「あ、やっときた。お前もう少し早く準備しなよ、着飾っても大して変わらないんだから」
軍病院へ向かおうと鶴見邸を出ると、すでに宇佐美が門の前に立っていた。念仏でも唱えているのかと思うほどに文句がすらすらと出てくるので、辟易しながら聞き流す。朝から言い合いをする体力はない。
鶴見邸にやってきて数日、鶴見中尉はほとんどの送迎を宇佐美に任せていた。真剣に「宇佐美上等兵は嫌です、三島さんか月島軍曹にしてください。文句ばっかり言ってきます」と直談判してみたが、「君たちの組み合わせ、面白くて好きだよ」と笑われるばかりで取り合ってもらえなかった。私は全然面白くない。昨日もお願いしてみたがしっかり流されてしまった。
それを苦い気持ちで思い返していると、宇佐美が手を伸ばし、私の髪を耳に引っ掛けた。そして、ぐっと身を縮めて鼻先を首元に近づける。私が鶴見邸に来てからは、彼は毎日このような行動を取るようになった。
「今日は? 香は焚いてる?」
「やってないって。何回するのこのやりとり……って距離近くない」
「うるさい」
この男、かなりパーソナルスペースが狭いな……と思いつつ、時重を思い浮かべる。行動が悉く似ているので、自然と考えてしまうのだ。腹立たしいことに。
もういいからと宇佐美の頬を手で押しのけ、慣れた足取りで通りを進んでいく。すれ違う人々の中、側から見た私はきっと違和感なく町の風景として溶け込んでいるのだろう。ここにいて違和感がないというのは苦々しい気持ちにさせられるが、どう思ったところで仕方のない話だ。私が着ていたダウンジャケットやジーンズなどは押収されてしまったし、お菓子類もあの雪山の中に置いてきてしまった。幸い、スマートフォンは持ち歩いていなかったので見られてはいけないというほどのものはないが……服装に関しては何か聞かれれば返答に困るところだが、「海外製のものだろう、お前たちが気にするようなことではない」という鶴見中尉の言葉もあり、以降は質問されることもなかった。鶴の一声とはよく言ったものだが、それを発した本人がどう思っているのか、不透明なのが恐ろしいところだ。どうも誤魔化せた気がしない。
そんなことを考えつつ、小競り合いをしながら軍病院に辿り着くと、「じゃあ僕は任務があるから」と早々に宇佐美は来た道を引き返していった。ふ、と溜息をつきながら、途中すれ違った医師や看護師さんに挨拶をしつつ病室へと向かう。見張りの一等卒は私を見るなり「アンタも飽きねえなあ」と呆れた表情を浮かべ、そのまま病室を離れていった。そう遠くないところにはいるだろうが、私がなにも出来ないと思ってサボりである。まあ、そちらの方が好都合だけれども。
病室の中へと入り、ベッドの脇にある椅子に腰掛ける。
「――もういいよ、尾形上等兵」
ぱちり、と尾形上等兵が瞼を開いた。
のそのそと起き上がった彼はちろりとこちらを見遣ると、「ははあ、毎日ご苦労なことですなぁ」と嫌味をこぼした。
「うるさいなぁ。相互監視だよ相互監視。尾形上等兵も私のことなにも話さないでね、私も尾形上等兵がなにしてたかは話さないから」
彼と面と向かって話すようになったのは、鶴見邸にやって来た次の日のことだった。見張りの兵卒が「少し席を外す」と言ってどこかへと行ってしまい(たぶん私が無害すぎてスパイ疑惑があることなど頭からすっぽ抜けているのだろう)、来る途中で買ってきた団子をもそもそと食べていると、普通に起きて話し始めたのでびっくりした。
「お前あの時の女だな」「なぜ俺を知っている」「鶴見中尉の手の者ではないな」――と、怒涛の質問を浴びせられた時はしばらく黙ったまま団子を食べていたものだ。「オイ、なに普通に食ってる」と聞かれたので、「あ、いる?」と食べかけの団子を差し出したのを覚えている。すると今度は尾形上等兵が黙り込んで、首を横に振った。
そんなことを思い返していると、尾形上等兵がスッと手を差し出した。
「団子」
「たかるなたかるな。毎回持ってきてるわけじゃないんだよ食いしん坊上等兵」
ていうかもう餅とか食べられるの? と聞いたら、「餅ぐらい食える、随分前からしっかり飯食ってる」とのこと。ずっと寝たきりの姿しか見てこなかったが、演技だったということだ。食事に関しては、大方医師のうちの誰かを買収したのだろう。なるほどねと頷いた私に尾形上等兵は鼻を鳴らしつつ、「それで」と口を開いた。
「お前は結局、どの立場でここにいる? 間諜と疑われているらしいが……お前に務まるとは思えん。嘘が下手くそすぎる」
「間諜じゃないけど、なんか否定するのが癪になる言い方するなぁ……どの立場って言われても、迷子としか」
「……。嘘はないようだが、話していないこともあるな」
「そういう判断の仕方やめてくれる? 腹立つ〜」
「不死身の杉元とアイヌの餓鬼、お前の仲間か?」
「いや。遭難した私を助けてくれた人たちってだけで、大して関わりはないよ」
「……チッ」
私から目ぼしい情報を得られなかったからか、尾形上等兵は大きく舌打ちをした。
尾形上等兵も、やはり私の知る百之助ではなかった。しかし思ったほど落胆しなかったのは、ファーストコンタクトでひどい衝撃を受けたからか、はたまた宇佐美という激烈な前例があるからか……「まあそんなものか」くらいの感想しか浮かばなかった。
なぜ尾形上等兵のことを知っていたのか、という疑問に対し、彼にも宇佐美と同じように「めちゃくちゃ顔が似てる上に名前も一緒だから幼馴染かと思った」と伝えたら、「……嘘のようだが嘘ではないな」と目を丸くしていた。
「で、尾形上等兵はこれからどうするの? どうせ間諜なんでしょ、話聞いた感じだと」
「お前に言うと思うか?」
「腹立つ〜」
お前こそどうするんだ、と問われて、「どうしようね」と曖昧に笑う。絶対に逃げ出すべきだと思っていたのだが――今のところ杉元さんたちとの関わりも疑われてはいないし、待遇は悪くないどころかとても良くしてもらっている。それでも親切心から接しているわけではないことはわかっているし、私に対してなにか含みがあるのも知っている。そしてそれがどういったものなのかが判明していない以上、いつ命を狙われるかわからない。正直、どうすべきか図りかねていた。杉元さんたちが狙われるのは本意ではないし、杉元さんらにつくことができれば一番いいかもしれないが……尾形上等兵を助けたことで、彼らには敵認定されたのではないかと思う。まあ、それはそれでどうしようもないことだ。ただ、私から彼らを裏切るような真似はしたくなかった。未来から来たと、そう言ってそれを無碍にしないでくれたあの二人を。
とはいえこの時代をどう凌ぐかも考えものだ、身を売って生計を立てるのにも限界があるだろうし、そういうことはできればしたくない。それに、結局は転々としなくてはならない。そのための用心棒の伝手はないこともないが、そちらは確実とは言えないので頼りにできるほどではなかった。加えて、最終的には刺青人皮を探さなくてはいけないのだ。今一番よい手立てと言えば、このまま鶴見中尉に与することだろう。そうすれば、少なくとも殺されることはない……とは言い切れないが、そう思いたい。逆に言えば、鶴見陣営を裏切った場合、命の保証は無いに等しい。宇佐美とかいう狂犬もいることだし。安全をとるならば鶴見陣営にいるべきだろうが、安全とも言えないのが悲しいところである。
考えれば考えるほどドツボに嵌っていきそうだが、気持ちを最優先に考えるならば――杉元さんアシリパさんと一緒に行きたい。ここへ来て一番最初に味方になってくれた二人を、裏切りたくない。
そう思うと同時に、ここで良くしてくれた人たちと対立するのも嫌だと思っているけれど。
「どうする」という尾形上等兵の問いかけは、私が一番答えを聞きたいところだ。
「こう、故郷に戻った時に後ろめたくなるようなことはしたくないんだよね」
「なぜ?」
「いや後ろめたいから以外の気持ちはないけど……?」
「――それは罪悪感か?」
肌を撫でる空気の温度が、下がったような気がした。
思考を目の前の彼へと戻し、真意を測ろうと黒い瞳を見つめる。
もう少し表情に変化があれば言いたいことも汲み取れたかもしれないが、残念ながらどういった意図で罪悪感について言及したのかはわからなかった。素直に、考えていることを口に出す。
「それも込みかな? どんな出来事も一度乗り越えるとハードルが……えーっと、難易度っていうか、「できるかも」っていう基準が下がるでしょ。それが悪事となると、故郷に帰った時に困るからね」
「困ることなどないだろ。その基準とやらが下がろうと何だろうと、故郷ではお前がここで何をしたかなど誰も知らん。知らなければ、なかったことと同じだろう」
「他人じゃなくて自分の問題ね。選択肢の中に悪いことが自然と追加されるのが嫌って話」
要は、現代の価値観から外れない場所にいたいというだけのことだった。この時代に生まれていたのなら、そうではなかったのかもしれないが……たらればを考えたところで仕方のない話だろう。元に戻っても、変わりなく過ごしていたいのだ。
目の前の男はふっと視線を逸らすと、「まあいい」と答えた。私の返答は彼の中では微妙なものだったのかもしれない。
「……なんにしてもまだここにはいるつもり。尾形上等兵ははやく傷治しなよ」
「フン」
水差しからグラスに水を注いでやり、それを尾形上等兵に渡す。
それを一気に煽ると、サイドテーブルに空のグラスを置き、ごろんと寝転がった。背を向け、しっしっ、と手を振ると「俺は寝る、さっさと行け」と追い払われた。まあまだ本調子ではないだろうし、起きているのならここにいてもあまり意味はない。寝顔を見るためだけに来ていたのだから。
とはいえ、現実逃避のための時間もここに馴染むにつれて少なくなってきていた。鶴見中尉を初めとする人たちと接するうちにほんの少し落ち着いたというか、知り合いができたことで精神的に安定しはじめたというか、帰りたいという気持ちはあるものの先を見据えられるようになってきた。おかげで、幼馴染とよく似た寝顔に頼ることが減ってきたのである。
席を立ち、病室を後にすると、そっと振り返る。早くよくなりますように、と口の中で呟いて、再び歩き始めた。一人での外歩きは許されていないが、その辺にサボっている一等卒がいるはずなので、その人を捕まえて付き合ってもらおう。
――尾形上等兵が脱走したのは、数日後のことであった。
▽
「あれ、三島さんだ! お久しぶり、今日はどうしたの?」
「久しぶり、九重さん。元気だったかい? 実は宇佐美上等兵から頼まれてね……なんでも、野暮用があるのだとか」
「野暮用? まあなんでもいいけど。よかったよかった、宇佐美上等兵とは毎日喧嘩だからね。三島さんか軍曹に会いたかったんだ」
「俺も九重さんに会いたかっ……え、毎日? 命足りるのそれ? ……まあいいか元気そうだし……月島軍曹殿もお忙しい身だからね。そうだ、九重さん、最近二階堂は見かけた?」
ふいに話の風向きが変わった。一体なぜそんなことを聞くのだろうかと思いつつも、「うん」と首を縦に振る。
「何回か話したよ。いや、大した話はしてないけど。地元が静岡だーとか、みかんが食べたいとか、……洋平のこととか。まあ、そんな感じ」
「ふうん、なるほど……ま、部外者には話さないか」
「?」
「いやいや、こっちの話。ありがとう九重さん、お礼に何か買ってあげるよ。何がいい?」
「ほんと? ラッキー、お団子がいい!」
「(ら?)お団子ね、いいよ。甘味処に寄って包んでもらおう」
三島さんの反応に、顔には出さず内心溜息をつく。ずいぶんと雲行きが怪しくなってきた。というのも、この数日間で二階堂と遭遇したのは、思えば全て軍病院の近くでのことだったからだ。そして軍病院といえば、尾形上等兵である。なんとなく三島さんが危惧していることが読めてしまって、軍隊といえど個々人では向いている方向がバラバラなのだと複雑な気持ちになった。というか、三島さんでさえ私をスパイ候補から外しているのか……。いや、ありがたい話だが、そこまで馬鹿に見えているのだろうか。少しばかり渋い気持ちになった。
事態が急変したのは、軍病院についてからのことである。
尾形上等兵の病室を目前にした時、なにか重たいものを落としたかのような音が聞こえ――次の瞬間、病室の中から尾形上等兵が飛び出して来たのである。彼はちらりとこちらを見遣ると、背を向けて走り去っていった。「九重さんはここに!」と言って三島さんが追いかけ、やや遅れて見張り番がやってくる。席を外していたらしい。
「えっと、あれ? 逃げたってこと……?」
横を通り過ぎた見張り番が病室を覗くと、「宇佐美上等兵殿!」と声をかける。なぜ宇佐美が? と思ったが、野暮用とは尾形上等兵のことだったのだろう。
見張り番に続いて病室に入ると、鼻血をだして床に座り込む宇佐美と、その近くにおまるが転がっていた。先程の大きな音は、これが落ちた音だったようだ。そして状況を見るに、おまるで殴打されたのだろう。
見張り番は宇佐美になにやら告げると、忙しなくバタバタと走り去っていった。座り込んだままの彼のそばへと近づき、ハンカチを取り出して目の前にしゃがむ。「ほら」と差し出しても取る気配がないので、溜息をついてハンカチを鼻の下に当てがった。
「病院でよかったよ。見たかんじ鼻は曲がったりしてないけど、お医者さんにちゃんと見てもらいなよ」
「――僕が農民出身の一番安い駒だなんて、そんなはずないよな?」
私の言葉には答えず、宇佐美はそう問いかけた。問いかけというには、私の返答など期待しているようには見えなかったが――というより、自分自身に言い聞かせているように見えた――少し悩んで、私なりの答えを彼に渡すことにした。恐らく彼は今、ものすごく怒っている。これだけ怒っていて、駒だなんだと気にするのは、恐らく鶴見中尉のことでなにか言われたからだろう。この男が激昂するのなんて、それ以外に考えられることはない。「農民出身の安い駒」というワードは……もしかしたら、宇佐美がすごく気にしていることなのかもしれない。
「……それは宇佐美が決めたら良いんじゃない」
宇佐美の瞳が私を捉える。
「農民出身だかなんだか知らないけど、それで宇佐美が自分自身を安い駒だと思うなら……たぶん鶴見中尉が「違うよ」って言っても、心から納得できないんじゃないかな。人は口先だけでなんとでも言えるし、言葉の裏にある気持ちが真実かなんてわからないしね。だから、自分で決めなよ。私は鶴見中尉のことよくわからないけど、宇佐美は違うでしょ。その上で、信じたい方を信じなよ」
この男は、形だけの慰めをするだけ無駄だろう。私が言ってやれるのはこんなことくらいだ、と思いながら、ハンカチをそっと外す。血は止まっている。ほっとしながら、一向に動く気配のない男に「お医者さん呼んでくる」と立ち上がった。
背を向け、一歩踏み出そうとした瞬間、グッと手を掴まれる。
「……なに?」
「……」
宇佐美は黙ったままこちらを見上げていた。何を考えているのかわからない顔で、ただただ私を見つめている。
見つめるだけで何も言わない宇佐美に、困った表情を浮かべて手を引き抜こうとした。しかし宇佐美はさらに強い力で握りしめ、私の手を離そうとしなかった。
「歩けないんだけど」
「……起こして」
「ええ? 私が宇佐美……上等兵みたいな筋肉だるま起こせるわけないじゃん……」
「もういいよ宇佐美で。どうせ心の中ではずっとそう呼んでたんだろ」
ああバレた、と思いつつも、調子を取り戻したらしい宇佐美に内心ホッとする。いつもの憎たらしさがないと、大人しい彼は少し怖い。爆発寸前のダイナマイトみたいだったなとその手を引っ張りながら、静かな彼を思い浮かべていた。それから「早く起こせよ」とせっつく宇佐美を見つめて、うふふと笑みを浮かべる。
「宇佐美がうるさくないとちょっと不気味っていうか気持ち悪イダダダダ!!」
「お前口には出さなくても良いことがあるって知ってた??」
宇佐美は私の手を潰す勢いで握りしめ、ニコニコと笑いながら立ち上がる。そして幾分か力を緩めると、しっかりと私の手を捕まえたまま歩き始めた。
「え、どこ行くの?」
「お前が医者に見せろって言ったんだろ。付き添えよ」
「ええ? まあいいけど」
私の返答に、宇佐美がちろりと振り返って笑みを浮かべる。その顔に面食らったのは、穏やかとは言い難いこの男が浮かべるにしてはずいぶんと柔らかい笑みだと、そう思ったからだ。