尾形上等兵が脱走してしばらく。鶴見邸で女中さんたちのお手伝いをしながら、書庫の掃除と整理を進めていた。
結局、勇作さんのことはなにも聞かなかった。いや、聞けなかった、というほうが正しいかもしれない。魘されながら彼の名を呟く尾形上等兵を見て、怖気付いてしまったのだ。
尾形上等兵の離反とはまた別件で、宇佐美に長期任務が入り、しばらくは顔を出さないと本人から聞かされたのはつい一昨日のこと。月島軍曹ともずいぶんと長いこと会っておらず、本格的に刺青人皮集めに乗り出しはじめたのか、誰も彼もがぴんと張り詰めていた。鶴見中尉でさえ、もう何日も戻って来ていない。私に人員を割く余裕もなさそうだ。逃げるなら今、とも思ったが……こっそりと屋敷を抜け出したはいいものの、当てにしていた伝手が行方を眩ませた。一体どこをほっつき歩いているのか……これだから口約束は信用ならない(差し出せるものがないのが悪かった)。伝手がいなくては刺青人皮など探し出せやしないのだから、困り切ってしまった。
そんな訳で伝手を探しつつ、誰も手をつけたがらない書庫の掃除を買って出たのである。書庫は一階、窓もあって、昼食時に顔を出せば書庫まで様子を見に来る人はいなかった。
着々と広い書庫の中を綺麗にする。この時代の本の分類なんて分かったものではないが、女中さんが丁寧に説明してくれたおかげである程度は仕分けられた。埃をかぶっているものもあるが、どれも保存状態の良いものばかりだ。
「鶴見中尉は勤勉な人だな」
ここにある書物は日本のものだけではない。文字の形から察するに、ロシア語だろうか。ところどころ海外のものも混じっていて、それを捲ってみても私にはなにもわからない。
背の高い本棚にぎっしりと詰まった書物が音を吸って、しんと静まり返る。すんすんと鼻を鳴らせば、紙の匂いが部屋中に充満していた。まるで図書館みたいだな、と窓際に設置された椅子に腰掛ける。ここで本を読むのだろう。同じく設置されたアンティーク調のテーブルにはたきを置く。まだ寒さは厳しいが、動き回っていたこともあり、しっかりと着込んで日の光に当たっていると、じんわりと暖かくて眠たくなってしまう。少しだけ、と腕を枕にして、目を瞑った。
パチパチ、と小さく爆ぜるような音がする。ひどく落ち着く音だ。それを微睡の中で聞いていると、がた、と誰かが向かいの椅子に腰を落ち着けた。
「――驚いたな。君、幽霊なのかい」
聞き覚えのない声に勢いよく顔を上げる。すると目の前には頬杖をついたいつかの青年がいて、私が突っ伏していたテーブルのすぐ側にはあの不思議な形をした暖炉がある。ここはそう、確か――ウラジオストクだ。
「うっ、うそ、さっきまで北海道に……!」
驚きのあまり立ち上がると、言い切らないうちに椅子を巻き込んで転倒する。やはり夢ではなかった、ここもまた、私が迷い込んだ現実だったのだ。
大丈夫かい、と差し出された手を取ると、青年は驚いた表情を浮かべて「あれ、掴めるのか」と言う。彼の中では、私は幽霊なのだろう。
「なっ、なんで……? なんで私、ここにいるの……?」
「とりあえず座ったらどうかな? 何か飲み物は?」
「いや……大丈夫です……」
言われるがままに倒れた椅子を起こし、どすんと座る。青年も同じように向かいに座ると、湯気がほのかに立ち昇るカップを持ち上げ、口をつけた。
「あの……とっても不審かもしれないけど、不審者じゃないです」
「フフ、分かっているよ。目の前で煙のように消えたり、何もないところから現れるなんて、ただの人間にはできない芸当だろう」
「それはそう。私もびっくりしてますけど」
「見ての通りだね。君は……どうかな、幽霊なのか、それとも私が見ている夢なのか」
「……でも、手は掴めた」
「そうだね、実体があるようだ。なら、益々不思議だな」
と、言う割には落ち着いており、彼は肩をすくめておどけてみせた。飄々とした話ぶりに柔らかな物腰、私という不確かな存在に笑みすら浮かべる、どこか掴みどころのない青年。
「それに、とても不思議な格好をしている」
「不思議? ……うわッ着物じゃない!? ダウンジャケットも中の服も取り上げられたのに……それにお菓子! あ、いくつかなくなってる……あの二人が食べたのかな」
青年に指摘されて気づいた。私は今、明治時代の北海道へとやって来た時の格好をしている。
もうよくわからないな、と参っていると、青年はそれで、と話を切り出した。
「君は一体どこからきたのかな?」
「どこから……。そう、そうね」
未来から――かな……。
冗談めかしてそう呟くと、目の前の青年は笑みを取り払って押し黙る。悪手だ。どう考えても悪手だった。これではますます不審者だ。杉元さんとアシリパさんがちょっと変だったのだ、未来から来たと言って「なんかそうかもって思えてきた!」みたいな能天気な返答をするなんて。
「や、やっぱなんでもない。ウソウソ、なんでもないです」
「いや……信じがたいことではあるが、君、急に現れたり消えたりするから、おかしなことではないな。だから身体が存在しているんだな? 興味深い」
「未来から来た」と言った言葉を、彼は妄言とは捉えず、ほんの少しの好奇心を覗かせた瞳でこちらを見つめる。先ほどよりも身を乗り出す仕草に驚きつつも、こうもすんなり信じてもらえるものだろうかと疑問に思った。確かに突然出たり消えたりしたものだから、私自身説明のつかない怪奇現象だろうが……あまりにあっさりしすぎているような気がした。
「良かったら、君のことを聞かせてくれるかな」
頬杖をつき、優しげに笑む姿はなんだって受け入れてくれるのではないかと思わせる包容力がある。
何から話そう、と口を開こうとして、まだお互いに名乗ってもいないことに気付かされた。
「……あの、私、九重怜子といいます。お名前聞いてもいいですか」
そう問いかけると、青年は何度か瞬きをして、それから「これは失礼」と眉を下げた。
「そうだ、名乗っていなかったね。私の名前は長谷川幸一という。よろしく……怜子さんと呼んでも?」
「あ、はい」
「フフ……歳もそう変わりなさそうだし、怜子さんもそんなに畏まらなくていいよ」
「えっと、それじゃあお言葉に甘えて。……幸一くん、お子さんいるの?」
あれ、とベビーベッドのようなものを指差す。つられて視線をそちらへと向けた幸一くんは、頬杖をついたまま「ああ」と答えた。
「娘がね。今は妻と出かけているけれど」
「娘さんか。いいな、私あんまり赤ちゃんと触れ合う機会がないから羨ましい」
「そうなのかい? 帰ってきたら抱いてみる?」
「いいの? ……いやでも、赤ちゃん抱っこしたことないから不安だなぁ……奥さんのこともびっくりさせちゃわない? 知らない人が家にいたら」
「そこはうまく説明しておこう。大丈夫、抱き方なら教えてあげる」
幸一くんは初対面とそう変わらない私に対して、とても親切だった。私の話を聞いたり、質問には丁寧に答えてくれたり、結構な時間を話して過ごしたと思う。話の中で、ここが写真館であることも知った。父親と共に日本から渡り、知り合いの写真館を譲り受けたのだという。そしてここは明治時代ではあるものの、北海道にいた頃よりも十五年以上は前であることがわかった。一体ここに来たのはなぜだろうか、と頭を悩ませる。
「怜子さんのいた時代はどんなふうになっているんだろう。平和かい?」
ふいに、彼の雰囲気が変わったような気がした。幸一くんは薄らと笑みを浮かべたままだったから、私の勘違いかもしれないが。
答えても良いものか、答えるならばなんと言うべきか――少し頭を悩ませる。確信的なことは話せないが……少なくとも平和かどうかくらいは、教えても問題ないはずだ。
「……死は程遠いと、勘違いできるくらいには」
本当に現状平和かどうかと聞かれると、答えるのは少し難しいが。
幸一くんはじっと私を見つめながら、「……そうだといいなァ」とだけ答えた。表情には変化が見られなかったが、先ほどよりも柔らかな声だった。これから大きくなっていく娘や生まれるかもしれない孫を思ってのことなのだろう。私がいるのは百年以上先の時代だが、なんとなくそれは伏せておいた。
ガチャ、と遠くでドアの開く音がする。トントンと床を踏み鳴らす足音に、赤ん坊の泣き声。奥さんと娘さんだ。「帰ってきたみたいだ」と幸一くんが立ち上がって、挨拶をしようと私も腰を上げた。
▽
「ねえちょっと聞いてんの? どっか行くなら起こせって言っただろ!」
「……え?」
呆然と立ち尽くし、目の前で額に青筋を浮かべる宇佐美――ではなく、幼馴染を見つめる。なぜ時重がウラジオストクにいるのだろうか?
振り返ると、見慣れた玄関ドアが視界に飛び込む。先程まで幸一くんと二人囲んでいたテーブルはなく、あの暖炉もない。なにより目の前にいたはずの幸一くんがいない。
幸一くんはどこへ? 奥さんが帰ってくるから挨拶しなきゃって、それで立ったはずだ。だというのにここはウラジオストクの長谷川写真館ではなく、見慣れた時重の家で……。
――帰ってきた?
「……時重」
「なに」
「私、どれくらいの間帰ってこなかった?」
「怜子が行ったのそこのコンビニでしょ? 十分くらいじゃない?」
「十分!?」
たったの十分? いや違う、そんなはずはない。私はあの時、白銀の世界に置き去りにされる直前、この家に戻ってきたはずだ。そうだ、確か鍵を開けた。手に鍵を持っている……いつの間に?
そう、それで……私は、一ヶ月以上は北海道にいたはずだった。
混乱する思考に[[rb:頭 > かぶり]]をふって、小さな声で「ただいま」としぼりだす。夢、だったのだろうか。まったく、と鼻を鳴らしながらも、「お帰り」と時重が返してくれた。ここにいるのは、宇佐美上等兵ではなく私の幼馴染だ。安心する。時重の服の裾をきゅっと握りしめれば、不思議そうな表情を浮かべて首を傾げた。
リビングでは、ソファーを背もたれにした百之助がテレビをつけてぼうっと眺めている。その顎にある縫合痕は、彼が高校生の頃、事故に遭った時にできたものだった。
百之助がこちらを見、手に下げたビニール袋に気づくと、にまりと笑みを浮かべた。
「お帰り。怜子、菓子は何買った?」
「ただいま。百之助の好きなやつちゃんと買ってき……てないわ、ごめん」
「嘘つきめ。嘘は泥棒の始まりというだろう」
「そんな言う??」
百之助が適当なことを言って責めるので、それを聞き流しつつも物思いに耽った。――いつもなら、必ず買っていたそれがない。とはいえ一ヶ月は前のことだ、買ったものなど覚えていなかった。あの二人が食べたと、証明ができないのだ。二人は夢の中の人、だったのだろうか。
ふと、レシートはどこにやっただろうかと思い返す。
財布は持っていかなかった。不用心だが、電子マネーのカードを剥き出しのままポケットに入れて運んだのである。流石に捨てたかな、と思いつつダウンジャケットやジーンズのポケットを探ると、ぐしゃりと丸まった紙が出てきた。
「……あった……」
「は? なに? なんでもいいけど早くリゾット作って。約束でしょ」
「はいはい」
キッチンにお菓子とチーズの入ったレジ袋を持っていくと、さりげなくレシートの内容とお菓子を確認していく。ついでに食べられるかどうかも。賞味期限は問題なさそうだ、チーズもまあ、使えるだろう。
そして、確認し終えた私は静かにしゃがみ込んだ。私は確かに、百之助の好物を買っていたのだ。深く溜息をついて、両手で顔を覆った。
「……杉元佐一も、アシリパも……夢の中の人じゃなかったんだ」
存在していた。あの時代に、あの二人は、知り合った人々は。鶴見中尉も、鬼軍曹も、幼馴染とよく似た上等兵たちも、気さくだったり文句が多かったりした一等卒たちも。伝手として頼ったあの男も。
なら――あの人は? 結局、私のところへは一度だって姿を現さなかった、私を向こうへと連れ去った張本人。
すっと立ち上がって、キッチンから百之助目掛けて人差し指を突き出した。
「百之助! 勇作呼んで!!」
「はあ? 勇作さんを……? 急すぎるだろう。というかお前、あの人のことそんな呼び方してたか?」
「いいから!! 私がご飯作る間に呼んで!! 勇作のだけ唐辛子パウダーましましにするから!!」
「あの人辛いの駄目じゃなかった? 何その嫌がらせ。怜子、勇作さんと喧嘩でもしたの?」
「何があったか知らんが、勇作さんなら海外出張中だぞ。しかも携帯を便所に落として、完全にイカれたらしくてな。忙しいのも相まって、しばらくは連絡を取るのも一苦労だと」
「ドジっ子勇作め……」
こんな時にドジを発動させなくてもいい、と苦い表情を浮かべる。それも海外出張中だなんて、間が悪すぎる。
そもそも、勇作さんだけ最初からずっと異質だった。あの勇作さんがあの時代の人間だというなら、ここにいたのはおかしな話なのだ。それに私を連れていったわりにはそれきりで、向こうで会うこともなかった。だから、こちらの勇作さんに話を聞けばなにかわかるかもと、そう思ったのだが……どうもそう上手くはいかないらしい。今は帰ってくるのを待つしかない。
「百之助、勇作さんが帰ってきたら私を訪ねるように言って!「お話があります」って」
「よく分からんが恨みは深いらしいな。まあ伝えるだけ伝えておいてやる」
百之助の言葉に満足して、昨日のお鍋を火にかける。リビングでは百之助が私を指差して首を傾げ、それに対し時重が肩をすくめて顔を見合わせており、「なんか馬鹿にしてるのは伝わるよ!」とおたまを振り上げた。
「まあまあ、怒るなよ怜子。僕、お腹すいちゃったなぁ」
機嫌をうかがうようにキッチンまでやってきた時重が、私の顔を覗き込んで頬を突く。完全に不貞腐れた子供を相手にする態度で腹立たしいが、大きく溜息をついて「大人しく待ってなさい」と告げると、彼はにっこりと笑った。
そのまま、私の肩口に鼻先を近づけると、すうはあと息を吸い込んだ。
「怜子のにおい、安心する」
「ハイハイ」
変な香水とかつけるなよ、お前が香水を選ぶ時は僕が監修するからな……などとプロデューサーのようなことを言い始めたので呆れ返る。しかも自分で買う気満々で、思わず「そうやって甘やかすの、よくないと思う」と苦言を呈した。歳は離れているので、幼馴染といえど彼らからすれば私は子供に見えるのかもしれない。複雑である。
「ははぁ、怜子本人に言われちゃ終いなんじゃねえのか、宇佐美よ」
「百之助は黙ってろよ。僕が好きでやるんだから文句言うな」
チッ、と盛大に舌打ちをして、私の髪を一房持ち上げると再び鼻をひくひくと動かした。
「でも、このまんまのにおいがいいなあ」
時重の行動に、上等兵たちの姿が瞼の裏に浮かぶ。同じ顔、同じ声、同じ口癖に同じ仕草。あの二人はどうしているだろうかと考えて、いや、もうとうの昔に死んでいるのだったと思い直した。彼らが生きていたのは、百年以上も前のことなのだから。
しばらくすると時重はリビングへと戻り、百之助と共にテレビを眺めながら何事かを話していた。そんな二人から視線を外し、鍋に入れた米を掻き回しながら、金塊のことを考える。
私はてっきり、勇作さんの示した「刺青を追って金塊へと辿り着き、すべき事をせよ」のタスクを熟さなければならないのだと――そうでなければこちらへ戻ってこれないのだと思っていた。しかし実際にはそのようなこともなく、私が金塊探しに乗り出す前に帰還と相なった。なら、勇作さんのあの言葉は? ……もうよくわからないが、帰ってこられたのだからそれでいいか、とひっそり溜息をつく。どれほど疑問を持とうとも、今ここで答えてくれる人はいないし、唯一の手がかりである勇作さんでさえ連絡がつかない。
なんにせよ、もう私には手の出しようがない話だった。あとは勇作さんをのんびり待って、そのうち話が聞ければいい。もしそれで私が知りたい答えを持っていなかったのなら……その時は潔く諦める他ないだろう。
ふと、幸一くんとの出会いに対して疑問を抱いたのだが、ぐつぐつと煮えた鍋を見ていたらすっかりと忘れてしまったのだった。