしくて、温かくなるような感情だ。
俺は、ちゃんと夢人さんを想っている。それがわかると、胸の奥の灯っていた炎を感じるようになった。
ぐつぐつと煮立つ音を聞きながら、美味しいものを作ろうと気合いが入る。
俺のせいで風邪を引いた夢人さん。
病に伏している彼を見ると、落ち着かない。早く良くなって欲しい。
そう願いを込めて、ハルはおかゆを完成させた。
ハルが、夢人への恋愛感情を認め、出来たおかゆを持って、居住スペースへ入った。
看病と見守ってくれていたスズとヒサメが、ハルに気づくと部屋を出て行く。
二段ベッドの一階部分に寝かされた夢人は、ぐったりとしていて、苦しそうだ。
おかゆが乗ったお盆をヒサメたちのベッドに置いて、夢人の顔を覗き込む。
「夢さん……」
俺、自覚しました。早く、この気持ちを伝えたいです。
眠る夢人の唇に、キスをした。
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