それでも世界は - 相澤消太


 私は自分を犠牲にしてまで、誰かを助けたいと思ったことはないよ。自分が良ければそれでいい。大多数の人間はそう。私もその大多数の一部だ。でも、君は違う。誰とも知らない他人を助け、その上を裸足で歩いて生活している。馬鹿みたいにね。
 世界は残酷だ。この文の後には大抵、そして美しいなんて言葉が付いてくるけれど、美しい訳がない。現実を見ろよ。自然は破壊され、動物は絶滅に至る。貧困に喘ぎ、子供は死んでいく。よからぬ事を仕出かし、自分の見知らぬ所で人が殺し合っている。政治の裏では金が動き、その金は元はと言えば、少女の純潔な其れだったはずだ。これのどこが美しい。
 大多数の人間は、生きる事を続けるだけで、感覚が麻痺し、見て見ぬ振りをするのが上手くなる。母親の肉を引き裂いて生まれてくる子供が、どうして泣き叫ぶと思う。この世界がどれだけ醜いか知っているからだ。ただ、それを伝える術を持っていないから、泣き叫ぶしか方法が無いんだ。
 そう思うと、つくづく生きていることが馬鹿らしく思える。かと言って、それが死にたい理由にはない。むしろ生きることは好きだ。でも、向き合わなきゃいけないクソみたいなことがありすぎる。この世界で本当に美しいのは、水平線に消えていく夕日だけだ。

「そういう風に世界を見た事が無いだろ」

 ベッドの上で横たわる斎は、相澤を睨みつけながらそう言った。

「人間は死にかけると走馬灯を見ると言われているけれど、私はそんなもの無かったな。
こんなクソみたいな所で死んでたまるか。
それだけだった」

 斎は大きなため息を吐いて、棚の上に置いてある本を見た。何を考えているのか分からない顔をして。

『ことによると、われわれは死んだ後でも感覚を持っているかもしれないよ。ぼくはヴェリエールを見下ろす大きな山の中の、あの小さな洞穴で眠りたいな。眠るというのがぴったりしている。前に話したことがあるけど、ぼくは夜あの洞穴に隠れて、フランスでもいちばん豊かな地方を遙かに見下ろしながら、野心に胸を膨らましたものだった。あのころは、それがぼくの情熱だったんだが。……ともかく、あの洞窟が懐かしい。それに、あれはなんといっても哲学者の心をそそるような場所を占めている。……そうだ!ブザンソンの善良な修道会員たちは、なんでも金儲けのたねにするから、きみがうまく掛け合えば、ぼくの死骸を売ってくれるかもしれないよ……』

「スタンダールの赤と黒を読んだことは?」

 相澤にそう問いかけた斎の声は掠れていて、聞き取るのに少し時間が掛かった。

「無い。本を読んでる暇なんて無いからな」

 本は良い。自分が一生を賭けて天才になろうとしなくても、一晩で天才からの恩恵を受ける事が出来るから。でも、

「君がよく言うだろ、時間は有限だと」

 全く以て、その通りだよ。この本を読めば、あの本は読めない。だからこそ、成る可くいい友達を選ばなければ。良質で、上質な友達を。選択を間違えれば、それでお終い。人生と同じだ。

「お前の友達は、本しか居ないらしい」
「馬鹿にするなよ、哲学者だっているさ」

 ただ、そいつらは一概にいい友達とは言えないけれどね。

「ほら見ろよ、夕日がこんなにも綺麗じゃないか」

 私にはもう見えない色だけれど。それでも、きっと。世界はこんなにも美しい。


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