あれから数日もするとすっかりと元気を取り戻し、念願のお風呂にも入ることができた。軍病院から兵舎に移ったものの、男性用の浴場しかなかったため銭湯に通うことになり……予想はしていたが、やはり現代とは違い不便なことは多かった。お金を出してもらっているし、石鹸まで貰ってしまったのでもちろん文句はないのだけれど、勝手が違えばやり辛さはある。私のいた時代は本当に便利な世の中だったのだと今更ながらに思い知った。
服装についても言及されたが、それとなくはぐらかしておいた。故郷は遠い場所にあること、そこではこういった格好は珍しくはないこと――これもまあ、嘘ではない。鶴見さんは「そうか」と言ったきり、それ以上聞くことはなかった。もっとあれこれ質問されるだろうと思っていただけに拍子抜けしてしまったが、変に答えなければならないことを増やすより余程良いだろう。そういえば「どうせ」とも言われたのだし。
しれっと逃げ出せやしないか、とも思ったが、今彼らは“保護”という名目で私を手元に置いている。それは私が一部記憶喪失の第一発見者だから(これだとちょっと百之助(仮)が死んだみたいな言い方だな)かと思っていたが……どうもここでの雰囲気を見る限りでは、百之助(仮)はスパイなのではないか? ということらしい。それも外国ではなく軍内部の、だ。となると、発見者である私も百之助(仮)の仲間なのでは、と疑われているのだろう。気づいたら雪山にいて偶然怪我人を見つけて……なんて、怪しすぎる。その怪我人が内通者候補ともなれば、自然と監視対象にもなるだろう。実際話していないことは山ほどある。
さてどうしたものか、と頭を悩ませるが……まあ私にできることは逃げることくらいなので、機会を待つしかない。私の良いところは切り替えが早いところ、諦めが早いところである。悪いところは大抵の面倒ごとは考えるのを放棄するところ。幼馴染二人には常々「その癖を直せ」と言われている。
日中は誰かしらに張り付かれているが、尋問や拷問をされるわけでもない。もしかしたら、日常会話から探られているのかもしれないが……まあ大した情報もないので、大丈夫だろう。現代のことさえ話さなければ。
だからというわけではないだろうが、百之助(仮)の見舞いを許されていた。私をスパイと仮定したところで、片方が大怪我を負っていて共謀しようにも動けないし、そもそも私が見るからに弱そうだから泳がせているのだろう。どちらも逃さないと、それだけの自負があるということだ。
あれから鶴見さんとは何度も話をしたし、他の軍人――二階堂兄弟や月島軍曹――とも顔を合わせるようになった。月島軍曹は無表情がデフォルトなのでなんとも言えないが、二階堂兄弟は明らかに私に敵意を向けている。時折「爪を剥がそうか」「指の骨を一本ずつ折ってやる」等と脅しをかけられるものの、とりあえず全部無視していた。最初の頃はもちろん本気で怯えていたが、本当になにかしてくるわけではないので今は比較的「へえ〜」という気持ちで聞き流している。「つまらない」「肝が座りすぎ」と文句を言われたが、私の知ったことではない。命令がない限りは害されることもなさそうなので、ひとまずは安心していた。
百之助(仮)……尾形上等兵は未だに寝たきりだ。たまにうっすらと目を開けることもあるが、基本的には麻酔が効いているのか眠っている。
今日も白いベッドの上で、尾形上等兵はこんこんと眠りこけていた。時折呻き声をあげるので、心配になってトントンと左腕を一定の間隔で叩いてやる。悪夢でも見ているのかもしれない。
少しあどけない寝顔は、やはり百之助によく似ている。まるでそこに幼馴染がいるようで、眠っている尾形上等兵のそばにいると心が安らいだ。この寝顔を見るためだけに、ここがどこなのかを忘れるためだけにこうして飽きもせず毎日毎日足を運んでいる。――なんだか、私も眠くなってきてしまった。うつらうつらしながらサイドテーブルに腕を置いて、そこに頭を乗せる。
「……九重さん? 眠いのかい? ここで眠るのはちょっと……」
「んーー、ちょっとだけ。みしまさんあとでおこして」
「全く……少しだけだからね」
三島さんが隣に座ったのを感じながら、ゆっくりと瞼をおろした。
▽
「――しい、……け」
「では――ます」
誰かが話をしている。微睡の中で聞こえる声に安心して、口元に笑みを浮かべた。ここ、家なんだっけ? ああ違うか、違うんだった。じゃあ、この声は。
かたり、微かに音が聞こえて、足音が遠ざかっていく。
まだ起きたくはなくて、瞼を閉じていると、ふっと影が差したのがわかった。それと同時に嗅ぎなれた匂いが漂って、重い瞼を持ち上げる。
目の前に人の顔があった。
「あ、起きました〜?」
「――ッッッ!?!?」
近い。とんでもなく近い。凡そ他人にするような距離ではない。驚いて仰け反るとガタガタ、と椅子が不安定に揺れて思い切り転げそうになる。すると――肘のあたりを掴まれ、力強く引っ張り上げられた。大きな音を立てて椅子だけが床に倒れ、それを呆然と眺める。そのまま、私を支えた人物へと視線をうつした。
その特徴的な唇も、同じ位置にある二つの黒子も。整った目鼻立ちも、声も、尻もちをつかないように支えたその手も。何もかもが、幼馴染と瓜二つだった。こっちもか、となんとも苦々しい感情が胸の内に広がる。
男は、その顔によそ行きの笑みを浮かべていた。時重ならば、決して私には向けることのない表情だった。
「貴女、どうして僕の名前を知ってるんです?」
「……は?」
「僕ね、何度か貴女のことを見にいったんですよ、病室まで。――その時に貴女が、熱に浮かされながら薄ら目を開けて、僕を見て、“トキシゲ”と」
覚えていない。全く記憶には残っていないけれど――本人がそうだというのなら、そうなのだろう。というか、この顔が現れたら健康状態で目が覚めていたとしても間違えると思う。
腕を掴む手をそっとほどいて、「すみません、ありがとうございます」と頭を下げる。顔を上げるよそ行きの美しい微笑みは消え、無表情で小首を傾げながらこちらを見下ろしていた。その姿にほんの少し、恐怖心を抱く。時重が怒っている時と、似ている気がしたからだ。あの男は怒ると本当に恐ろしいのだ。
「貴方の名前も時重というんですね。……いえ、すみません。貴方のことではないんです。貴方のお顔が幼馴染にそっくりだから、勘違いしたんだと思います」
「へえ。聞けば、百之助も幼馴染殿にそっくりだとか?」
「尾形上等兵、ですね。見間違えちゃうくらいには、まあ……。でも私のこと知らないって言ってたし、私の幼馴染は冗談でもそういうことは言わないから。本当に違うんでしょうね」
「じゃあ鶴見中尉殿は?」
「……は?」
「どこかであったような気がするって、中尉殿が最初に仰っていたでしょ?」
「まあ、ええ……はい」
急に話が方向転換した。なぜそこで鶴見さんの名前が出てくるのだろうか。
そもそも。私と鶴見さんの会話を、どうしてこの男が知っているのだろう?
思わず眉を顰めると、みるみるうちに男の米神に青筋が浮かぶ。ぴくぴくと瞼が痙攣して、男は大きな溜息をついた。今までが取り繕っていたと、そう気づかされる程度には荒々しい溜息だった。
「お前さぁ、どうやって中尉殿に取り入ったわけ?」
「とり……、え、なに」
「だから! どうやってあの人に取り入ったのかって聞いてんだろッこのアバズレ!!」
「あばず……ッ!?」
穏やかだった口調から一変して、男は乱暴にそう言い放つ。急激に沸騰した怒りを前に、たじろいでおうむ返しにすると、言い切らないうちに胸倉を掴まれて引き寄せられる。血走った瞳に捉えられて、腹の底から震えが走った。この敵意は――殺意は。二階堂兄弟の、比ではない。
剥き出しの悪意をぶつけられ、喉がひゅっとしまる。
「おかしいんだよお前みたいな怪しい女、さっさと拷問して情報を吐かせればいいんだ。間諜といえど所詮はひ弱な女なんだからさぁ……で? お前をそばに置くことで、鶴見中尉殿に一体なんの利がある??」
「し、らない……そんなこと、わかんない」
「ハァ? 分からないィ〜? 説明してみろよお前の価値をさぁ!」
「お前みたいな」「さっさと拷問して」「所詮は」……私の幼馴染と同じ顔で、決して向けられることのない悪意をぶつけられる。彼はこんな風に私を嫌悪しない、罵声を浴びせたりしないし、馬鹿力だけどきちんと考えて私に触れる。
怖いのに、圧倒的な怒りと力が怖くてたまらないはずなのに……ふつふつと苛立ちが湧き上がってくるのは、なぜだろうか。
この時、私は理不尽にも、彼と幼馴染が同じ姿をしていることにひどく腹を立てていた。
「……じゃあ、直接、鶴見さんに聞きなよ。その口は飾り?」
「……ハ?」
「なんで私があんたの疑問に答えてあげなきゃいけないの? そんな義理も、答えてやる価値もないんだけど」
胸倉を掴む手を思い切り叩き落とす。恐怖が怒りへと変換されてゆき、彼の肩を両手でドンと押して距離を取った。
その拳がぎゅっと握り込まれたのを視界の端に捉えながら、なお言葉を続ける。
「私だって、鶴見さんがなんで私を拘束するだけなのかわかってない。ていうか、そもそもスパイじゃないし。だから私に聞くんじゃなくて鶴見さんに聞いて、答えてくれるかどうかは知らないけど。――そんなことより」
気に食わない。ひどく、腹立たしい。……悲しい、会いたい。時重と百之助に、会いたい。
この人たちは、あの二人じゃない。
「その顔で、その声で、その手で……私に触らないで」
あんたじゃない、と睨みつける。
存外、彼は私の言葉に気分を害した様子はなかった。それどころか目を丸くして、きょとんとした顔でこちらを見下ろしている。訝しく思いつつもその様子が癇に障って、これ見よがしに舌打ちをしてやった。
「……ねえ、今の顔、もう一回やって」
「……は?」
「だから、もう一回やれって」
先程までは殴りかからんばかりだったというのに、いつのまにか男の怒りは萎んで、意味のわからないことを宣っている。話にならない、と溜息をつき、男の脇を通り抜けた。いや、通り抜けようとした。
腕を、強くぶつけたのかと思ったが、そうではない。勢いよく、目の前の男が私の腕を掴んだのだ。あまりの力強さに骨が軋んで、苦痛に顔が歪むのがわかった。
男の腕を掴み返し、なんとか逃れようとするが、痛みは増すばかりで一向にその手は外れない。男は何を考えているのかわからない表情で、こちらをじっと見据えていた。
「怒れ」
ただ一言、それだけ言って。
「い、たい! 離して、離して!」
指が肉に沈んで、骨まで届きそうなほど強く握り込まれる。
痛みに生理的な涙がじんわりと視界を覆い、蚊の鳴くような声で「痛い」と鼻を啜った。
「宇佐美! 何をしている!」
鋭い叱責が飛ぶと、男はパッと手を離した。突然の訪問客にドアの方へと視線を向けると、そこにいたのは月島軍曹で、額に青筋を浮かべている。
それにしても、名前だけではなく苗字までも同じらしい。尾形上等兵といい、どうも考えなくてはならないことが多そうで溜息をついてしまう。
月島軍曹が手招くので、彼の側へと駆け寄ってその後ろに隠れる。「接触するなと言われていたはずだが」という月島軍曹の言葉に訝しく思っていると、宇佐美はカラカラと笑いながら「僕は百之助のお見舞いに来ただけですよ」と宣った。
「三島は頼まれごとがあったようなので、その間だけ彼女を見張りを引き受けました」
「ではなぜ彼女の悲鳴が聞こえてくるのだ?」
「どこかへ行こうとしたので、腕を掴んだだけです」
飄々とそう言ってのける宇佐美に、怒りよりも呆れが勝った。告げ口する気満々だったが、争うのも面倒だし、何よりさっさと離れたい。「骨折れるかと思ったので今後は触らないでください」と言えば、少し鼻白んだ表情を浮かべて「別に貴方に触りたいわけではありません」と言い返される。知ったうえで言っていますけど、とだけ答えてそっぽを向いた。
月島軍曹は、何かあったことを察しつつも私の態度を見て溜息をついた。大した問題ではなかったと判断したらしい。「今後彼女に近寄るな」とだけ告げて、私の背を押し退室を促した。
後に事情を知った三島さんに散々謝られたが(手形がくっきりと残った腕のあざも目敏く見つけられた)、彼は上司の命令に従っただけなのでなにも悪くない。「玉井伍長がお前に火急の用があるらしい、僕が見張ってるから急いで行け」……なんて言われたら、私でも飛び出していく。それでも三島さん自身も叱責されたようで、思わず彼の背を撫でた。
これで関わらなくて済む。あの顔で、嫌悪感に満ちた目で見られるのはとてつもなく苦しい。顔を合わせずに済むならそれが一番心の平穏に繋がるというものだ。
翌る日、尾形上等兵の見舞いに行くと、月島軍曹が見張り番の二階堂(浩平か洋平、どちらかは定かではない)を呼び出し、連れて行ってしまった。「貴女には別の者をつける」と手短に告げた月島軍曹の顔は相変わらず無表情だ。しかしそこになにか含まれているものがあるような気がして、返事をしながらも首を傾げた。
尾形上等兵と二人きりになると、サイドテーブルに頭を預ける。彼はどんな性格をしているだろう。宇佐美のようでなければいいなと、腕に顔を埋めた。
「――お前、また寝てるの?」
至近距離から聞こえた声に、ぱっと目を開く。見たかったような見たくないような、その顔がじっとこちらを覗き込んでいたので椅子から転げ落ちそうになる。そんな私の腕を掴んで、彼は「お前は鈍臭いね」と鼻で笑った。奇しくも、あの日と重なる光景であった。