声も顔も、私の知る尾形百之助と何ひとつ変わらなくても、たとえ睫毛の一本たりとも違わない形をしていようとも……彼は、私を突き放すような言葉だけは冗談でも言わない。そうと断言できるのは長年の付き合いの中で重ねた信頼ゆえだ。だから目の前にいる男は、少なくとも私の知る百之助でないことだけは確かだった。

 ではこれは、と場に合わず考え込みそうになったところで、杉元さんの視線が鋭く突き刺さるのを感じた。

 思わず怯んで、一歩後ずさる。そりゃあそうだろう、なんせたった今、殺し合いを演じた相手の名を私がさも親しげに呼んだのだ。杉元さんからしてみれば、敵以外の何者でもない。助けてやった女が、「未来から来た」と宣っていたはずの女が敵の名を呼ぶのだから、そんな顔にもなるだろう。

 ほんの少し、生まれた隙を、倒れ伏した男は見逃さなかった。

「痛ってぇ!!」

 杉元さんの両目を突いて身を捩り、そのまま走り出す。微かに「この状況で「不死身の杉元」は手に負えん。片腕だけに」と聞こえてきて、よくも腕一本を折られておきながらそんなブラックジョークが言えるものだと呆れ……そんなところもよく似ていると、そう思った。

 だから、その男が昏倒し斜面を滑り落ちた時、思考するよりもまず身体が先に動いた。
 下は川になっていて、とてもじゃないが飛び込むことはできない。

「降りなくちゃ……!」

 正直生きているのかもよくわからないけれど――それでも、助けに行かない理由にはならなかった。

 川沿いに降りられそうな場所を探すために、雪に足を取られながらも走り出す。アシリパさんの声が私の名前を呼んだような気がしたが、それに返答する余裕もなかった。

 やがて不安定ながらも足場になりそうな場所を見つけ、焦りで足を滑らせないよう気をつけながら降りていく。あの男は一体どこまで流されたのだろう、そう思いつつなんとか川岸に降り立ち、川沿いを走っていった。

 しばらくして、遠目に岸へと這いずり上がる姿が見えて目を見開く。怪我をしているうえにこの寒い中川に落ちて、よく這い上がれたものだと彼のタフさ加減にほんの少し安堵した。

 息を切らしながら駆け寄ると、雪の上に横たわった男は今にも死んでしまいそうだった。落ちた時に打ったのか顎が切れて腫れ上がっているし、寒さにぶるぶると震えており目の焦点が合っていない。加えて腕も折れている。
 こんな大怪我を負った人の処置なんてしたことがない。後になって折れた腕に添木をすべきだったと気づいたが、この時の私は怪我人を前にひどく混乱しており、とにかく温めなくてはということしか頭になかった。濡れたままでは体温が奪われていく一方なのでなんとか脱がそうと格闘し、まだ辛うじて意識のあった男は私の意図を察してか、満身創痍ながらにほんの少し身体を動かした。おかげでなんとか上着だけは脱がすことができた。
 自分が着ていたダウンジャケットを彼に被せ、その上から覆い被さる。今私にできるのは、寒さで死なないように少しでも体温を取り戻してもらうことだけだった。町の方向はなんとなくわかるが、意識のない男一人を抱えていけるかと言われれば当然無理だ。助けを呼びに行くしかないが、それまでに死なれては意味がない。もう少しして、ある程度彼が暖まったらここを離れよう。

 そう思っていたのも束の間、彼の体温は戻らないばかりか今度は私の体温が奪われていく一方だった。身体が悴んで、段々と動かなくなっていく。ここにきてドッと疲れが押し寄せて、身体を持ち上げるのも億劫だ。さっさと人を呼びに行けばよかった、でも帰ってきたとき死んでいたら元も子もない。こういう時は、どう対応するのが正解だったんだろう。

 遠くで誰かの声が聞こえたような気がして、ぷつりと意識がとぎれた。


▽


 身体が燃えるように熱い。だというのに背筋には悪寒が走り、身体の節々が痛くてたまらない。
 うう、と呻き声が唇の端から漏れると、自分のものではない衣擦れの音がする。すぐ側に、誰かがいるらしかった。

 汗で額にはりついた前髪がそっとよけられる。濡れたタオルのようなもので額を拭われ、布団の上からあやすようにぽんぽんと肩を叩かれた。

「ぉ、かあさ」
「……」

 ずっと寒かったのも、変な場所に行ってしまったのも、やはり夢だったのだ。きっと幼馴染の家の前で倒れて、彼らが家まで送り届けてくれたに違いない。小さい頃から熱が出ると、母が汗を拭ってはあやしてくれていたのを思い出す。もうハタチこえてるよ、子供じゃないよと思いつつ、懐かしさで夢現にうふふと笑った。

 ――夢を見た。勇作さんが旗を持って、戦場を駆け抜ける夢だ。硝煙と血と、頭が割れるような雄叫びに機関銃(マシンガン)の発砲音。砲弾と弾丸の間をすり抜けながら走る勇作さんが、何かを叫んでいる。
 ぱしゅん、と耳元をすり抜けた銃弾が、勇作さんの頭を撃ち抜いた。血が飛び散って、彼の足が止まる。
 彼は倒れなかった。代わりにこちらへと振り返り、哀しそうな顔で笑うのだ。


▽


 目を覚ますと寒気はすっかりと引いていた。倦怠感は残っているものの、関節の痛みは消えてすんなりと動けるようになっている。上半身を起こし、伸びをすると見慣れない光景が視界いっぱいに広がっていた。

「……どこだここ」

 自分の部屋ではない。木目調の天井や白い壁紙、等間隔に並べ置かれたベッド。私の部屋の天井は木目調ではないし、壁紙は幼い頃から使っているうさぎと猫柄の薄ピンクのものから張り替えていない。それに、いくつもベッドを置いておけるようなスペースもない。
 身体を起こしたままぼんやりとしていると、「あ!」と男の声が聞こえた。そちらを振り向くと、ドアを開けた状態で軍服を着た男がこちらを見つめている。その腕には桶とタオルがあり、どうやら彼が看病してくれたらしいと悟った。

「気が付かれたんですね。ご気分は如何ですか、高熱で随分と魘されていらっしゃいましたが……」

 言いながら歩み寄ってきた男は、サイドテーブルの上に桶をおき、ベッド脇に置かれていた椅子に腰掛けると膝の上で拳を握った。

「は……ええと、身体が少し怠いくらいで、熱も然程ないかと思います……。あの、ここはどこですか? どのくらい寝てました? 私といた男性はどうなりましたか!? ていうか今何年!?」

 言葉にするほど自分に何が起きていたのか思い出す。目の前の彼の存在が、見慣れない景色が、窓から覗くちらほらと舞う雪が、結局全ては夢ではなかった証拠になってしまったから、幼馴染とよく似た男の安否を確かめずにはいられなかった。

 彼はああ、と笑みを浮かべると、隣の病室で養生しておりますと答えた。

「もう少し発見が遅ければ命も危うかったでしょうが、手術も成功してぐっすり眠っておりますよ。助けてくださりありがとうございました、彼には二、三聞きたいことがありましたので。……今は明治四十年、貴方が眠っていたのは二日と半日、ここは軍病院です」
「(軍……)そう、ですか……。すみません、記憶が混乱しているみたいです」
「そのようですね。……俺は三島といいます、お嬢さんのお名前を伺っても?」

 三島、と名乗った男は、軍帽を外すと僅かに頭を下げ、にこりと人好きのする笑みを浮かべた。

「九重と申します。名乗り遅れて申し訳ございません、助けていただきありがとうございました」
「いえいえ、お気になさらないで。助けていただいたのはこちらの方です。……上の者を呼んで参りますので、今しばらくお待ちください。あ、こちらの手拭いは使ってくださって構いません」

 飲み水も用意させますので、と言いつつ彼――三島さんは立ち上がり、部屋を出て行った。
 お言葉に甘えて、タオルを水に浸して絞り、顔や首元を拭く。お風呂に入りたいなぁ、と思っていると、コンコンとドアをノックされる。どうぞ、と声をかけると、ガチャリとドアノブが回された。

 その人を一目見たとき、心臓が縮み上がってしまうような感覚を覚えた。白い額当てをし、目元は赤く引き攣れた皮膚がのぞいている。真っ黒な瞳が一層恐ろしくて、夜中に出会ったら泣いてしまいそうだ。まるで――死神のような。

「やあ。随分と元気になったようで安心したよ」

 恐ろしげな見目とは裏腹に、物腰は柔らかだった。内心ほっとしつつ、失礼な態度を取ってはいないだろうかと不安な気持ちになると、それを見透かしたかのように「驚いただろう、戦争の名残でね」と笑みを浮かべた。今は明治末期だから、その名残というのは日露戦争あたりを指しているのだろう。

「いえ……助けていただきありがとうございます。九重と申します」
「部下から聞いているよ。私は鶴見という。こちらこそ、うちの尾形上等兵を助けてくれて感謝している」

 そう言って鶴見さんは、先ほど三島さんが座っていた椅子に腰掛けた。

 彼の顔を間近で見た時、頭の片隅にふと誰かの面影が過ぎったような気がして――鶴見さんをじっと見つめる。

「……鶴見さん、どこかで……いえ」

 下手なナンパみたいだな、と呆れて途中で言葉を切る。
 しかし彼はずいっと私に顔を近づけると、その真っ黒な瞳で私を覗き込んだ。異様な迫力に彼から目を離せず、硬直したままシーツを握りしめる。

「奇遇だなァ、私も君と何処かで会ったことがあるような気がするんだ」

 さて何処でかな、とにっこり笑うと、乗り出した身体を元の位置へと正した。

「ところで、九重さん。君はなぜ彼がああも大怪我をしているのか、知っているかな?」

 鶴見さんの言葉に、脳裏に杉元さんとアシリパさんの顔が浮かぶ。少し考えるふりをして、「私も記憶が混乱しているのであまり……」とだけ答えた。
 私の返答に、鶴見さんは「ほう?」と目を細める。

「では質問を変えよう。君はあんな場所で、一体何をしていた?」

 しん、と部屋が静まり返る。シーツが擦れる音でさえ大きく感じるほど、ぴんと空気が張り詰めていた。
 その目は瞬くことなく私を射抜いており、下手な嘘をつけばすぐ見破られてしまいそうだ。そう思わせる圧力が見掛け倒しかそうでないかは定かではない。定かではないから、嘘をつくのではなく話せる部分だけを伝えることにした。

「……気づいたらあそこに。幼馴染の家の前にいたはずなんですけどね」
「何故そこにいたのか、それすら一切わからないと?」
「はい。寝ながら歩きでもしたんでしょうかね、そういう病気があると聞いたことはありますが……ただ、彼が満身創痍で川から這い上がってきたので助けた次第です」

 とにかく色々とはぐらかしながら、嘘はつかずにあの二人のことを伏せて話す。彼らは紛れもなく命の恩人だ。軍も金塊を狙っているのだろうから、そうなればあの二人はこの人達にとっては邪魔なはず。――戦争の爪痕が色濃く残る時代だ、杉元さんと百之助(仮)の死闘といい、私がいた令和より命の価値は軽く扱われているんだろう。戦争帰りともなれば、なおさら。

 私の証言も百之助(仮)が起きれば意味のないものになるが……あの顎の怪我では、しばらくは話すこともままならないだろうし、筆談も難しいだろう。なんせ骨が折れている。彼が話せるくらいに回復するまでには逃げる算段をつけなければ。

 そんなことを考えていると、鶴見さんは短く溜息をついた。

「知らんというならそれで構わん。どうせ君は何を言ったところで――」
「ど、どうせ……?」
「いや、この話は止そう。……君、ペチカを知っているかい?」
「ぺ?? ……ああ、変な形の暖炉」
「フフ、そうそう、変な形の暖炉だ」

 なんだか失礼なことを言われた上に、知識の浅さを笑われたらしい。釈然としない気分でいると、看護師の女性と医師と思しき人がやって来た。お盆に飲み水が用意されており、三島さんが頼んでくれたのだろうと思い至る。鶴見さんは問診するという医師の言葉に立ち上がると、「まだ本調子ではないようだから、ゆっくり休むといい」と言って病室を後にするのだった。