あのあと、女将さんがたまたま部屋を訪ねてきたために宿泊客が一名増えることと、着物や下駄を借りることができた。女将さんは私の存在に「まあ」と驚いていたが、すぐに笑みを浮かべて歓迎してくれた。優しいはずの眼差しが、どことなく粘着質な蛇を彷彿とさせるのは私の気のせい、なのだろう。

 着付けは鶴見邸にいる間に覚えた。部屋から杉元さんを追い出し、テキパキと着付けを進める。パジャマはベッドの上に放置した。

「怜子の着るものもどうにかしないとな」
「軍服が一番楽なんだけどねえ。お金稼がないとだな……なにかいい方法ないもんかなぁ」

 思い浮かぶのは路上ライブだが、楽器なんて高価なものだろうし、そもそも私はリコーダーくらいしか使えない。あとはアカペラで歌を歌うか……それは少しハードルが高い。

「コインマジックでも披露してみせるかな……」
「こいんまじっく?」
「あとで見せてあげるよ、拙いけど」

 マジックだったら楽しんでもらえるかも、と昔通っていた保育園の副園長さんを思い浮かべる。保育園は近所にあるため、今でも会えば「大きくなったねえ〜」と声をかけてくれるのだ。彼は気まぐれにマジックを教えてくれることがあるので、コインやトランプを使ったマジックは幾つか披露できる。
 まあマジックなら物珍しいだろうし、立ち寄ってくれる人はいるだろう。旅に出るっていうならやるだけやってみるか、と思いつつ着付けを終えると、ちょうど扉越しに杉元さんが「怜子さーん、着替え終わったー?」と声をかけてきた。

 返事の代わりに外へと出ると、杉元さんの後ろにもう一人男性が立っている。服装を見るに、アシリパさんと同じアイヌの人だろう。ぺこ、と頭を下げて「初めまして」と挨拶をする。彼は目を見張っていて、まあいきなり知らない女がアシリパさんたちの部屋から出てきたらそれは驚くだろうな、と一人納得した。

「キロランケ、彼女は俺たちの知り合いの怜子さん。怜子さん、こっちはキロランケ、アシリパさんの父親の友人だ」
「九重怜子です」
「キロランケだ。よろしくな」
「彼女も同行することになった」

 そう告げた杉元さんに、キロランケさんは訝しげな表情を浮かべる。一体なんのために、とこちらを向いた彼に、苦笑しながら「知り合いの行方を追っていまして」と答える。この場合、知り合いというのは勇作さんのことを指しているので、あながち間違いでもなかった。

「なるほどな……それにしてもアンタ……」
「え?」
「いや、なんでもない」

 んん……? と首を傾げたキロランケさんに、同じように首を傾げる。杉元さんの「白石は?」の言葉に、気を取り直したように「女将を探しに行ったぞ」と答えたので、私もそちらに気を取られていった。

「シライシ?」
「もう一人いるんだ、連れが。まあいいか、メシ食いにいこうぜ。そのうち帰ってくるだろ」

 いいんだ……と思いつつロビーまで降りてきたところで、ずいぶんと背丈の高い――というか色々と規格外な体格の人物と出会した。デカいな、現代でも滅多にお目にかかれないデカさだ、と内心思っていると、アイヌ二人が「シンナキサラ」と呟いた。

「なに?」
「しんなき?」
「シンナキサラ、アイヌの言葉で「変な形の耳」って言ってるのさ。……それは柔道耳ってやつだ」

 変な形の耳とは? と思っていると、アシリパさんが簡単に説明をしてくれた。アイヌと和人だと耳の形が若干違うらしい。へえ、と思いながらアシリパさんの耳を眺めていると、急に杉元さんと柔道の人が取っ組み合ったのでぎょっとして目を見張る。一体何がお互いの癇に障ったのかと思っていると、どうもそういうことではないらしい。相手の力量を推し量っているようだった。

「このままでは殺し合いになる」

 なんでそうなるの……?

「こんなに強い奴ははじめてだぜ。気に入った……おごってやる! 飲みにいこう」

 良くわからないまま一緒にご飯を食べる流れになった。武闘家の人が考えることはわからないなと思いつつ、「シライシさんは?」と聞くと皆一様に「いい、いい」と首を振った。「どうせまだ女の尻追っかけてるさ」とキロランケさん。

 やってきたのは洋食屋さんで、なんとカレーライスが食べられるのだという。カレーライスが普及したのは一体いつ頃なのだろうかと思いを馳せながら、エゾシカ肉が入っているらしいと聞き物珍しさに目を見開く。鹿肉のカレーを、早速ぱくりと口に運んだ。

「おいしい!」
「そりゃあ良かった。……ところでお嬢さん、名前は怜子さんと言ったかね」
「はい! 九重怜子と申します」
「なるほど、お嬢さんにお似合いの可憐な名前だ。怜子さん、今日は先約があるが……いつか一晩中君の名前を囁いてみたい」

 一瞬何を言っているのかわからずに首を傾げてしまったが、お誘いだと気づいて顔から火が噴き出てしまいそうになる。ストレートな物言いにしては下品さを感じず、手で顔をあおぎながらもごもごとお断りの言葉を口にした。

「えーと……すみません、心に決めた人がいるので」
「好い人がいるのか。残念だ」

 引き際もあっさりとしていて、初めての経験にちょっとだけドキドキしながら気まずさにみんなの方へと顔を向けると、アシリパさんがすごい顔でカレーを見つめていた。

「オソマ……」
「アシリパさんそれ「食べてもいいオソマ」だから」
「おそま?」
「ウンコのことだよ」
「よりにもよってウンコ……」

 キロランケさんがカラカラと笑いながら教えてくれて、なんとなく食べる手を止めた。私には見慣れたものだから全然そういうふうには見えないが、今まで知らなかったというなら見え方も違ってくるのだろう。スプーンでご飯ごとすくいとり、口に運ぶ。柔らかい鹿肉とスパイスの効いたカレールーは、令和のレトルトとはまた違ったおいしさがあった。
 思い切ってカレーを口に含んだアシリパさんは、先程の深刻そうな表情から一変して頬を染めていた。口に合ったようだ。

 ビール飲み比べを始めた彼らを尻目に、ちゃっかりとビールを頂いているとアシリパさんが飲んでいることに気づいてぎょっとする。いいのかこれ、と思いつつやんわりと「アシリパさんお水飲みな?」とグラスを渡すも、すっかりと出来上がっている彼女は「みんな手伝え!」と言って紳士の額にある厚い皮膚を掴み上げていた。

「アシリパさんおやめなさいって!」
「アシリパさん、離し……離……こらアシリパ! メッ!!」

 アシリパさんをなんとか引き剥がすと、話はなぜか男性器のことに移り変わる。そこで私はアシリパさんが杉元さんのそれを見たことがあると知って、勢いよく彼の方へと顔を向けた。相当すごい顔をしていたのだろう、杉元さんは慌てて「違うから! 成り行きで!! 海に飛び込んだから!!」と叫んだ。

 お店を出、大柄な紳士……もといチンポ先生にお礼を言ってホテルの部屋へと戻る。私はアシリパさんと同じベッドで寝ることになり、キロランケさんとは別れてアシリパさんを背負う杉元さんの後をついていった。
 杉元さんはちらちらと何かを気にするようにこちらを見ては視線を逸らしており、一体なんだろうかと首を傾げる。帰る途中ずっと、なんならカレーを食べている最中もこんな反応をしていた。部屋に入り、ベッドにアシリパさんを寝かせた彼は、おもむろに銃剣を取り出すと「ここつっかえ棒しとくね」と言って扉に立て掛けた。

 用心深いな、と思っていると、杉元さんがすっと私の両手をとる。手をぎゅうと握られ、呆気に取られていると杉元さんは頬を染めて恥ずかしそうに俯いた。

「俺、怜子さんのお話聞きたいな……」
「お、お話? なんの?」
「恋の……」
「恋の!?」

 思いもよらない言葉に大きな声を出すと、慌てた様子の杉元さんが「しーっ! しーっ!」と口元で人差し指を立てる。パッと口元を覆ってアシリパさんのほうを見ると、気持ちよさそうに寝ていたので二人してほっと胸を撫で下ろした。杉元さんに手を引かれて彼のベッドに並んで腰掛けると、キラキラした瞳で見つめられて困惑してしまう。恋のお話? なんでまた急に。

「怜子さんが「心に決めた人がいる」って言ってたから……」
「ああ……」

 先生との会話を聞いていたらしい。私にはお誘いの方が衝撃的だったわけだが、杉元さんはそれよりも心に決めた人に食いついたようだった。

「杉元さん。心に決めた人がどんな人かって、私は滅多に口には出さないようにしてるの」
「ええっ!? どうして!? お話聞きたい!」
「だって、その人の魅力は私だけが知っていたらいいと思わない? 周りの人が知ったら、特別感が薄まっちゃうよ」

 そう言うと、杉元さんはボフンとベッドにダイブしながら「ズルい!! そういういじらしいこと言って!! 恋する乙女じゃん!!」ときゃいきゃい喚いた。はは、と笑って眺めながら、乙女は杉元さんの方だろうと思ったが口には出さず。

 杉元さんがただの乙女ではないと思い出したのは、その晩のことだった。


▽


 ぎしり、とベッドがしなって、うっすらと目を覚ます。音之進だろうか。泊まりにきた翌日は、彼に朝叩き起こされることが多かった。

「(――あれ、いや、違うか。今、北海道なんだった)」

 じゃあ誰だろう、と瞼を持ち上げる。

 アシリパさんの目玉に舌を伸ばす、女将の姿があった。

「ちょっ――」

 声を上げると同時に、女将の顔が勢いよく逸れていく。何事かと思えば、額に青筋を浮かべた杉元さんが足を振り上げており、彼が奇行に走った女将を退けたのだと理解した。あんな敵意と暴力を向けられればひとたまりもないな、と吹き飛んだ女将の方へと身体を動かそうとして、ずいぶんと気だるいことに気がついた。薬でも盛られたのかもしれない、と思ったのは、痛みどめを飲んだときの副作用と症状がよく似ていたからだ。

 女将の正体は刺青の囚人だった。他人を拷問し、その肉を食らう食人鬼で、なんと老齢の男性なのだという。他人の身体など手に入りはしないのに、それが若さと美しさと強さを保つ唯一無二の方法だと信じた医者。

「襲われる側はたまったもんじゃないなぁ……」
「フフ……老いを克服してずっと美しく、そして強く在るためだもの。貴女もきっとそうするわ、髪の美しいお嬢さん」
「……若さだけが美しさとは限らない。なにをもって強いとするかもね。千差万別ってやつでしょ」

 一瞬訝しげな表情を浮かべた女将は、しかし「自己暗示だろ」と一蹴した杉元さんへとすぐに意識を向けた。
 女将がなにかをこちらへと放り投げる。放物線を描いて落下してくるそれが注射だと気づいた時、無意識のうちに身体が動いた。身体の気だるさよりもなによりも、目の前の子供を守らなくてはと、そう思ったのだ。

 痛みを覚悟したものの、一向に訪れる気配のないそれにそろそろと身体を起こす。注射器が刺さったのは私ではなく、杉元さんの手のひらであった。ぶっすりとささるそれに身が縮む思いをしながら、女将が逃げたと叫ぶ杉元さんを見つめた。

「杉元さん手が……!」
「言ってる場合か! 逃げちまう! 怜子さんはアシリパさんのことお願い!」

 一目散に駆け出した彼の背中を呆然と見つめること数秒、すぐにハッとしてアシリパさんを抱き上げる。四苦八苦しながらもなんとかアシリパさんを背負ったところで、キロランケさんが「アシリパ!」と叫んで部屋の中へと入ってきた。

「無事か二人とも!」
「きろきろ、キロランケさん! アシリパさん起きない! 女将が人食ってて杉元さんが追っかけた! 刺青が! 囚人が!」
「落ち着け、言いたいことは何となくわかった。女将が刺青の囚人で、それを杉元が追いかけていったんだな?」
「そうそうそれ!」
「よし、アシリパは俺が運ぼう。お前は大丈夫なんだな?」
「大丈夫! 荷物運びます!」
「任せた、無理はするなよ」

 杉元さんの背嚢を背負い、部屋を出たところで、慌てた様子の杉元さんがアシリパさんを受け取って抱え直しているのが見てとれた。大事なさそうだ、とほっと胸を撫で下ろす。杉元さんが負けるとは思えなかったが、それでも相手は凶悪な囚人で躊躇なく他人を殺せる相手なのだ。正直現代でも滅多にお目にかかれない程度には残忍なのではないだろうか。

「ああああ怜子さんありがとう! 荷物それ以外なぁい!?」
「全部持ったよ!」
「よし、逃げよう! 地下で火事が起きてる!!」
「え!? なにそれ聞いてない!!」

 ほんとに聞いてない。キロランケさんも険しい顔をしながら荷物を取りに戻り、それを待って撤退し始める。ぐねぐねと入り組んだ廊下を進んでロビーへと降りていくと――階段上で鉢合わせた坊主頭の男性が、大きな声で「逃げろ」と叫んだ。

「爆薬を袋ごと火の中に落としちまったッ!」

 爆薬、火の中に、死ぬやつそれ。
 そもそも爆薬って、という疑問を抱くより前に危機感が働いた。「早く降りて降りて降りて!!」と前の二人をばしばし叩くと、その直後に図ったかのように階段がつるりとした坂に早変わりする。支えをなくし、尻を強かに打ちつけながら階段だった場所を滑っていく。お約束とばかりにタライまで落ちてきた。

「いい加減にしろ! ドリフじゃねーんだぞ!!」
「どり……?」

 言いながら外へと出た瞬間、大きな爆発音とともに建物が倒壊した。奇跡的に吹っ飛ばされることはなかったが、これに巻き込まれていたらと思うとゾッとする。

 全員真っ黒で満身創痍な中、坊主の人が「……誰その子……?」と呟いた。

「チンポ先生は? まだ出てきてない!」
「今更だけど十代前半の女の子にこんなワード使わせてよかったのかな……大人の私がしっかりしなきゃ……」
「わーど?」
「言葉って意味」

 アシリパさんはハンペンを手に取り、チンポ先生に思いを馳せているらしかった。なんでそんなところに落ちているんだという疑問はひとまず置いておき、チンポ先生……もとい、不敗の牛山(と、いうのだそう。彼も囚人だったらしい)の安否も確認できないままその場を去る。爆発に驚いた人々が、集まり始めていた。警察が来るのも時間の問題だろう。

 退散する最中、坊主頭の人とようやく挨拶ができた。彼が白石さん、らしい。「付き合ったら一途です」とキラキラした瞳で言われたが、直後にカァンといい音が響いて白石さんががくんと崩れ落ちた。

「白石! 怜子にちょっかいかけるな!」
「えっ、なになに!? なにそれ? 白石さん大丈夫?」
「優しい……」
「ストゥ、制裁棒だ」
「そんなのあるの……」

 向こう脛を打たれたらしく、地面でもんどりうつ白石さんを起こすと「クゥン」と鳴いた。なんというか、憎めない人だ。

 その晩、私たちは別の宿屋に宿泊した。翌日牛山さんと女将を探しに再びホテルへと足を運んだが――結局姿は見つからず。どちらも囚人だったというから、写しがとれなかったのは悔しい結果と言えるだろう。とはいえ生きているならばまた会うこともあるはずだ。その時に写しをとらせてもらえるよう頼むしかない……そう簡単にことが運べるとも思えないが。

 カサ、となにかが乾いた音がする。

 アシリパさんが哀愁漂う表情で乾ききったハンペンを見つめていた。

「ふたりとも無事避難できたかもしれないな」
「そのハンペン捨てなさいよ?」
「アシリパさんそれ牛山さんじゃないから」