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 砂埃が舞う戦場。耳に届くのは、他者の声と金属のぶつかる音。躍動的な動きをする獣人の中に、己が望む人物はいない。
 この感情はただの焦りなどではない。
 魔術師のチェザは、冷静に呪文を紡ぐ。敵と戦う人々の合間を縫い、歩む。そして、展開された魔方陣と共に、瞳が漆黒から青へ光りを帯びていく。
 足を止め、冷徹な貌をしたまま、手を前へ突き出す。
 味方も敵も、大きく目を見開いた。
 時間が惜しいと思った。ただ、この戦争を終わらせたいと思った。
 放たれた魔法は、巨大な力となって、敵の戦力を奪い、敵陣営を壊滅させた。
 口から吐き出した空気が、白い息となって出た。チェザの表情は目の前の惨劇を見ても変わらない。
 周囲を見回して、敵の数が減ったのを見ると、踵を返す。まだ、敵国からの降伏もない。しかし、チェザは見向きもせず、戦場を後にした。
 終戦の合図もないまま、城へ戻ったチェザは、戦いの汚れを落とすこともせず、書庫から持ってきた本を読み始めた。
 色々と作った魔法薬を届けさせているが、ジーノはまだこの部屋に顔を出していない。
 薬の効きが悪いのかもしれない。発熱と倦怠感を無くす効果を中心に、チェザは魔法薬を作る。魔法と薬草で荒れた手にも構わず、試験管や鍋で薬を精製していく。古びた本を手元に引き寄せ、考え込んでいると、部屋の扉が急に開いた。
 一瞬、ジーノが来たのだと思った。腰を浮かせたチェザ。しかし、姿を現したのはエルフのプティだった。チェザは興味を失い、魔法薬作りに戻る。試験管を持ち上げるチェザに、プティがすごい剣幕で迫って来た。
「今すぐ、ジーノに会ってこい」
 プティの発言に、チェザが薬を作っている手を止める。チェザは無表情で、「なぜだ」と答える。
「ずっと会ってないだろう」
「あいつがここへ来ない」
 元気になると言った。だから、それを信じているのだ。
 チェザは手を止めて無言になる。
 プティがチェザの肩を掴んだ。
「今すぐ、会いに行け」
「……なぜ」
「後悔するからだ」
 強く肩を掴まれ、エルフの真剣な眼差しに、ジーノに恋をして生まれ育った心がざわつく。チェザは作業していた手を止めた。
 チェザは、ジーノを遠ざけていた。あれだけ想っていながら、これだけ心配して、なりふり構わず魔法薬を作っているのに。病で苦しむジーノを見たくなかったのだ。好きな相手が、恋をした相手が、病に冒され様変わりしていく姿が怖かったのだ。チェザが最後に見たジーノは、病で随分とやつれていた。魔法を使っても、治してあげられなくて、悪化していく姿を思うと会いに行けなかった。逃げていたのだ。こんなに強い魔術師のチェザが。
 記憶にあるジーノを思い出すだけで、胸を締め付けられるくらいに恋をしているのに。
 プティの説得に、チェザは立ち上がる。顔が強ばる。促されて、チェザは部屋を出る。
 足はもうジーノの家へと向いている。
 プティの言葉に、嫌な予感がしてならない。気持ち悪くなるくらい、胸の鼓動が強く鳴る。
 思い浮かぶのは、照れた笑顔のジーノ。そして、涙を流して縋ってきたジーノだ。
 城から少し距離がある獣人たちの家は、チェザが色々と考え事をしている間に到着した。すぐに覚えたジーノの部屋へ向かう。あれだけ逃げていたのに、歩みは止まらない。
 木製の柔らかい雰囲気のある扉。それを開けて、視線がまだ逃げようとしたが、ベッドが視界に入って、ジーノが気になってダメだった。
 チェザは、一歩、また一歩と踏み出して、ベッドで横になるジーノを見た。
 そして、言葉を失った。
 やせ細った体に、若さを失った肌。白金の美しい毛並みは、全体的に白く、艶がない。呼吸は浅く、顔色は青白かった。
 なんだこれは。
 どうなっている。
「どういう、ことだ……」
 混乱して、思考がそのまま口から零れる。息も絶え絶えな、老いた姿のジーノに、チェザはプティを静かに問うた。
 酷く動揺するチェザに、プティが穏やかな口調で答える。
「もう、治る段階じゃない。それだけの体力がない。もう、寿命が近い」
「寿命だと……? そんな、わけが……」
「魔術師と獣人の寿命は長さが違う。一つの季節が終わるのに三年だ。こいつは出会ってからもう三度季節を終えてる。獣人は、俺たち種族の倍の早さで歳を取る。お前も知っていただろう」
 獣人の寿命のことは知っていた。でも、頭は理解しても、胸の奥がそれを否定する。獣人のことは文献も読んだ。なのに、それを考えることを拒否していた。目を反らしていたのだ。考えないようにしていた。
 それは、ジーノが死ぬということだ。
 胸が苦しい。
 チェザは、唇の内側を噛む。そして、衰えたジーノを抱えた。
「俺の部屋へ」
 言葉少なく、ジーノを抱いて進むチェザ。
 ジーノの体は恐ろしく軽い。その軽さに表情が歪む。遠くない未来、必ずやって来る喪失など考えたくない。
 まだ、治してあげられる。逃避だ。でも、そうやって行動しなければ、何かが崩壊しそうなのだ。
 ジーノを攫う形で、城へ連れ帰ったチェザ。
 自分の部屋のベッドへ寝かせると、ジーノの目元を撫でた。


 意識が浮上して、目を開く。知らない天井に、柔らかい寝具。ふかふかとしたベッドに、高価な装飾が付いた天蓋。知らない場所に寝かされていたジーノは、怠くて動かない体で、首だけを動かして周囲を確認する。すると、ジーノが目覚めたことに気づいたチェザが、傍に来て、顔を覗き込んできた。
「チェ、ザ……?」
「ああ……」
 かさついたチェザの指が頬に触れて、実物なのだと実感した。ずっと、会えていなかったチェザだ。
「すまない、もっと早く会いに行くべきだった」
「ううん、会えて、嬉しい……」
 眉を下げるチェザに、そんな表情もできるようになっていたんだなぁと関心する。頬に触れているチェザの手にそっと触れた。
 若さを失って老いた自分と違って、チェザは相変わらず綺麗だ。
 チェザは、何か欲しい物はないかと聞いてくる。
 会えただけで、こんなに嬉しいのに。
「会えただけで、いい」
「……そんなこと言うな」
 もっと、ねだってくれ。何か、欲しいと言え。
 必死な様子のチェザに、笑えてきてしまう。彼らしい口調も、彼との時間をこうして過ごせていることが本当に嬉しい。
 でも、何か言わないとチェザは、きっと困ってしまう。
「今、だけでも、傍にいてくれれば、いい」
 深く頷かれる。それから、チェザは、今だけでなく、なるべく傍に居てくれた。
 チェザは、俺の病気を治そうとしてくれた。すぐ隣で調べ物をしたり、同じ部屋で魔法薬を作ったりと、視界に入る所にいてくれた。書庫を往復しながら、治療法を見つけようと躍起になっていた。
 チェザは、不器用にもいつも励ましてくれた。
 ジーノは、それを嬉しいと思いつつ、それが意味のないことだと悟っていた。寿命がもう長くないと、色々悟ることの方が多い。
 そう思った翌日の朝。チェザの部屋へ連れて来られて3日目のことだった。
 チェザが、作ってくれた薬膳を運んで来たとき、その時は訪れた。
「……ジーノ?」
 いつもより、呼吸が浅く、意識がぼんやりしているジーノの様子に気づいたチェザが、膳を放って駆け寄ってくる。
 派手な音を立てて膳が落ちたのに、ジーノにはその音が少し遠くに聞こえた。
「ジーノ!」
 はっ、はっと、呼吸するだけで、精一杯だ。
 ジーノはチェザに伝えようと、口を開く。
「チェザ……」
 もう、お別れだ。
「ジーノ、やめろ……っ」
「好き、だよ……」
「ジーノ、待ってくれ」
 泣きそうなチェザの顔に触れようとすると、チェザがその手を取った。強く握られて、チェザを感じた。視界が時々ぼやける。
「チェザも……俺、すき……?」
 息が難しくなってくる。それなのに、痛みも苦しさも感じない。
「好きだ。好きだ。ジーノ、頼むから……っ」
 ジーノの呼吸が短くなっていく。
「お前を失いたくないっ……」
 手が引かれて、チェザが頬を擦りつけて、縋ってくる。
「ジーノ、生きてくれ……好きなんだ。お前がいなくなったら、俺は耐えられない」
 チェザに、こんなに想われている。幸せだ。
「チェザ……」
「やめろ、やめろ……、薬なら作る、だからっ」
 視界がもう半分も見えない。
 ジーノは、チェザに恋をしていた。だから、最後の力を振り絞って、笑みを作った。
「チェザ……」
 瞳に色が失われる。
 チェザが握る手は、何度握ってもその手が握り返してくることはなかった。ジーノの瞳から最後にぽろりと涙が零れた。
「……ジーノ」
 チェザは喉が絞られたように、小さく声をかけることしかできない。
「……ジーノっ」
 手を強く握っても、摩っても、ジーノから返事が返ってくることはなかった。途端、チェザに強い喪失感が訪れる。それは、強く、胸を抉る痛みとなった。
 目の前の現実が信じられない。
 チェザは、ジーノが生きていなければ、耐えられない。どんな名誉も、地位も、財も、何より価値のある相手だった。それほどに、チェザはジーノに執着していた。初めての感情をくれた相手だったからだ。
 張り裂けそうな胸を押さえる。
 チェザの瞳が漆黒から、青く光った。
 ジーノが生きていないこの世など、何の価値も無い。
 無意識と意識の狭間で、チェザは言葉を紡いでいた。それは、古い言葉だ。
 複雑な魔方陣が現れ、何度も形を変える。
 目の前に見えるジーノ。そして、脳裏に映るのは、あの夏の日に笑うジーノの姿だった。


 眩い光りに、引っ張られる。
 ジーノが歩もうとしていた道は目の前にあるのに、何かに引っ張られて、一歩が踏み出せなかった。
 光りに包まれる。細胞が再生するように、体が戻っていく感覚がする。
 少しずつ意識が戻っていき、うっすらと瞳が開かれる。眩しい青い光の向こうに、見たことのある景色が拡がっていて、不思議に思う。
 おかしい。
 青い光に包まれながら、その異変に気づく。自分は死んだはずだった。目は光を失い、呼吸もできず、心臓も音を鳴らすのを止めた。それなのに、目を開くことができて、物を見ることができる。動かなかったはずの体が動いて、手も持ち上げることができた。そして、その手が随分と若くなっていることに気づく。
 光はまだ続いている。
 ジーノは、光に包まれた死んだはずの自分の身体で、そこにある現実と対峙した。
 目の前にいたのは、恋したチェザだった。
 チェザと目が合った瞬間、光は急速に小さくなっていく。
「チェ、ザ……?」
 自分の身に何が起きたのかは、わからない。
 ジーノは、目の前にいたチェザを見つめる。そのチェザは、光が消えると同時に膝から崩れ落ちる。それでも、ジーノを一心に見つめ、抱きしめようと手を伸ばした。しかし、その両腕はジーノを抱きしめる前に止まってしまう。
 ジーノの前では感情を宿していた瞳が、徐々に心を失っていく。ジーノが知る柔らかい表情は、氷のような無表情へと変わっていった。それでも、チェザは真っすぐにジーノを見つめる。
「ジーノ……」
 何が起きたのかよくわからない。でも、チェザが大切な何かを失おうとしていることだけはわかる。伝えようとしていることも。
 ジーノは、心が揺さぶられる感覚に陥りながら、チェザが紡ぐ言葉に耳を傾ける。
 チェザも、自分の本当の名を伝えようと口を開くが、先に心が失われてしまう。間に合わない。せめて、自分の抱いていた感情を、想いを伝えようと、口を開く。
 が、凍てついていく氷のように、漆黒の瞳にあった感情は失った。
 唇が動く。でも、それは言葉として紡がれることはなかった。
 魔術師のチェザは、その心を代償に、ジーノを生き返らせた。
 チェザは、ジーノに恋をして、その心を失ってでも、ジーノを失いたくなかったのだ。
 チェザの心にあった最後の気持ちが、伝えられなかった言葉が、涙となって零れる。
 感情を失った漆黒の両の瞳から、次々と涙があふれ出す。
 ジーノを抱きしめようとした両の手が、力なく下ろされる。
「チェザ……チェザ……」
 心を失い、ただ静かにジーノを見つめたまま涙を流すチェザ。
 呼びかけても、何の感情も示さないチェザに、ジーノも耐えきれず涙を流した。
 心を失った人形のように動かなくなったチェザ。震える手で、彼のマントを握りしめるジーノ。
 気持ちが追いつかないジーノに、廊下から足音が聞こえ、プティが慌てた様子で部屋に入って来た。
 そして、ジーノの姿とチェザを見て、「何ということを……!」と、二人に駆け寄る。
「今までにない魔力を感じて来てみたら、馬鹿なことを……!」
 頭を抱えるプティに、ジーノが混乱して再び涙を流す。
「チェザが……、チェザ……」
 流れる涙も止まってしまい、ただ無表情でそこに在るチェザ。ジーノはわけもわからず、プティに助けを求める。しかし、プティは首を横に振る。
「こいつの魔法は成功した。こうなっては、もうどうにもできん」
 感情を映さない黒の瞳は、ただ闇しかない。プティは、拳を強く握った。
 別れを拒否し、魔法でジーノを生き返らせる程だとは思わなかった。
「……古い魔法だ。俺も知ってるのは半分くらいだ。蘇りの魔法。死者蘇生。復活の魔法。呼び名はいくつもある。古くから知られている魔法だ」
 ジーノは、チェザが自分を生き返らせた魔法が、後に禁忌とされる魔法になるとは知らない。
 プティから魔法のことを知らされる。
 この魔法は、魔術師の心を代償に、死者を蘇らせるものだった。
 ジーノは言葉がでなかった。
「チェザは、自分の心を代償に、お前を蘇らせたんだ。しかも、お前が病にかからないように身体まで作り変えて若くした。相当、魔法を弄ったんだろう」
 魔法の代償が何かは、わかっていた。心臓の音がしなくても、この胸にチェザの心があるのがわかった。
 ジーノは、チェザに恋していた。でも、チェザは、ジーノを愛していたのだ。
 愛していたからこそ、ジーノの死を望まなかった。どんな形でも傍にいることを望んだのだ。
 チェザの愛を貰って、ジーノは蘇った。心を貰ってしまったのだ。
 ジーノは、涙も止まって無表情なチェザを抱きしめた。抱き返されることのないチェザの胸に顔を埋める。
 涙が止まらなかった。
 色々な複雑な気持ちを抱えたまま、ジーノはチェザを見つめる。もう最後の心であった涙は流れていない。
 ジーノは、心を宿していないチェザの漆黒を見つめながら、何があっても傍にいると胸にある鳴らない心臓に誓った。
 憎らしいくらいの朝陽。空の雲を割って、光が差し込んだ。

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