喉元過ぎればとはよく言ったものだ。非日常に終わりを迎え、日常へと戻ればあの一ヶ月のことは単なる思い出になっていた。考えても仕方のないことだからと、思考を放棄したからだろう。帰ってきた安堵や父と母に会えた喜びからほんの少し泣いたが、それだけだった。
勇作さんが寄越したタスクは結局何だったのだろうかと訝しみながらも、それも次第に忘れていった。
「音くんが来るのって今日だったよね?」
実家のリビングのソファーで寛ぎながらテレビを眺めていると、母がエコバッグを手に提げつつそう話しかけてきた。それに対して「そうだよ、授業終わったら来るってさ〜」と返答して、チャンネルを変える。
「こっち来てからお泊まり、初めてじゃない?」
「うん。東京に来てからは初めてかなぁ、ちょこちょこ会ってはいたけど」
言いながら、今日家へとやって来る人物を思い浮かべる。「音くん」というのは、父方の親戚である鯉登音之進のことだ。親戚といっても遠縁もいいところなのだが、十数年前に催された鯉登家のなにかの祝賀会にお呼ばれされ、出席したことを機に交流が始まった。今でもなぜウチが呼ばれたのかは謎らしいが、そこで幼き頃の音之進と仲良くなり、それからずっと付き合いがある。鹿児島から単身こちらへとやってきた音之進は、同い年ということもあり何かと馬の合う人物でもあった。感覚的にはいとこのようなものだ。たまに薩摩弁が長々と飛び出してくるので、なにを話しているのかわからない時もあるが。
そんな会話から約二時間後、授業を終えた音之進が家のインターホンを鳴らした。
「いらっしゃい」
「お邪魔しモス。これ、土産だ」
「気にしなくて良いのに、いつもありがと。わぁ、ケーキだ! あとでみんなで食べようね」
「ウン」
「音くんいらっしゃーい!」とキッチンから母の声が聞こえ、そそくさと挨拶に向かった音之進の後ろをついていく。話し始めた二人を尻目に冷蔵庫にケーキを入れると、続いて父が帰ってくる。
「音くん! 久しぶりだなぁ」
「お久しぶりです」
父も加わりしばらく話し込んでいたが、音之進に「部屋でゲームしよう」と声をかけると、彼はまるで雛のようにちょこちょこと私の後ろをついてきた。むぜ、である。リビングは父がテレビを見るので、音之進が来た時は大抵私の部屋へと移動することが多い。
「怜子は今日は何をしていたんだ? もう寝巻きを着ているが」
「ご飯食べてゲームしてテレビ観て風呂入ったよ」
「何もしとらんではないか! 大学は?」
「全休」
「ぐうッ……良い響きだ……」
「オイはさっきまで大学やったんに……ッ!」と恨めしげに言うので、「全休敗者は黙ってな」と笑ってやる。音之進は以前、全休が作れなかったと嘆いていた。大学生の宿命である。
音之進はビーズクッション、私はベッドの上が定位置で、大抵はゲームをしたり漫画を読んだり、家にいる時はそんな感じでダラダラしていることが多い。たまに一緒にお菓子を作っては「知り合いにも持っていく!」とにこにこしている。
「せからしかッ! というかそんなに脚を出していると身体が冷えるだろう! もっと暖かい格好をしろ!」
「オカンか? ねえそうそう、あとでホラー映画見ようよ。面白そうなやつリストアップしといたよ」
「絶対に嫌だが」
余談だが、彼はホラー映画が大の苦手である。
うふふと笑いながらベッドにうつ伏せになり、スマートフォンのゲームアプリを起動する。最近始めたばかりの、オンライン型対戦ゲーム。音之進も私も下手くそだが、その下手くそ加減が笑える要素の一つであった。
「……ん? なんかWi-Fiの調子悪い?」
「そうか? こっちは普通だぞ」
「うーん、ちょっと重いかも。たぶん音之進のせいだよ、お詫びとしてアイス奢りね」
「ないごて??」
まあしょうがないかな、と思っていたのも束の間。
誰かがポンと私の背を叩いた。すると、ふわりとかいだことのあるにおいが鼻腔をくすぐる。
しかしゲームが始まった途端、完全にフリーズした画面にそれどころではなくなってしまった。
画面中央ではぐるぐるとリロード中のマークが回転しており、私は悲鳴をあげる。
「か、かたまった! 完全にかたまった! たすけてオトノシーン!!」
「キッ、キャアーーーーーーッ!!」
……きゃあ?
野太いんだか甲高いんだかわからない悲鳴が聞こえたかと思えば、どたばたと音之進が激しく動く。――いや、音之進ではない。音之進の、声ではない。じゃあ一体誰が、と恐る恐る画面から視線を外した。
「……アシリパさんに……杉元さん……?」
「怜子……? 怜子なのか!?」
「ああああしあしあし!! 脚隠してえ〜〜〜〜!!」
なぜか床に転がって目を覆い隠す杉元さんに、考えるより先に掛け布団の下に潜る。一体なんでこの二人が、と思っていると、今いるのが自分の部屋ではないことにようやく気がついた。
ぐるりと部屋を見回す。ベッドが二つ並ぶだけの洋室はそう広くはない……一体ここはどこだろうか。
「私……私、自分の部屋にいたのに……」
「怜子、お前無事だったんだな。良かった。もしかして未来に帰れたのか?」
「うん……ねえアシリパさん、今何年? 私今、どこにいるの?」
「明治四十年だ、お前と分かれてから二ヶ月近く経っている。ここはホテルだ」
「二ヶ月……」
呆然としながらシーツをぎゅっと握りしめる。とりあえず、時間は進んでいるらしい。なんで私はここにいるのだろう、一度は帰れたというのに。
もう一つのベッドに座っていたアシリパさんがこちらのベッドに上がり込むと、杉元さんも立ち上がり、アシリパさんのすぐ横に腰掛けた。
「未来からきたというお前の話に対して、前は完全に信じ切れてはいなかったが……今回は信じるぞ。というか、信じざるを得ない」
「え……?」
「お前が現れるところを見た。何もない空間から、じわじわと身体が浮かび上がってきたんだ。まるで闇夜に雲間から月が覗いた瞬間のようだった」
アシリパさんの言葉に、杉元さんも頷く。どうもこちらのベッドに座っていたらしく、段々とベッドが沈み込むので違和感を感じていたようだ。それからアシリパさんが口をパクパクさせながら指を差すからなにかと思って振り返ると、寝転がる私がいたと。そういうことらしい。
最悪だ。訳も分からないまま、再びこちらへと連れてこられてしまった。そういえば、あの覚えのあるにおいは勇作さんのにおいだ。ということは、背中を叩いたのは彼なんだろう。今回も彼に連れられてやってきた、私の知らない勇作さん。令和の勇作さんではなく、恐らく明治にいるはずの勇作さん。
今度は、いつ帰れるのだろう。胃の中に石を詰め込んだかのような不快感から、腹を押さえて俯く。不幸中の幸いは、第七師団ではなく杉元さんたちのところに来られたことだ。彼ら――鶴見中尉からしてみれば逃げたも同然なのだから、次会った時に殺されかねない。
ふう、と溜息をついた時だった。
「怜子さんがね、未来から来たことはよく分かったよ。だけど一つ教えて欲しい。――第七師団の軍人を知っていたのはどうしてだ?」
びん、と空気が痛いほどに張り詰める。無表情の杉元さんから見え隠れする敵意に呼吸が詰まりそうだった。返答を間違えれば、殺されるのではないか――そう思ってしまう程度には、気圧されていた。
これは口頭で説明しただけでは納得しないだろう。ひとつ溜息をついて、圏外となったスマートフォンを二人に見せる。
「……写真、撮ったことある?」
「……は? 写真?」
「見せてあげるね」
写真フォルダをタップし、スクロールしながら百之助の写真を探す。
あ、これ映ってるな、と画面に表示した写真は、幼馴染二人と海に行った時のものだった。というか、休日になんとなく一人で遠出しようと思っていたところに、気づいたら二人がついてきていたというのが正しいが。海に入ったわけではないので、全員私服だ。そんなに前というほどでもないのに、懐かしく感じる。
ほら、この人だよ、と写真を見せてやると、二人は頭を寄せて小さな画面を覗き込んだ。
「な、なんだこれ!? こんなの見たことがないぞ!!」
「待て待て!! 写真って紙だろ!? この板なに!? それに色つきって……!!」
「この時代にはない技術だからね。私のいる時代では、これが普通なんだよ。……で、この人だけど」
指先で百之助を指し示す。未来のことについては、私の発言がどう作用するかもわからないので慎重になるべきだろう――そう考えて、興奮冷めやらぬ二人に話を区切り、本題に戻した。
「幼馴染の一人。杉元さんたちを襲ってきた男にそっくりじゃない?」
「……ああ、確かによく似ているな」
顔を間近で見ていた杉元さんが、スマートフォンを気にしつつも頷く。二ヶ月も前のことをよく覚えているな、と感心しながら、「彼は私のことを知らなかった」と呟いた。
「顔も声も、名前まで同じだった。でも私のことは知らないって……当然だよね、時代が違うんだから。別人なんだよ、本当に。全部同じなのに、……「誰だ」なんて、百之助は、そんなこと言わないから……だから反応したってだけで、あの人は私の知る尾形百之助じゃなかった。だから正確に言えば、私はあの人のことは知らなかったよ」
言っているうちに、気分がどんどんと沈んでいく。戻れたと思っていただけに、再びこちらへと飛ばされたことで不安感でいっぱいになってしまった。怖いし、帰りたい。
言葉を詰まらせた私に、ほんの少し眉を下げながらも、「それで」と杉元さんが促す。
「怜子さんはあのあと、どうしたの? すぐに帰れたの?」
「いや……尾形上等兵――襲ってきた軍人ね――を助けようとして共倒れに」
「ほらもおおおお!! すぐ死んじゃいそうなんだから気をつけなよ怜子さんは!!」
「いや〜〜ミイラ取りがミイラになっちゃったねえ」
「怜子はもっと力をつけろ! すぐに死んでしまう」
「アハハ……えそんなに??」
すぐ死ぬすぐ死ぬって、そんなにすぐ死にそうに見えるだろうか。顔を引き攣らせつつも、ファーストコンタクトが雪山での弱った姿だったからその印象が強いのかもしれない。
「まあ死ぬことはなかったよ。そのあとすぐに軍人が来て、第七師団に保護……というか、拘束されてね。なんか尾形上等兵の間諜仲間って疑われちゃって」
「怜子さんには無理だと思う」
「それはまあ(最終的にたぶんみんなにそう思われてたけども)……でもほら、あの人単独行動だったから、疑われるにはじゅうぶんというか」
「無理がある。ちょっと話しただけでもわかるくらい顔に出る」
「おい茶々入れないと気がすまない性格か??」
「怜子、早く続きを話せ」
「あ、ハイ」
杉元さんと若干の不和を残しつつ、切り替えて今までのことを話し始める。
二人のことは話さなかったこと。未来についても語らなかったこと。なぜか待遇はよかったこと。宇佐美上等兵の愚痴――等々、それまでのことをつらつらと語って聞かせた。そして気づけば未来に戻っていたということも。
「嘘つくのは苦手だから、二人のことはうまいこと避けて話したつもり。まあそれがどこまで通じたのかはわからないけど……鶴見中尉っていうかその部下たちには、次会ったら殺されるんじゃないかなって思ってる。裏切り行為だしね……腹の中は読めなくてもずいぶんと良くしてもらったし、罪悪感もあるな……まあそれは置いておいて。たぶんだけど、やっぱり金塊探しはするべきなんだと思う」
「それはなぜだ?」
「帰れることはわかってる。でもその手立てがない……一度は未来へ帰ったのに連れ戻された以上、この状況を解決するには、たぶん金塊探しが一番の近道だから」
それが、勇作さんの望みだと唯一わかっていることだ。
――だから、ついていっていい?
二人にそう問いかける。
「一緒に行こう」
悩むか、すぐさま首を横に振るか、どちらかだと思っていた私は、即座に頷いたアシリパさんに面食らった。どう考えてもお荷物なのに、と困惑していると、彼女は真っ直ぐに私を見て言う。
「帰る方法がそれしかないというのなら、お前はきっと私たちが何を言っても金塊を探そうとするだろう。そうなると、軟弱なお前はすぐに死んでしまう。場合によっては敵にもなり得る……怜子、私はどうしてもお前が悪いやつには見えないんだ。死んでほしくない。だから目的が同じなら、共に行くのも悪くはないだろう」
アシリパさんの言葉に心が追いつかないでいると、「それに」とアシリパさんは再び口を開いた。
「なんだろうな……お前を一目みた時から、会うべくして出会ったのだと、そう感じていたんだ」
▽
腰にシーツを巻きつけながら、ホテルの変わった廊下を杉元さんと歩いていく。ここ、札幌世界ホテルの女将さんに一人宿泊客が増えることを伝えるため、そしてあわよくば着る物を貸してもらうためである。
ずいぶんと入り組んだ、迷路のような廊下を黙って歩くのは些か居心地が悪い。アシリパさんはああ言ったが――杉元さんは何を考えているのか、わからなかった。
ちらりと斜め前を歩く杉元さんを見やる。歓迎されている気がしないのは、気のせいではないと思う。
「怜子さんはさ」
杉元さんは、前を向いたまま問いかけた。
「本当に金塊を探す覚悟はある?」
死ぬかもしれないよと、そう続ける。
「前回は何もしなくても帰れたんだよね? だったら、今回もどこかにとどまったまま帰れる日を待つほうが懸命だと思うけど」
「……それは……考えたけど。それでもやっぱり行かなくちゃいけないんだと思う。唯一のヒントは「刺青を追え、金塊に辿り着け、すべきことをしろ」だからね」
「前も言ってたけど、するべきことって? 怜子さんは何がしたいの?」
「なにをしなくちゃいけないのかがわからないから、行くべきだって判断した。全部全部、家に帰るためだよ」
「家に……」
正直に言えば、覚悟などない。これから起こりうる全てに対して実感などないし、きっとお荷物に違いない。――それでも、帰る手立てがあるならば、それを実行するに越したことはない。
「どうしてもついてきてほしくないって言うなら、それはしょうがない。置いていって良いよ。でも、金塊探しはやめない」
「……やめてくれないんじゃ、説得する意味もねえな。自暴自棄になられても困るし」
「なんでやめさせたいの?」
「そりゃあ、怜子さんが一般人だからさ。怜子さんが死んだって俺たちには関係ないよ。ないけど、死なれたら寝覚めが悪いんだよ。黙って見過ごせないだろ」
「そういうの、お人好しって言うんじゃない。……でも、ありがとう」
うん、と小さく頷いた杉元さんに、笑みを浮かべる。突き放すような言葉も使うが、結局のところは優しさから生まれる言動なのだ。私を連れていくだけ動きづらくなるというのも、もちろん理由の一つではあるだろうが……それでも十分すぎるほど優しい。
それにしても歩きづらいな、と思いながら巻きつけたシーツに手をかけると、慌てた杉元さんが「取っちゃダメ!!」と鬼気迫る勢いで怒鳴った。
「なに? なんで駄目なの?」
「だって!! 破廉恥だろ!! ああああんなに脚出してたら!!」
「……そうなの?」
「……えっ、そうでしょ?」
何言ってるの? と不思議そうな表情を浮かべる彼に、時代による価値観の違いだろうかと一人納得する。令和では脚も出せば肩も出すし、なんなら腹も出す。それが抵抗なく受け入れられる時代である。まあ、人によっては下品だと感じることもあるだろうが。
仕方がないか、と思いつつ、シーツを押さえながら進んでいく。郷に入っては郷に従え、というか……
「入り組みすぎじゃない? ほんとにただのホテル?」
「古いから改築を繰り返したって言ってたかな、確か」
「ふうん、改築するにしても面白い内装だねぇ」
結局女将は見つからずじまいだったので、部屋へと戻ることにした。