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 異変に気付いた時、それは身体に異常をきたしていた。
 体調が悪い。
 秋口だし、風邪でも引いたかと思い、薬を飲んでみたが、効果はない。
 そして、ずっとある腰の違和感。鈍い何かを感じつつ、ジーノは日々を過ごした。
 顔に出ないので、チェザにバレることはないから助かった。けれど、抱きしめてくるチェザには、体温の温度差に驚かれることがあって、その度に少しヒヤっとした。
 医者にかかろうにも、獣人を診れる医者は少なく。更に、この国は近々戦争になるため、貴重な人材として徴兵されてしまい、町医者も姿を消していた。心得がある者に診てもらったりもしたが、原因はわからなかった。
 ここのところ、ずっと微熱が続いている。
 少しの動作で汗が噴き出るようになった。
 稼ぎ頭の筆頭から引いた身ではあるが、この状態は危機感を覚える。
 ジーノは、額に滲む汗を拭いて、考えるようにして俯いた。その表情は硬く、悲しい顔をしている。何かを悟ったジーノは、顔を作ってチェザの部屋を目指す。
 きっと、チェザは笑った顔が好きだから。それに、彼の目には、笑った顔を残してあげたい。
 ジーノは、そんな思いでチェザへ会いに行く。
 城のチェザの部屋に着いた頃には、呼吸が荒くなっていて、全身の疲労感も強く出ていた。呼吸を整えるため、壁に寄り掛かっていると廊下の向こうからプティがやって来た。
「どうした、入らないのか?」
 いつもなら、こんなところに留まっているはずがないジーノがここにいて、プティは不思議に思ったらしい。あまりに疲れていたせいか、上手く反応できないでいると、「おい、大丈夫か?」とプティが心配してくる。プティに気づかれれば、ジーノに知られてしまう。だから、ジーノは顔に汗をかきながら「大丈夫」と笑った。調子悪いなら、休めよと、プティは頭をぽんぽんと撫でて、去って行く。廊下に残されたジーノは、汗を拭いて深く呼吸をする。
「……よしっ」
 本当なら必要のない気合いを入れて、ジーノは扉を開いた。
 チェザは扉を開けたのがジーノだと気づくと、作業していた手を止めて、部屋へと迎え入れた。腰を抱かれる。いつものチェザの匂いに包まれて、ジーノがほっとしていると、するりと頬を撫でられた。
「……体温が高いな」
「うん……」
 走ってきたと云えれば良かったのに、変なところで嘘がつけなかった。汗で濡れた前髪をかき分けられて、額の熱を測られる。
「熱がある」
 チェザの眉が下がり、心配そうな瞳へと変わる。今までそんな感情なんてなかっただろうに、自分を心配するチェザに、ジーノは嬉しくなる。
 抱かれていた腰は、そのまま横抱きにされて、チェザの寝室へ連れて行かれそうになるので、慌てて仲間のいる自分の家を指定した。こんな時なのに、チェザの寝室がチラッと見えて、ドキッとした。
 その後は、ずっと抱かれながらジーノは仲間のいる獣人の家へと帰ってきた。チェザに抱かれての移動、いつもなら羞恥心ですぐに降りる、下ろしてくれと頼んでいたが、体調が悪いせいか声をかけられるまで眠っていたように思う。
 我が物顔でいつも使っている寝室へ運ばれて、寝かされる。少し固い地味なベッドだが、体が楽になった。
「あとで薬を持ってきてやる」
「……うん、ありがとう」
 息が上がる。唇にキスをされて、笑う。チェザはじっとジーノの様子を見てから城へと帰っていった。
 もぞもぞと布団へと手を伸ばす。すると、腰から小さな痛みが走ったような気がした。気のせいだと思うことにして、そのまま目を閉じた。
 朝になって、起き上がるのに時間がかかった。昨日の痛みは、今日になって強い鈍痛に変わった。
 痛みに苦しんでいると、枕元に紙袋が置いてある。中を開けると、チェザからの魔法薬だった。
 メモを読んで、すぐに飲んだ。熱と倦怠感に効くらしい。飲んで少しすると、体の怠さが消えた。あれ? と、思って額に手をやれば熱も引いたようだ。魔法すごいと、感動する。しかし、腰から広がるような痛みはなくならない。それでも、随分体が楽だ。この調子ならチェザへ会いに行けるとジーノは痛みを我慢しながら城を目指した。
 それから、一週間。
 ジーノは、ベッドから起き上がることもできなくなった。
 自分の体に起きたことが理解できない。力も弱くなって、とにかく、怠さが治らない。チェザから貰った魔法薬も効かなくなってきた。残っている薬を飲む。
 何でこんなになっているのだろう。そればかりを考える。
 秋が深まり、窓から見える景色もすっかり色づいた。赤や黄、茶色に染まった葉は、風が吹けば舞い散っていく。
 昼間になって、ジーノはゆっくりとした動作でベッドから這い出た。部屋から出て、廊下を歩いているとすっかり世話係となってしまった仔が駆け寄ってくる。
「おっさん、寝てないとダメだろ!」
 おっさん……
 そう呼ばれたことに少なからずショックを受ける。
 すぐに背中に手を当てて寄り添うこの仔は、先日の戦いで前に出て危うく攻撃されるところを自分が庇った者だ。リタという。
「大丈夫だ、今日は調子がいい」
 それに、書き溜めた手紙を出したい。そう云うと、リタが心配するような目で怒ったような顔をする。
「俺が出しに行く! だから、おっさんは家で大人しくしてろッ」
 道で倒れられても困るからなっ!
 鼻息を荒くして、わかりやすく心配してくれるリタに笑みが零れた。
「そうか、じゃあ頼む」
「ん。机の上か?」
「ああ」
 頷くとリタは部屋の方へパタパタ走って行った。それを見届けてから、ジーノは顔を洗うために、洗面所へ向かう。
 ヨタヨタと歩いて洗面所へ入り、蛇口を捻る。しかし、固く締まっていたため、二番目の洗面台へ手を伸ばして蛇口を捻った。緩く締めてあったので、水がすんなりと出た。
 二度、三度、冷たい水で顔を洗って、鏡に映る自分を見た。そして、驚く。
 本当に、自分が映っているのかと、疑いたくなった。
 そこに、若さはなくなっていた。病で痩せたことを差し引いても、老いが現れていた。そっと、目元を撫でる。ふいに、もう亡くなったニットの皺のある笑みを思い出した。
 年齢を考えれば、この姿は相応だ。
 心に生じたショックを慰める。
 とめどなく流れていた水を、蛇口を捻って止めた。溜息が零れる。
 再度、自分の容姿に溜息を吐くと、想って止まないチェザのことを考えた。
「こんな姿じゃ、びっくりするかもしれない……」
 会いたいと綴った手紙に、後悔する。本心ではあるけれど、若さを失って老いた自分を見られたくない。
 獣人の運命だ。
 でも、だからこそ、積極的にアプローチできたのだ。寿命が違うから。
 そっと、短くなった尾に触れる。
 尾を切り落としてでも、会いたくて、想っていたあの頃が、輝いていた気がした。
 顔を拭いて、洗面所を出る。
 ふらついて、壁に手をついた。たったこれだけのことで、熱が上がった。腰の痛みも強くなってくる。
 チェザに会いたい。でも、まだ己の病に名すら付いていない。
 獣人の仲間の中でも、感染を恐れて近寄って来ない者もいる。チェザにうつって欲しくない。
 ジーノは遠くを見つめた。
 考えついたことを口に出すのは憚られた。
 会いたくて仕方がないのだ。折角、両想いになれたのに。
 うっすらと涙が滲んでくる。それを零れないように、服の袖を押しつけて、涙を誤魔化す。
 部屋に戻ったジーノは、ベッドへと倒れ込んだ。あれだけの動作で、熱が上がることに悔しい気持ちになる。痛む腰を叩く。
 上手くいかない身体に、自然と温かい涙が瞳から流れていた。会えないことが酷く辛かった。


 水色の光が視界いっぱいに拡がっている。何か呟く声が聞こえ、それがチェザだとすぐに分かった。
 これが現実なのか、夢なのか、分からない。でも、どんなことでもチェザに会えるだけで嬉しい。きっと、これは夢なんだろう。そうでなければ、こんな都合のいいことなんて起こるはずない。
「チェ、ザ……」
 手を伸ばせば、握り返してくれる。涙が出そうだ。
「体は楽になったか」
「うん、うん……」
 うわごとのように何度も頷いて、ジーノはチェザの手に擦り寄る。
「元気に、なるから、すぐ、元気になるから……」
 掴んだ手に縋り付いていると、優しく頭を撫でられた。久しぶりに会ったチェザ。もっと、話をしたい。顔が、見たい。
 チェザに会えた安堵感からか、ジーノは自分の視界がどんどん白くなるのを感じた。チェザが消えてしまう。伝えなけきゃ。意識を手放しながら、ジーノはチェザへ何かを伝えた。それが何だったのかは、失った意識では分からない。
 目が覚めたのは、朝も早くだった。
 飛び起きるようにして起き上がって、目の前にチェザを探して。いないと分かると、彼が来た痕跡を探した。枕元に紙袋は置いてないか、窓は開いてないか。周囲を見渡す。どれも、ない。
 チェザがいないことに、この部屋のどこにもその証拠がないことに、もうダメだった。顔がくしゃりと歪む。涙があふれ出す。ボロボロと零れる涙。
 しかし、ふと、自分の体が軽いことに気づいた。腰の鈍痛はあるが、怠さがない。思えば、起き上がることもここ最近出来なかったはずだ。
 涙が、止まった。自分の体が一時的にでも、楽になったことが、チェザが来てくれた証拠だ。夢じゃなかった。笑みがこぼれる。チェザが来てくれた。嬉しさで涙がまた零れた。


 プティ・ニクネヴィンは、城の廊下を歩いていた。少し前までは、その手には手紙が握られていたが、それも近頃なくなった。郵便屋より早いだろと、仔どもの獣人に押しつけられて、伝書鳩をしていたのが懐かしいと思えるくらいだ。
 差出人は狼の獣人のジーノで、宛先は魔術師のチェザ。
 始めのうちは、ラブレターかぁ? と、茶化したりもしたが、目立つ容姿のジーノを城で見かけなくなってから、嫌な予感はしていた。
 チェザは自分から喋る方でもない。手紙を押しつけて来たリタという仔も、姿を見せない。恐らく、リタに関しては、手紙自体がなければここへは来ないだろう。
 プティは、遠くを見つめて溜息を吐く。
 エルフは長生きだ。だが、その分、別れも多い。悪い考えを頭を振って振り払う。そういえば、リタから少し前にジーノの体調が悪いと聞いていた。
 今、季節は寒さが深まり、冬が始まろうとしている時期だ。そして、再び戦争が始まった。国のエージェントであるプティが自由に動き回れるということは、そういうことだ。
 プティは城を出る。忙しなく人々が行き交う中、ジーノが暮らす家を目指した。
 結果的に、プティの予感は当たった。
 戦争に駆り出されて、人がいない獣人の家は、ジーノとその世話をするリタだけが取り残されていた。プティが訪問したとき、リタは洗面器を抱えていた所だった。
「おっさん、食欲がねぇんだ……」
 しょんぼりとした顔をするリタに、頭を撫でて慰める。そして、プティはジーノに会った。
 ジーノは、獣人特有の病に罹っていた。長生きして得た知識だ。前例を知っている。そして、その病に治療法が無いことも。この病気は、腰の鈍痛から始まり、その痛みは全身へと広がる。
 プティは、目の前のジーノを見て、チェザを思い出す。彼は、ずっと城に居たように思う。
「リタ、チェザはここへ来たか……?」
「チェザ? チェザ……ああ、あの手紙の相手か。見たことないぜ」
「何?」
 リタの返事に、プティは驚いて開いた口を閉じ、また開いた。
 何てことだ。
 ベッドで眠るジーノを見て、プティは慌てて部屋を出た。その勢いのまま、家を飛び出し駆け出す。
 冬の始まりの雪がちらつき始めた。が、それに構うことなく、来た道を戻る。
 早くしなければ、手遅れになる。
 プティは大きい体でドスドスと走りながら、必死に城を目指した。

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