「え、火事? 火事が起きたの? 兵舎消し炭ってこと??」
「だから、そうだって言ってるだろ」
しつこいなァ、と宇佐美が嫌そうな表情を浮かべるが、聞き直したくなるのもおかしいことではないはずだ。銭湯への道すがら、今日の天気について言及するかのような気軽さで「そういえば兵舎燃えたから」と言われるこちらの身にもなってほしい。
「そんな重要なことを思い出したように言わないでくれる? 宇佐美上等兵ちょっと感覚ズレてんじゃない」
「偉そうにするな。風呂連れてってやらないぞ」
「三島さんか月島軍曹に連れてってもらうからいいよ」
「可愛くない奴だねお前。鶴見中尉殿の命令じゃなければ誰が……」
「も〜うるさいな。三島さんと月島軍曹は宇佐美上等兵みたいに文句言わないのに。でも二階堂兄弟は……ウン……うるさそうだからやだな」
「……ああ、お前知らないのか」
――二階堂兄弟、片方死んだよ。
▽
お湯に浸かりながら、宇佐美の言葉を反芻する。死んだのは洋平らしい。洋平が死んだ――死んだのか。見分けもつかず、大して仲が良かったわけではないけれど……それでも残された浩平を思えば、どうでも良いなどとは思えなかった。なんだかんだ、あの兄弟のことは嫌いではなかったから。
宇佐美も嫌なやつだ。私がお風呂を楽しみにしていると知っているくせに、お風呂前に教えるだなんて。……きっとその程度なのだろう、宇佐美にとっては。それで済むほど情もなく、彼にとって死は身近なものだからそこに大した感慨もない。情云々を抜きにして死が身近である、という点だけあげるとするなら、軍にいる人たちは皆当てはまる。
いつだったか、戦争経験者の話を聞いた時に、思ったことがある。――戻ってこられないのだ。彼らはずっと取り残されている。血と硝煙と、屍が積み上がる地獄の中に。
ぼんやりと、旗を持つ勇作さんの姿が思い浮かんだ。
しばらくして銭湯を出ると、すでに宇佐美が風呂桶を抱えて待っており、「お前長いよ、湯冷めしちゃうんだけど!」と怒っていた。それに対し軽口を返す気にはなれず、そのまま閉口してしまう。
訝しむような表情を浮かべる男に溜息をついて、「……で、病院に戻るの?」と聞けば、宇佐美は首を横に振った。
「お前は……しばらくの間は鶴見中尉殿のお屋敷にご厄介になる」
「そう……えっ、今から行くの?」
「そうだよ。お前、中尉殿に迷惑をかけるなよ。私室なんて覗いたら僕がお前の首を九州まで飛ばしてやるからな! クソッ、羨ましいッ!」
「本音出てるけど……」
私がこんなに落ち込んでいるのは確実に宇佐美のせいであるが、彼のコミカル(本人はそのつもりはないだろうが)な言動にほんの少し気が紛れた。宇佐美が歩き始めた隣に並ぶと、歩くのに合わせてカンカンと桶の中で石鹸のぶつかる音が響く。なんとなく、「あなたはもう忘れたかしら」……なんて曲のフレーズが頭に浮かんで、チョイスが少し古かっただろうかとほんの少し口角を上げた。
ふと宇佐美が腰を曲げ、私の首元に顔を近づける。軍帽のつばがこつんと側頭部にあたって、すんすんと鼻を鳴らす音が聞こえた。どうやら、においを嗅いでいるらしい。
「え、なに? ちゃんと洗ったよ」
「知ってるけど。におい付きの石鹸もらったのお前? 良い身分だな、捕虜のくせに」
「捕虜じゃなくて保護されてるんだけど。におい付き? ついてないよ、ほら」
手元の桶を顔近くまで上げてやると、宇佐美は少し屈んで石鹸に鼻先を寄せ、ひくひくと鼻を動かしてにおいを嗅いだ。そうして首を傾げると、「まあいいか」と言って再び歩きだす。突飛な行動をとるのは今に始まった事ではないので、詮索することなく話題は逸れていった。
「お前は引き続き百之助のお見舞いにでも行けばいい。そろそろ意識もハッキリしてくる頃だろ」
「今までも何回か目は覚ましてるけど、意識朦朧って感じだったからなぁ……」
尾形上等兵はうなされつつも、段々と目を覚ます間隔が短くなっていった。宇佐美の言う通り、きちんと目覚めるのもそう遠くない日となるだろう。
尾形百之助上等兵は、一体どんな人物だろうか。彼が目を覚ましたら、聞きたいことが山ほどある。
それは、十日ほど前のことだった。
『う、さく、……』
まだ、寝言でさえも発するのが難しいはずの彼が溢した言葉に、ひどく衝撃を受けたのは言うまでもない。私にはわかる。彼は……「勇作」と、そう呼んだのだ。
勇作さんは本当にこの明治にいるのか、果たしてそれは私の知る彼なのか。いるとするなら、どこに行ってしまったのか。尾形上等兵も勇作さんを知っているのか――疑問点を挙げ出したらキリがない。
熱に浮かされながらみた夢が脳裏を過っていく。旗を持ち、地獄の中を駆ける勇作さんが、頭を撃ち抜かれる夢だ。嫌な予感から目を逸らして、顔を上げると訝しげな表情を浮かべる宇佐美と目が合う。
「ガンつけないでくれる」
「ハァ? がん? なにそれ。まあどうでもいいけど、中尉殿のお屋敷に行くのにその辛気臭い顔やめてくれる? 不細工になってるよ」
何がそんなに不満なわけ、と問われて、「不満じゃなくて落ち込んでる」と答えれば宇佐美は首を傾げた。
「落ち込む? 風呂にも入れたんだし、満足だろ」
「……宇佐美上等兵にはわからないよ」
わかってほしいとも思わない。ふうん、と相槌を打つ声にはやはり関心などなかった。ちょっとした仕草や表情に絆されてしまいそうになることもあるけれど、その根っこは別物だ。それに対して、心細くもあるし安堵のようなものを感じることもある。もし、彼を私の知る時重だと認識したら……ここを離れる時、寂しく思ってしまうことだろう。いずれ帰るのだから、愛着なんて持たないようにしなければならない。
そんなことをぼんやりと考えていると、宇佐美が私の髪の毛を一房持ち上げ、鼻先へと近づける。そうして首を傾げるものだから、溜息をついてしまった。時重も、
「おかしいなぁ」
そう呟いた宇佐美は、私の髪の毛を手放すと、なにか考え込んでそれきり話さなかった。
▽
「フフ、宇佐美上等兵を手懐けたようだね」
柔和な笑みを浮かべてそう言った男に、思わず飲んでいたお茶を吹き出しそうになる。噴射することは避けたものの、今度は無理やり押さえ込んだことで噎せてしまった。口元を覆い、顔を逸らして咳き込む私を眺めながら、鶴見中尉は大福を頬張っている。
鶴見邸の一室、客間らしい和室でのお茶会。宇佐美は私を送り届けてすぐに行ってしまったが、去り際にしっかりと「大人しくしていろ」と釘を刺され、それに対し「うるさい」と返したのがつい先ほどのこと。そのやりとりを聞いていたのだろう。
ハンカチで口元をぬぐい、一息ついて目の前の人物を見つめた。
「なんです、手懐けるって……」
「だってそうだろう? あんなに君のことを目の敵にしていた男と、君は団子を食べ、隣を歩き、風呂にまで行った。宇佐美は骨の髄から軍人だ。そんな男の殺意を目の当たりにしてなお、その心を解いて普通に接している。――これがどれほどのことか、わかるかい?」
答えを引き延ばすように、大福に齧り付いた。にこにこと頬杖をついて笑う男は、他人の心を読むのに長けている。こういうところが、情報将校たる所以なのだろう。見透かされるのは、どうも落ち着かない気分になる。
「……私が普通に接してしまうのは、まぁ……幼馴染に似てるから、ですけど。彼のことはよくわかりません、いきなり態度が軟化したんです」
「いきなりというと?」
「“怒った顔が気に入ったから許す”、みたいなことは言ってました。それ以降は……友好的というほどではないですけど、知り合いを相手にしているくらいの態度をとっていますね。不思議な人ですね、宇佐美上等兵は」
なるほどなぁ、とお茶を啜る鶴見中尉。なにがなるほどなのかはさっぱりだが、この人はそうでないのだろう。部下のことをよくよく把握しているらしいことは、短い付き合いの中でもわかるほどだ。
「まあ、彼の考えていることは何となくわかるが……そうか、
「?」
「いやいや、こちらの話さ。――それより、そろそろ軍服ではなく着物を着るのはどうかな? 君に似合いそうなものを幾つか見繕ったんだが」
「見繕……えっ!? そ、そこまでしていただいて申し訳ないです……その、故郷では洋装が多かったもので、着物の着方がわからないと言いますか……」
「それなら女中に手伝ってもらうといい。せっかく用意したのだから、着てくれると嬉しいなァ」
「はい、ええ、着ます! ありがとうございます」
慌てつつも頭を下げると、ふふ、と満足そうに笑う声が聞こえた。「それにしても君はいいところのお嬢様のようだね」と言うので、曖昧に笑っておく。別にお嬢様でもなんでもないが、この時代の基準で見ればそう感じることも多いのかもしれない。しかし下手なことは喋れないので、口を噤むほかなかった。
「……鶴見中尉殿は」
「んん……? なぜそのような呼び方を?」
「宇佐美上等兵が「軍服を着るならそのように呼べ」と仰っていましたから」
「まあ、ウン……いいか、悪くはないかな。すまない、話の腰を折ってしまったね」
いえ、と首を振り、一拍おく。どう話を切り出すべきか、少し悩んだ。私が知りたいのは、この厚遇についてだ。私をスパイと勘違いしているようだし、油断を誘っているのかもしれない。……そしてそうだとは思えないくらい、鶴見中尉は踏み込んでこないのだ。
なんと口にしたものか少しだけ考えて、したこともない駆け引きに持ち込むよりストレートに質問すべきだと結論を出す。今のところ害される様子もないし、答えてもらえなくても支障はないだろう。
それに、尾形上等兵がもしもスパイだとしたら――というか、話を聞く限りではその可能性が非常に高い――恐らく杉元さんたちやその側にいた私のことは話さないはず。単独で刺青人皮を奪いに行ったことは、不信感をもたらすからだ。となれば、今すぐに逃げ出す必要もない。鶴見邸にいる間に、どこかのタイミングで逃げるのがいいだろう。
「鶴見中尉殿は、どうしてこんなに良くしてくれるんですか? スパイ……間諜? 諜報員? の、疑いがかけられているんですよね、私」
「ほう、よくわかっているじゃないか! 偉いぞぉ、きちんと自分の立場を理解している!」
若干馬鹿扱いされている感が否めず、渋い顔になった。それを見た鶴見中尉が「はは、まあそう怒るんじゃない」と笑う。
「君は思っていることが素直に表情に表れるね。あまりにわかりやすい。が、私は好ましいと思っているよ」
「褒められてるのか貶されてるのか……」
「フフ。……さて、間諜の疑いがある君に対し、私が良くする理由、だったか。それはね」
ちょいちょい、と手招かれ、ローテーブルごしに身を乗り出す。同じように身を乗り出した鶴見中尉が、ひそひそと内緒話をするように口元に手を当て、囁いた。
「――答えは君の中にある。探し出して、見つけてほしい。いずれ答え合わせをしよう」
▽
時同じくして、軍病院の一室。日が暮れる前の柔らかな光が窓から射し込む中、男が重い瞼を持ち上げ、目を覚ましたのだった。