エジプト空港


 海外任務の前に少しでいいから心の準備をしたかったが、彼女はそんな事を気にする質の人間ではなかった。気付けば私は飛行機の座席(高専がチケット代をケチったのかエコノミークラスだった。190センチ程ある背丈の男に対してエコノミーの座席を用意するなど、ただの嫌がらせだ)に着いていた。
 これが例えば村上春樹の小説ならこの飛行機はボーイングだっただろうし、私は『やれやれ、またドイツか』などと思ったかもしれないが、これは小説ではなく現実で、しかも初めて貰う入国スタンプはエジプト、かと思いきや、乗り継ぎの関係で中東諸国を幾つか回らなければならなかった上(飛行機に乗っているにも関わらず、何故、直線距離で移動できないんだ。いい加減にしてくれ。乗り継いだ先でも狭い座席を案内された。ブチ切れなかった事を誰が褒めてくれ)、共に行動するのは薄幸そうな美人でもなければ、天真爛漫な少女でもない、私の一つ上の先輩だった。
 先輩と言っても、一年の殆どを海外任務に費やしており先輩らしい事などして貰った試しがないので、私を含め同期たちは、一年中ヤバい所でヤバい事をしてるヤバい人、という認識だった。
 彼女が毎回(厳選に厳選を重ねているらしい)お土産にもそれは顕著に現れており、ハッキリ言ってセンスがない。ワザとなのか本気なのか、怖くて彼女には聞けないでいる。そして、この認識が改まる事はなかったし、何なら想像を超えた頭のおかしい人だという事をここに残しておく。
 日本を発ってから凡そ18時間。途中、乗り継ぎもしたが、ようやくエジプトに着いた。ひたすら狭い座席に身を縮め、途中やたら絡んでくる白人男を、顔面に貼り付けた笑顔一つで乗り切り(彼女はそれを見て爆笑していた。助けてくれなかった事を一生恨んでやろうと思った)、アラブ系だろうかエキゾチックな美女を目の保養にしていたら、彼女に脛を蹴られた。18時間だ。こんなにも時間があったのに、楽しい事が一つもない。あの美女は確実に私に気があったし、任務でなければデートに誘っていただろう。勿体ない事をした。海外に居るのに。エジプトに居るのに。任務の為だとは分かっていても、初めての海外だ。こんな思いをしなければならないなら、先に話して欲しかった。
 無事に入国審査を終え、彼女と合流した。

「着いたね、エジプト」
「…そうですね」
「元気ないな。初めての海外でしょ?」
「帰りはファーストクラスにしよう」

 私がそう言うと、彼女は首を傾げた。どうしてそんな事を言うのか、という風に。

「帰りの事なんて、帰る時に考るんだよ。そもそも返りが何時になるか分かんないしね」

 それを聞いて私が安心するとでも思ったのか、この女は。

「ぜってぇ、ファーストで帰ってやる」
「んはは」

 笑い事じゃない。決して。

「この後は?」
「現地の案内人と合流するよ。相手、誰か知らないけど」

 幸先が悪いにも程があるだろう。どうしてこう、この人はこんなに楽天的なんだ。空港のロビーは雑然としていて、新聞を読む男、別れを悲しむカップルは居なかったが、喧嘩中のカップルは見つけた。家族旅行だろう、子供のはしゃぐ声。そして『サタデー・ナイト・フィーバー』のジョン・トラボルタのような白いスーツを着た男。ビー・ジーズの曲を流せば、陽気に踊り出しそうな出で立ちだ。顔立ちは、ジョン・トラボルタというより、スティーヴ・ブシェミの方が近い気がするが。
 目立っている。めちゃくちゃ目立っている。しかも、そのスティーヴ・ブシェミに似た偽ジョン・トラボルタが持っているウェルカムボードは、クリスマスツリーのような電飾で彩られていた。

「世界には、あんなウカレポンチも居るんだね」

 彼女は呑気にそんな事を言っていたが、他人事ではないだろう。そのウェルカムボードには、こう書いてあった。

『セクシーで魅力的(だったらオレが嬉しい!)なアジアン・ビューティー!』

 この空港には大勢の人間が居る訳だが、アジア人は私と彼女を除いて、他には居ない。セクシーで魅力的なアジアン・ビューティーはどこを探しても居ないが、ただのアジア人なら2人居る。

「セクシーで魅力的…だったらオレが嬉しい…アジアン・ビューティー」

 何故、読み上げた。

「案内人がアレな訳ないよ。さっき新聞読んでた男が案内人だよ。絶対そうだ。だって、あんな……スティーヴ・ブシェミみたいな顔のジョン・トラボルタが案内人なんて、そんな話、今まで聞いた事ないもの」

 やっぱり、スティーヴ・ブシェミに似てるよな。私と彼女は、立ち尽くした。任務地はまだ先だ。既に疲れきっている。


- 2 -

*前次#


街歩き トップページへ