ようやく出発


 キスした相手を特別に思い、好きになってしまうのは普通の事だと思う。唇が柔らかかったとか、何故かいい匂いがしたとか、そう言えば髪も凄く柔らかかったな、とか。そういう事を考えながら砂を掘り続けていた。またいきなりキスしたら怒るだろうか。いや、彼女の事だから、きっと笑って許してくれる筈だ。エジプト、砂漠のど真ん中、キスした相手に惚れた。私もただの青春真っ盛りの男だ。昔から大人びているだとか、何だとか、色々と言われてきたし、そういうキャラクターが自分に合っていて、演じるのも苦ではなかった。その方が女受けも良かったし。それでも、彼女を特別に思ってしまったのだから、これは仕方のない事なのだ。こういうシチュエーションで、好きにならない方が可笑しい。
 いつの間にか日も沈み、誰もが作業の手を休めていた。砂に埋もれたタクシーも、明日の朝には出発出来るだろう。私は携帯を取り出して、顔すら覚えていない相手の連絡先を一つずつ消していった。トラヴィス、ジョニー、私、彼女。四人でしょぼいキャンプファイヤーを囲みながら、スナック菓子を晩餐にくだらない話で盛り上がった。砂漠の夜は長い。そして、美しかった。満点の星空を見上げながら、最後にゆっくり星を見たのはいつだったかと思い出す。最近は、色んな事が立て続けに起きていて、自然の美しさに目を向ける余裕もなかった。

「初めて、ここに来てよかったと思った」
「まぁね。海外旅行にトラブルは付き物だよ。でも、それ以上に得るものは多い。旅はいいよ。私の知らない価値観で生きている人が世界中にいて、その人たちは私の事を何も知らない。だから凄くフラットな目線で見てくれる。それこそ呪術師だからとか、非術師だからとか、女は子供を産むのが義務だとか、そういう面倒を全部忘れさせてくれるんだ。呪術界の外にいる人たちは、それこそ日本以外で、普通に生きてる人たちは余計に、呪術師とは全く違った生き方をしてる。宗教観とかもそれに当たるかな。国というより限定されたその場の地域によって、考え方が全然違う。私の持ってる常識なんか、ガラクタに過ぎないって思うことがあるよ」

 日本の呪術師、それも女性となると、立場が男より圧倒的に弱い。彼女も、私の知らない所で、知らない相手に、好き勝手に罵倒され、馬鹿にされ、生き方を強制されていたのかもしれない。そういう面倒から離れたくて、彼女は世界に飛び出しているのだろう。いつか、この先で。もし、彼女が困り、悩み、そうして傷付くような事があれば、隣に居て、その時の私はきっと何も出来ないだろうけれど、それでも隣に居る事くらいなら出来るんじゃないかと思う。そうしたいと心の底から思った。何も解決出来なくとも、問題からほんの一瞬でも目を逸らす時間を作りたいと思う。そういう時に隣に居て、甘えて欲しいと思う。彼女は強いから、私が守らなくても生きてはいけるのだろう。それでも。そう思ってしまうのが、男心というやつで。まあ、惚れた弱みとも言うけれど。
 そんな事を思いながら、ぼけっと火を見つめていた私は、かなり間抜けな顔をしていたと思う。既にトラヴィスもジョニーも眠ってしまっていた。彼女も半分、寝ているような状態だ。抱き寄せて自分も寝る体勢に入る。

「硬い枕だなぁ」
「文句言わないでくれ」
「おやすみ、傑」

 今まで名前を呼ばれただけで、こんなにも嬉しく思った日はなかった。彼女の声が優しく聞こえたのは幻聴ではないだろう。私はまた、彼女のこめかみにキスを落とした。今夜はよく眠れそうだと思った。


日が落ちて、また日が登り、一日が始まる。
砂に埋もっていたタクシーも既に掘り起こし、朝日を受けた一台のそれは、いつでも動けそうだった。
砂嵐のせいで若干だが位置がズレているらしかったが、目指す方向は概ね同じだ。
「準備はいいか?」
トラヴィスがサングラスを輝かせながら聞いてきた。
また、あの荒い運転が始まるのだと思うと、気分が落ちる。
「オッケー、オッケー!今日の昼頃には到着してるだろうよ!」
ジョニーは朝からテンションが高かった。
彼女はまだ眠いのか、うつらうつらと首を前後に揺らしていた。
「凭れたら?」
「んー」
寝惚けた表情も可愛く見えるので、何故か腹が立った。
惚れた弱みだろう、知ってるさ。
ベッツィーという名前の付いたタクシーは、延々と続く砂漠を走り出した。
乗客はバカ三人。
ドライバーも中々のバカだ。
まさか自分がこんな場所で、こんな人達に会うとは。
数ヶ月前の自分に言ってやりたい。
彼女が昨夜に言っていた、自分の持っている常識や価値観は、ただのガラクタに過ぎないんだという事を。
思い悩んで、悩みきって、そうして苦し紛れに出した答えだけが、自分の生き方ではないという事を。
世界は広く、そして美しいのだ。
若干、バカが多いのが玉に瑕だが。
それでも、楽をして、思考放棄して、逃げたり目を逸らしたりしながら、好きな事を選んで生きていくのも、悪い事ではないと。
生きるのに、ご大層な理由は必要ない。
今、隣で眠っている彼女を見て、そう思った。
あと数時間は似たような景色が続くのだろう。
私と彼女の仕事は、現場に到着してからが本番だ。
それまで、もう少し眠っていても構わないだろう。



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