番外編 : 旅行鞄 前編


 物事というのは、つくづく初めが肝心だと思う。中学三年、夏が始まる頃に、たまたま病欠していたクラスメイトに数学のプリントを届けに行けば、そのクラスメイトは病欠ではなかったし、薬物関係の事件に頭を突っ込んでいた挙句、伏黒を自分の手足のようにこき使ったかと思えば、あれよあれよという間に助手にされていた。もちろん、その事件はクラスメイト、穂村咲菊の頭と伏黒の手足によって解決した。
 それから、まあ、色々あった。伏黒の父がヤクザに借金していた事件だとか、そのヤクザが持ってきた薬物関係の事件だとか、咲菊が金で買収しているホームレス連中から賭け麻雀で五千円を騙し取られた事件だとか、朱栄組系飛躍会が抱えていた訳アリの一億円を一ヶ月で資金洗浄させられた事件だとか。まあ、言い出したらキリがないので、この辺りで止めておく。
 とにかく、伏黒が咲菊と出会ってからというもの、まともな人間と知り合えた試しがない。まだ、マシな部類に入る研磨さんだって、ハッカー集団ハイクオリティの幹部をしている。最近、YouTuberデビューしたらしい。何やってんだ、あの人。このままいくと、伏黒はまともに就職活動すらさせて貰えないのだろうと、今から自分の未来を危惧している。半分は父親のせい、もう半分は咲菊のせいだ。そして、そのどちらにも関わりがあるヤクザ、五条悟については、もう色々と面倒なので触れないでおく。
 とにかく。今日も、咲菊の家の扉は、ちょっとした問題を抱えた人間によって、開かれるのだ。

「サワディー」

 女の子だ。それも、外国の女の子。やけに大きな旅行鞄を持っている。

「あなたがタンテーさん?」
「いや、違う。探偵は咲菊……奥の部屋にいる。靴は脱がなくて大丈夫だ」

 伏黒は依頼人と思われる相手を、玄関から真っ直ぐ、一番奥の突き当たり、開けっ放しにされたドアの前まで案内した。

「恵のお客さん?それとも私?」
「依頼人、だよな」
「うん!」

 伏黒の客だろうと、咲菊の客だろうと、依頼人だろうと、座る場所は決まっている。

「依頼が何であれ、とりあえず、そこに座って。客人はそこに座るのが――」
「――この家のルールだ。依頼人でも、ルールは守ってもらう」
「コーヒーを」
「ミルクなし、砂糖二つだろ。分かってる」

 伏黒は依頼人に椅子を勧め、二階にあるキッチンへ向かった。依頼人が来たらコーヒーを出す。もちろん、咲菊のぶんも。いつものルーティンだ。彼女の飲むコーヒーは決まっている。ミルクなし、砂糖二つ。それ以外のものを出すと、一切、手をつけないのだ。

「困った事があったら、助けてくれるって聞いて」

 彼女はポケットから一枚の名刺を取り出した。名刺には『ツメ』と書いてあった。

「……アンタ、研磨さんと知り合いなのか」
「うん!私、メオって言います。ケンマさん、引っ越す前は隣に住んでました。その時、コレくれました」
「タイ生まれ。メオはチューレンで本名じゃない。あだ名だ。猫という意味があったはず。サワディーと挨拶していたから、すぐに分かったよ」
「タンテーさん、すごい!全部当たってる!」

 咲菊は机の上に置いていたノートパソコンで、チューレンを検索して伏黒に見せた。魔除けのため。愛する者を魔物に連れ去られないよう、動物や、意味のない音をあてる。……なるほど。確かに、伏黒はチューレンが何か知らなかったが、だからといって説明を省くとは。伏黒が咲菊の家に住み着いてから暫く経ったが、最近、扱いが雑になっているのは気の所為ではないはずだ。

「じゃあ、早速だけど。聞かせてよ、貴方の依頼を」

 メオの話をまとめてみる。まず、メオの家に非通知の番号から電話がかかってきた。メオはそれに出た。相手はメオの父親、草壁正也だった。

『金庫に鞄があるから、それを持って今すぐ逃げろ。俺にはもう電話するな。お前には天国の母さんが傍についてる』

 それだけ言って、電話は切れたらしい。話を聞き終わった咲菊は、どこかへ連絡し始めた。

「やあ、ツメ。久しぶりだね。ちょっと知りたい事があるんだ。そもそも、今回の依頼は君が持ってきたようなものだしね。とりあえず、草壁正也について、ありったけの情報を集めて欲しい。そう。メオが今回の依頼人だ。君にも働いてもらうよ。メールでいい。何かあれば、こちらから連絡するよ。じゃあ、よろしく」

 それから、数分と経たないうちにツメからメールが入ってきた。流石、ハイクオリティー。仕事が早い。

「草壁正也、三十八歳、経営コンサルタントの仕事をしている。東南アジアへの渡航歴が多数。九年前、タイ人女性と結婚。まあ、今のところ変わった何かがあるとは思えないね。それこそ、探偵に依頼しなければならないような理由は。メオは来日当初、大阪に住んでた?」
「……はい」
「その頃、貴方の父親は何を?」
「……ヤクザ、してました」

 伏黒は小さくため息を吐いた。どうして、こう、知り合う人間の大半がヤクザか、その関係者なのだろう。今回の依頼もまた、ヤクザ絡みか。何かあれば、もしかすると五条を頼らなければならないかもしれない。その事を考えて頭が痛くなった。

「そう不安にならなくていいよ、メオ。そこでボケっと座ってる恵だって、ほぼヤクザみたいなものだからね。何なら、関東最大の勢力を持っている――組の若頭、五条悟を呼び出せばいい。恵の師匠みたいな人だよ。もし頼るとなると、向こうは報酬を支払えと言ってくるだろうが、それも大した事じゃないから気にしなくていい」
「……俺はヤクザじゃなくて、探偵助手だ。五条さんに連絡しておくか?」
「いや、まだ大丈夫」

 伏黒の父親、伏黒甚爾が借金していたのは、関東最大勢力、――組だった訳だが、そこの若頭である五条が色々と話を付けて、借金は消え、今に至る。そのせいで、伏黒は探偵助手の傍ら、――組の、というか五条悟個人の便利屋のようなものもしていた。二足の草鞋である。どちらの草鞋も、一般的な職業とは言えないが。

「でも、その後すぐに辞めました。メオとお母さんのために、ちゃんと暮らすって」
「そう。じゃあ、その鞄の中身が何か知ってる?」

 伏黒も、咲菊も、鞄の中身が何かもう気付いていた。女の子が一人で抱えるには、大きすぎる旅行鞄。経営コンサルタント、元ヤクザ、金庫に入った旅行鞄と来れば、答えは自ずと絞られてくる。伏黒は飛躍会の事件を思い出していた。メオは首を横に振った。

「中身が何であれ、私に見せても構わないと思うなら、その鞄を開けてほしい。ただし、開けたら、もう二度と後戻りは出来ないから、そのつもりで。どうするかは貴方が決めて」

 咲菊はテーブルに置かれたコーヒーに口をつけた。罵詈雑言は飛んでこなかった。良かった、合格だ。熱さも丁度いいのだろう、もう一口飲んだ咲菊は、また話し始めた。

「今まで最も多くの人間を殺してきたのは、何だと思う?」

 探偵は依頼がなければ、どんな問題であれ、そして、その問題の答えを持っていたとしても、解決する事は出来ない。何故なら、依頼がないからだ。誰かにとっての答えは、依頼という契約を交わさない限り、探偵にとっては、ただの情報に過ぎない。咲菊は、その事を言っていた。

「爆薬でも、毒薬でもない。情報だよ。知る事は死ぬ事だ。貴方の父親がどこで何をしているのか。その答えが貴方の知りたくなかったような事でも、受け入れる覚悟がないなら、それを知る覚悟がないなら、その鞄を持って今すぐ祖国に帰るべきだと思うよ。私はどちらでも構わないけどね。どうする?」

 メオは小さく息を飲んで、鞄を開けた。……やっぱりな。伏黒は咲菊と目を合わせて、小さく頷いた。札束だった。表に出せない、汚れた金だ。

「……どういう事?お父さんが、どうかしたの?」
「草壁正也は、何らかの犯罪に関わっているのかもしれない。そして、その露見を恐れて逃亡した可能性がある。彼から電話を受けたあと、メオは一度、公衆電話から彼に電話したよね。スマホや携帯電話は持っていないのか」
「うん。大人になったら、お母さんが使ってたのをやるからって、お父さんが言ってた」
「……なるほど。なら、これからも彼に電話をしないで欲しい。彼もそう言ったんだろう?なら、そうするべきだ。いや、違うな。そう、しなきゃいけないんだ」
「一回でも?メオは大丈夫だからって、一回でいいから……」
「駄目だ。咲菊が言ってただろ。知る事は死ぬ事だ。一度でもこちらから電話をかければ、相手に情報を与える事になる。そうなれば、アンタの父親は助からない。それどころか、アンタや俺たちだって危険な目にあうんだぞ」
「どうしても…?」
「ああ。それが依頼を受ける条件だよ」

 時として、情報は人の命より価値が勝る。金より意味のあるものになるのだ。相手が一般人でない場合は、特に。

「……じゃあ、辞めるよ。依頼」

 メオは鞄を閉めて、椅子から立ち上がった。咲菊は何も言わない。……ああ、もう!伏黒はメオから鞄を奪った。

「アンタの前に座ってる探偵は、ただの探偵じゃない。俺だって一般人とは言えないような人間だ。それでも、依頼があったら必ず事件は解決するし、その為なら、どんな手を使っても構わないと思ってる。おかげで、どいつもこいつも俺の周りに居る人間は犯罪者と呼ばれるような奴らばっかだ。それでも、それでもな、依頼さえあれば、アンタとアンタの父親を救ってやれるんだよ。俺たちは、その力を持ってる。だから、他でもないアンタが何もしないまま諦めるなんて、許されないんだよ」
「……お父さん、見つけられる?」
「助手が勝手に大口を叩いたからね。それこそ、どんな手を使ってでも見つけ出すさ。その代わり、メオは私たちを信じてくれないと」
「お願いします。お父さんを助けて下さい!」
「了解した。恵、メオを二階へ案内して。私はやる事があるから」
「……二階?」
「恵はバカなのかな。メオは今、狙われてるんだよ。家には帰れない。なのに、このまま放り出すつもりなのか。珍しくカッコイイ事を言うなと思ったら、コレだよ。あーあ。恵は翼が弱くて飛べない雛鳥を見つけたら、飛ぶのを手伝ってやるって言って、空に放り投げて自己満足に浸るタイプか。ほんと、最低だよ。恵がしたり顔で歩き去った背後で、その雛鳥はアスファルトに叩き付けられて死んでるっていうのに、気付きもしないんだからね。浅慮愚昧にも程がある。恵はそこの所どうお考えなのかな?」

 捲し立てるようにして話すのは、咲菊の悪い癖だ。しかし、今回においてのみ、咲菊ではなく伏黒が悪かった。メオが寝泊まりする場所の事まで考えていなかったのだ。それでも、ここまで言われなきゃ駄目か?咲菊はじっと伏黒を見つめた。この目だ。伏黒は、この目に弱かった。

「……悪かった」
「謝る相手が違う」

 素気なく、返された。伏黒はメオに向き直って、頭を下げた。うん、今回は俺が百パー悪かった。

「すんませんでした」
「イイヨー!」
「二階に案内する。鞄は……」
「ここに置いたままで」
「フツツカモノですが、よろしくお願いします」

 伏黒はメオを連れて階段を上がる。彼女は廊下に置いてある、爪楊枝で出来たエッフェル塔に興味津々なのか、じっと立ち止まって見ていた。咲菊が夏休みの宿題を片付けている片手間に作ったものだ。確か、咲菊の叔父がフランスだったかオランダだったか、いや、イタリアだっか……とにかく、外国で詐欺をしていた時の話だったはずだ。彼が送ってきたワインは、質がいいのか、やけに美味しかったのを覚えている。

「この部屋なら空いてるから使っていい。向かいは俺が使ってて、そっちがキッチン。咲菊は大体、三階の部屋か、さっきの部屋、一階にいる……聞いてるか?」
「助手さん、タンテーさんと結婚してるの?」

 ……は?

「だって、一緒に暮らしてるんでしょ?」
「結婚、は、してない。俺が住み着いてるだけだ……」

 疲れるな、コイツ。依頼人に対して、こんな事を思う日が来るとは。

「結婚は……じゃあ、付き合ってるのか!」
「ちげぇよ!」

 伏黒は、思わず大きな声を出してしまった。

「帰る場所なんだよ、ここは。それに、誰かが咲菊の面倒を見ないと、アイツ、まともに食事しないからな」
「お父さん、いつも言ってるよ。家族は血で繋がってるんじゃない、同じ家で暮らして、お互いを大切に思い合うのが家族だ、って。だから、助手さんとタンテーさんは夫婦なんだよ!」

 自信満々。メオは両手を握りしめて、そう言った。……いや、だったら家族でいいだろ。何で夫婦になるんだよ。確かに伏黒と咲菊はパートナーだが、それは恋愛や家族愛というより、相棒と言った方が正しいのだが。二階の案内を終えた伏黒は、また咲菊のいる部屋へ戻った。

「エラーだよ。野球じゃないってば。だから、エラーが出て送れないんだよ。全く……」
「……何かあったのか?」
「恵、お使いに行ってきてよ」
「場所は?」
「――組の事務所。五条さんの所だよ」
「は?」
「どうしてこう、ヤクザの連中は化石みたいなインターネット弱者しか居ないんだろう。飛躍会の連中もそうだったけど、――組もだよ」

 ――組の中でも五条さんが持ってる事務所は、ここから、そう遠くない。自転車で行けば十分程度か。ヤクザの事務所でパソコンが使えなくなるとは、サイバー攻撃か何かだろうか。だとしたら、行くのは俺でなく研磨さんの方が良いのでは?

「俺はハッカーじゃないし、パソコンはそこまで詳しくないぞ」
「つべこべ言わずに、早く行ってきてよ」

 これ以上、駄々を捏ねたら、どんな罵詈雑言の嵐がやって来るか分からない。さっさと行った方が得策か。そう思い、伏黒は五条の所へ自転車をかっ飛ばした。

「お疲れです、兄貴!」
「すんません、兄貴!」
「御足労頂きありがとございます、兄貴!」

 兄貴、兄貴、兄貴……怒涛の兄貴コールに腹が立つ。

「うるさい」

 伏黒の一言で、五条の部下たちは黙った。部下の一人が伏黒をデスクまで案内した。デスクにはパソコンが一台。画面には、所謂アダルトビデオの広告が所狭しと並んでいる。なんなら、どんどん増えている。確かに、これは研磨さんの出番じゃないな。こんな事で呼び出したら、きっと一生、嫌われる。

「一体、どうして、こんな事に……」
「それが、さっぱり……」
「ネットで変なもの見ました?」
「いやいや、何も見てませんよ」
「そうそう。外国のエロいホームページだって」

 おい、最後の誰だ。お前が犯人だよ。伏黒がデスクから顔を上げ、部下たちを白い目で見ると、誰も彼もが伏黒から目を逸らして、果ては「あ、チョウチョだ……」なんて事を抜かしている。クソ。伏黒はツメに教わった方法で、淡々とエラーを消していった。

「「「お疲れさんです!」」」

 野太い声が事務所中に響いた。五条が来た合図だ。

「お疲れサマンサー!あ、終わった?」
「はい。今、終わりました」
「うちのバカどもが世話になったね、恵」
「いえ……」

 定型文のような挨拶をしていると、五条の部下の一人が前に出てきて、こんな事をを言い出した。

「お頭、兄貴はマジで凄いんスよ!」
「即戦力になりますよ!」
「どうスか。この際、兄貴と正式に盃交わしちまうってのは!」

 その言葉を皮切りに、盃だ、親子だと盛り上がっていく部下たち。何なんだ、この流れは。

「うるっさいよ、オマエら。学生は組に入れない。それがウチのルールでしょ。まさか、忘れたとは言わないよね?」
「「「すいやせんでしたぁぁぁ!!!」」」

 まるでコントでも見ているようだった。大男たちを黙らせる五条を見て、この人ちゃんと若頭やってんだな、と思う。伏黒に対しては、割と軽いノリの五条だが、それはきちんと線引きした上での対応だと、伏黒の方も理解している。

「出しなよ。咲菊から話は聞いてる」

 伏黒は咲菊から預かっていた、草壁正也の写真を五条に渡した。

「五百枚くらいコピーして、ばらまいといて。恵、上の部屋行こ」

 五条が歩き出すと、道が出来る。モーセの海割りならぬ、五条の海割りだった。上の部屋。つまり、――組の若頭が拠点としている場所。大きなデスクにクッション性の高いデスクチェア。後ろには『一心同体』と書かれた額縁が飾ってある。まさしく、ヤクザの事務所だ。五条は慣れた足取りでデスクチェアに腰を下ろした。伏黒はデスクを挟んだ場所に立っている。

「とりあえず、ウチが噛むのはここまでね。咲菊は分かってんのかな?」
「はい、それで構わないって」
「一つ忠告してあげる。怪我したくなかったら、この件からは手を引きな」
「……それは」
「元ヤクザが娘に二億円持たせて消えた。ヤバいスジ絡みなのはバカでも分かるっしょ。子供の探偵ごっこじゃ済まない話しなんだって言ってるの。分かったら、早く帰りな」
「……あの」
「ん?」
「約束したんです、依頼人と。助けるからって」
「あのさぁ、恵。自分一人で救える人間なんて、たかが知れてるんだよ。せいぜい身内と、その友達までだ」
「五条さんでも、ですか?」
「どっかで線引きしないと、やってらんないからね。特にヤクザなんてのは」
「……でも。それでも、助けたいです」
「それって私情?」
「私情です」
「僕らヤクザは私情で動けるような人間じゃないんだけどな」
「……俺は、咲菊の助手です。どんな手を使ってでも依頼は必ず遂行する。だから、何とかしてください」
「あー、もう。分かった、僕の負け。きな臭くなったら連絡しな」

 伏黒が咲菊に弱いように、五条は伏黒に弱い。それを知っていた伏黒は、咲菊がやるのと同じように、五条の目をじっと見つめて逸らさなかった。これは、伏黒の粘り勝ちだろう。頭を下げて、事務所を出た。咲菊に終わったと伝えようとスマホを取り出すと、丁度そのタイミングで電話がかかってきた。相手は伏黒の父親、甚爾だった。

「……なんだよ」
「メッセ送っただろ、さっさと来い」

 甚爾はそれだけ言うと、電話を切った。どいつも、こいつも、人を駒のように扱いやがって!そんな苛立ちを受け止めてくれる相手はどこにも居ない。伏黒は腹から大きなため息を吐いて、自転車に跨った。指定されたマンションの部屋へ向かった。チャイムを一度押すと、すぐさまドアが開いた。電柱か。いや、人間だ。それも、バカみたいにデカい人間だ。太い腕には龍が走っている。……コイツもヤクザだな。

「なんやねん、ボウズ」

 伏黒は電柱に胸ぐらを捕まれ、持ち上げられた。息が詰まる。何で、こんな事に。

「おー、恵。遅かったな。とりあえず金出せよ」

 奥から甚爾の声が飛んできた。伏黒はどこのチンピラかと思った。なんなら、今でもそう思っていたい。が、現実は無慈悲だ。電柱の太い腕の隙間から薄暗いリビングが見えた。雀卓が置いてある。それを囲んでいるのは甚爾を含め、全員が五条の同業者だった。どこからどう見ても、賭け麻雀だ。賭け麻雀には良い思い出が一つもない伏黒は、勘弁してくれ……と心の中で泣いた。結局、伏黒も賭け麻雀に参加させられ、有り金を全て持っていかれた。泣いていいよな、もう。自分の父親とは思いたくない人物が、ヤクザと肩を組んで歩いている。その後ろを、トロトロとついて行きながら、そんな事を思った。
 三人が向かったのは高級料亭だった。竹で出来た立派な門構えに、赤い暖簾がかかっている。気付いた時には、伏黒の前に寿司が並んでいた。

「そうか、そうか。甚爾の倅か」
「俺に似て美人だろ?」
「お前に似たんやない。奥さんの方に似たんやろ。ほんで自分、誕生日は?」
「じゅ、十二月二十二日ですけど……」
「山羊座か。ふふん。ワシ、ヤクザ」
「オヤジギャグかよ!」

 伏黒がつい、突っ込んでしまった途端、例のヤクザが伏黒を睨んだ。やっべ、殺される。甚爾はそんな事、全く視界に入っていないのか、大トロにかぶりついていた。おい、お前の息子がヤクザに殺されそうになってんぞ。助けろよ。

「んはははは!甚爾、自分の倅オモロいのぉ。気に入ったわ。で、何や。他で出来へん話って」
「草壁正也、知ってるよな」
「……自分、アレとどないな繋がりやねん」
「アンタ、草壁と盃交わした仲なんだろ?話してくれりゃあ力になんぜ」
「敵やないって保証は?」
「俺の命で、どうだ」
「……ええ根性しとる。草壁は岸和田会の洗浄屋なんや」
「洗浄屋?」
「資金洗浄。マネーロンダリングっちゅうヤツや。組抜けるとき、エンコ詰めの代わりに請け負わされた仕事でなぁ」
「じゃあ、草壁は岸和田会の裏金を?」
「デカいで。三億や」

 ……は?メオの持ってきた鞄には、二億が入っていた。

「三億?におっ……」

 甚爾が投げたおしぼりが伏黒の顔に当たり、続きは言えなかった。そうだ、情報。命惜しくば余計な情報を与えるな、だ。咲菊も散々、情報の扱いについては口を酸っぱくして言っていた。

「へぇ。三億パクって高飛びたあ、よくやるぜ」
「大阪におった時分は、そんな男やなかった。家族思いでなぁ。指を惜しんだんも、そのせいや。指がのうなったら全うな仕事に就けんゆうてなぁ」

 粗方の情報を聞き出した甚爾は、相手を酒で潰して寝かせた。甚爾が店を出たので、伏黒もそれについて行く。

「……どうしたよ」
「ちょっと、緊張してただけだ」
「ま、俺もあの人とは初対面だったしな」
「は?知り合いじゃねえのかよ」
「ああ。関西系のヤクザに片っ端からカマかけて、あの人で大当たりだ」

 ちょっと待ってくれ。

「アンタ、初対面の人に命かけたのかよ」
「まあな」
「なんで、そこまで」
「五条の坊ちゃんと、お前のコレに頼まれてな」

 甚爾が小指を立てて言った。

「咲菊だったか。お前、あの探偵の事よく見とけよ。あれは良い女だ。誰が相手だろうとブレやしねぇ。頭もいい。一本スジ通ってる女は、そう居ねぇからな」
「言われなくても、分かってる」
「結婚式には呼んでくれよ。タダ酒飲める機会だ、逃してたまるか」
「うるせぇ」

 メオもコイツも、どうして直ぐに結婚だの夫婦だのと言うのか。そんなに、大事な事なのか。伏黒は甚爾と別れ、咲菊の家へ向かった。自分の帰る場所。同じ家で暮らして、お互いを大切に思い合うのが家族。伏黒には、家族が何たるかなど分からなかった。それでも、一つ言うならば。伏黒にとって咲菊は、替えのきかない特別な相手だという事だ。疲れきった伏黒は、咲菊やメオへ挨拶もそこそこにベッドに沈んだ。
 次の日、咲菊は甚爾と五条を呼び出した。伏黒はあまりいい顔をしなかったが、それでも、今回の依頼に関係している。メオを含めた五人が、いつもの突き当たりの部屋へ集合した。伏黒はイヤイヤながらも甚爾や五条にコーヒーを出す。砂糖が足りないと文句が飛んできたが無視した。

「問題は、差額の一億だな」
「それって、今は?」
「分かんねぇけど、状況だけ見たらやっぱ、な……」

 甚爾の言葉は尻窄みになった。だが、その続きを想像するのは簡単だった。咲菊はメオに目を向けて言った。

「メオ、二階へのキッチンへ行って砂糖を取ってきて欲しいんだ。頼んでも構わないかな?」
「うん……」

 まだハッキリしていない事が多すぎる中、中途半端な報告はしない主義だ。

「確かに、中途半端だよねぇ。一億じゃなくて、三億持ってメオと逃げればいいのにね」
「利益の確実性を取ったのかもしれない。三億を一度に動かすより、小分けにして、まずは安全な場所に隠す。リスクは分散した方が戦略的と言えるからね。でも、予想以上に岸和田会の動きが早かった」
「それで、残りをメオに?」
「じゃあ、メオの金は回収する気か?」
「いや、それはないんじゃないかな。相手はヤクザだ。事が露見した時点で戦略を変え、メオを囮に使った、か……」

 咲菊の言葉は酷いものではあったが、現実的と言える。それでも、だ。

「自分の娘を囮に使うような人か?俺はメオから話を聞いたが、そういう事をするような人には思えなかったぞ」
「可能性の話だよ、恵。これが確実とは言えない。まだ分かってないんだ。だから、全ての可能性を虱潰しにしていくしかないんだよ。それで残ったものが、草壁正也の真実だ。まずは金の流れを追って草壁と岸和田会の接点を見つけるのが先決だね」

 話し合いは、ここで終わった。五条と甚爾はそれぞれ用事があったらしく、咲菊の家を出た。残された伏黒と咲菊の間には、冷たい空気が漂っている。咲菊は何か考え込んでいるのか、黙ったままだ。伏黒は部屋を出てメオの元へ向かった。

「草壁正也は、メオを大切にしてる。恵はそう思っている。その根拠は……天国の、母さんが傍についてる……」

 咲菊の呟きは誰にも聞かれる事はなかった。

「メオ、父親から何か聞いてないか?」
「何かって?」
「例えば、タイに戻るとか」
「聞いてないよ」
「……そうか」
「なんで?」
「いや、なんでもない。悪ぃ……」
「助手さん?」
「草壁正也、もう帰って来ないと思う。きっと一人で逃げたんだ」
「……メオ、捨てられた?」

 独り言、それも口に出していないと思っていた伏黒は慌てて口を閉じたが、遅かった。メオの不安そうな顔を見て、今度は何も言えなくなった。俺が親父に捨てられたから。だから、そんな事を思ったのかもしれない。アイツは家族を捨てた。咲菊の父親だって、ずっと仕事で家に居ない。伏黒の周りにいる父親という人間は、みんなどこか歪で、真っ当じゃない。だから、メオの父親に対しても、そんなフィルターがかかってしまった。でも、これは言い訳だ。父親に大切にしてもらえているメオに対しての。嫉妬か。伏黒は心の中で考える。メオが肩を揺らして「嘘だ、お父さん、絶対そんな事しないもん」と叫んでいても、どこか雑音のように聞こえる。

「お父さん言ってたもん!メオは大切な娘だって!そんな事しないよ!だって約束したもん、ずっと一緒にいるって」
「そんな約束アテになるかよ!」
「……約束、したもん」

 伏黒のポケットに入っているスマホに連絡が入る。咲菊からだ。

{一階に降りてきて)
{恵一人で)

 一階、廊下の突き当たり。ドアの開いた部屋。咲菊はカッターナイフで、メオの鞄の中を切り付けていた。

「見なよ」

 鞄は二重底になっていて、切り付けた箇所から赤い携帯電話が見えている。

「理論が百年かかって、橋頭堡を築いて、ようやく辿り着く地に、信仰の翼は一夜にして至るってね。灯台もと暗し、とも言うのかな。天国の母さんが傍についてる。私たちは草壁の言葉を、もっと素直に受け取るべきだったんだよ。メオは答えを直感していた。父親の無実と、その言葉の意味をね」

 メオの持ってきた鞄の底に、赤い携帯電話が隠されていた。開くと待受画面には家族の写真が。空港だろうか。メオと草壁正也、そして今は亡きメオの母親だ。二人が携帯電話越しにメオの事を思っていたが、その静寂は突然、消える。
 ガシャン!
 何かが割れるような音だった。咲菊は手元のノートパソコンを操作し、家の周りに付けた監視カメラの映像をチェックする。岸和田会の人間だろう。数人が、咲菊の家の前に屯していた。

「そして生者の声は呼び寄せる、か」



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